さて次に運動、身体の動かし方に関してもやはり文明の発達の短所の方が悪い影響で出てきてしまっていると思えます。というと科学の発達が悪い犯人のように思えてしまいますが勿論そうではなくて悪いのは文明の利器にあぐらをかいてしまった人間の方です。動く手段である乗り物の登場がその一番大きな理由ですが、電車や車や飛行機などの登場は、人間の移動をとても早く楽にしてくれました。でもその代わりにそれ以前まで常に歩き続けてきた人間を歩かなくしてしまいました。乗り物の誕生はわずかこの数百年のことです。それ以前の数百万年もの間ずっと歩き続けてきた人間が歩かなくなってしまったのです。これは人間にとっては大変大きな変化だといえます。

先にも出ましたが、人類の最初の祖先は400万年以上も前のアフリカのアルディーとかになるそうです。お猿さんたちは当時からその後もずっと木に登り続けて移動に手も使い続けてきたのでいまだに手の力が大変に強い代わりに足腰が人間と比べると大変ひ弱です。そして人間はその頃から2本足を使って歩き始め、歩き続けてきました。つまり何百万年もの間に歩き続けた結果として現在の大きくて強い足腰が出来上がっていえるといえます。猿から人間への進化を1コマ漫画のように表した絵を時々見ますが、一番左端に猿らしきものが描かれていて、一番右端に人間らしきものがいます。そしてその中間に何種類かのご先祖たちが表されて、左から右に行くにしたがって丸い背中がまっすぐになると同時に身長が伸びていきますが、あれが数百万年もの間の人間の進化を大変良く表していないでしょうか。

アルディーの頃の身体は非常に小さかったそうですが、歩き続けたことによって段々と身長も伸びたのではないでしょうか。つまり、ずっと歩き続けてきた人間にとっては歩く運動が一番良い運動であるはずです。移動にも、餌を追うにも探すにも常に歩き続けてきたからです。人間の作り出した様々な乗り物は、この歩くという人間にとって一番大事な運動をごく自然に、そして極端に減らしてしまいました。乗り物の長所には計り知れない大きなものがありますが、その代わりに人間の身体にとって一番大切な動きである歩きという運動を極端に減らして足腰を使わなくさせてしまいました。

筋肉でも何でも使わなければ衰えてしまうのは当たり前です。怪我をしてギブスなどをするとよく分かりますが、僅か数日の間動かさないだけで人間の身体はリハビリが必要になってしまいます。動かさないということに対して身体は大変弱い仕組みにできています。ドアとちょうつがいではないのですから、動かすためにあるものが動かされなければ動かなくなってしまいます。いえ、ドアのちょうつがいでさえ長い間動かさなければ錆びて動かなくなってしまいます。車でもそうですが、毎日適度に使っている方が、長い間置いておくより調子がよくなります。動くようにできているものは動かさなくては駄目なのです。

人間の心臓は他の全ての動物たちと比べてその位置がかなり高いところにあり、そこから動脈で全身に血液を送ります。はるか下の方の足の先まで血液を送る時は重力の関係もあって楽ですが、その後今度は強力な重力に逆らって静脈で心臓まで血液を送り返さなければなりません。静脈には所々に静脈弁がついていて血の逆流を防いでくれていますが、それはまさに重力に逆らって血液を上方の心臓に送り返すための進化の結果ではないでしょうか。もし人間の身体に合った正しい動きを行っていると、筋肉が動くので太くなったり細くなったりしますが、その力で静脈弁で仕切られた各血管の一部分、一部分がポンプのようになって血液を心臓に戻す助けをおこなっているそうです。だから寝ている時が身体が一番楽なわけです。

人間の姿勢で一番楽な順からいえば寝ている時、そして座っている時、一番大変なのが立っている時ですが、それは重力の存在があるからです。病気になったら立っていられずに横になるわけですが、当然のことながらそれが一番楽だからです。物が落っこちてしまうという強力な重力は本来大変な力なのです。身体が少しの高さから落ちただけで痛いですが、あの力は24時間ずっと身体にかかっています。その力は静脈の中を通る血液にも働いています。だから類人から人類への進化の段階で静脈には開閉弁ができてきたと思われるのです。実際に静脈弁は内臓や頭部には見られず、四肢によく発達しているそうです。普段下に向かってたれている手にとっても、寝ている時などを除けばやはり下に向きっぱなしの足にとっても静脈弁もポンプの働きも大変大事なものではないでしょうか。

ということは、よく歩く人とそうでない人では血液の循環の具合も違ってきてしまうことになります。血液の滞りのない循環が健康に非常に大切で、病気の治癒にも大事であることは、血液が栄養も免疫も運ぶことからいうまでもないことだと思いまが、だからこそそれがスムーズに行われているかどうかが健康に大きく影響するわけです。最近水分を取る、つまり水を多く飲むのが健康に良いとされてミネラルウォーターのメーカーが売上を伸ばしているようですが、水を飲めばそれだけ体の中で水の循環が行われることになります。

身体の中の水、あるいは血液の循環だけではなく、この世の中では循環が欠かせないようにできているみたいです。例えば水を動かさずにじっと置いておくとよどんできて汚くなっていきますが、フィルターポンプなどを使って水を循環させておくと、つまり動かし続けているときれいに保たれるのはアクアリウムの業界では知れ渡った事実です。しかもその循環、流れが多くて速いほど効果が大きくなります。人間の身体も、血液を常に動かし続けるだけでなく、その循環がスムーズであればあるほど血液によって栄養や免疫が滞りなく運ばれるわけですから身体にいいわけです。

血の循環だけではなくて、振動も身体には大事であることが分かってきています。骨折の後の骨のつき具合も、ある特定の振動を与えている方が、安静にしているよりも直りが早いそうです。あの大リーガーの松井選手が骨折した時もその治療方法が取られて直りが早かったそうです。そういえば宇宙飛行士は地面とのコンタクトもなく重力もないので地球に帰ってくると骨が弱くなってしまっているそうです。それは水泳に関しても言えることで、水泳の唯一の欠点は地面とのコンタクトがなくて骨が鍛えられないことです。

腰痛のある人がウォーキングを始めてしばらくすると腰痛が直ってしまうというお話しを良く聞きますが、それはごく当たり前のことのように思えます。腰痛が出たらウォーキングをして直ったというのは間違った表現で、本当のところは普段歩くという人間の身体にとって必要不可欠な運動をしていないから腰痛などの身体の痛みが出るというのが正しい表現ではないでしょうか。車での移動が当たり前のようになってしまい、本来なら歩くはずの距離でもつい車を使ってしまっていないでしょうか。人間の足腰を見れば、それが座るためにできたものではなくて歩くためにできたものであるのは一目瞭然です。椅子は座るためにできていますが、人間の身体は座るためにできているわけではありません。人間の身体は動くためにできています。座るのは休むためだけです。

腰痛に限らずに四十肩でもなんでも、体中様々な部分の痛みの原因のほとんどは運動不足によるものからではないでしょうか。手も勿論動かすためにできていています。前方、横、上下、そして一部を除いた後方、いろいろな方行に動かせます。そのようにあらゆる方向に動かせるように関節も筋肉も筋も作られています。それをあらゆる方向に動かさずに一日中座ったままでパソコンのキーボードだけ打っていたら衰えてしまうのは当然と思われます。机に対して椅子の高さが少し低いと肘が机の上に乗ってしまって肩がこるのはご存知でしょうか。それが不自然だからです。停滞がよどみを生むのは水だけではなく、組織も人間の身体も同じのようです。毎日正しい運動をする、例えば歩く、ウォーキングをする、ラジオ体操をする、というのは身体にいいのではなくて、必要不可欠なものなのです。ドイツ語には、“Wer lastet, der rostet”という、休むものは錆びるという言葉があるくらいです。

鳥は飛ぶために手(羽)が発達していて足が衰えているので長い距離を歩けない代わりに空が飛べます。魚は泳ぐために流線型などをしていて色々な鰭がありますが陸に上がれません。モグラは土の中を穴を掘って進みやすいように手の力が強くて爪も強いですが、その代わりに必要のない眼が衰えています。元ケンブリッジ大学教授、車椅子のホーキング博士は、人間は将来、環境の変化についていけなくなって自らの身体に遺伝子工学を使わざるを得なくなるだろうと言ったそうですが、それが大きな環境の変化についていけない身体を変えるためならまだ分かりますが、退化してしまう身体を救うためでないことを願っています。

歩くために身体が出来上がっているのだから、身体を健康に保ちたければ毎日頻繁に歩けばよいわけです。どのくらい歩けばよいのかは実は自分の身体が教えてくれます。どのくらい休めば良いのかも教えてくれますが、そちらの方は腰痛などの痛みとなって出るので時間もかかってリカバリーが大変ですが、毎日歩くようにして歩きすぎにはすぐにサインを出してくれます。でも最初は無理をせずに週に1回でも2回でも、距離は1kmでも2kmでもいいのです。大きな個人差がありますが、徐々に回数と距離を増やしていって毎日3、4km以上歩くのが理想ではないでしょうか。回数や距離数が多くなってくると疲労や筋肉痛でサインを出してくれるので距離や回数を減らします。でも人間の身体は面白いもので、最初は僅かな回数、僅かな距離で疲労や筋肉痛のサインが出てきますが、それが段々と身体が慣れていくとともに回数も距離も伸びてきます。それでもその都度サインを無視せずに続けます。

一番いけないのは始める時についつい頑張り過ぎてしまうことです。ついつい頑張ってしまうと回数も多過ぎ、距離も多すぎ、そしてそれが飽き、三日坊主につながります。マイペースかあるいはそれよりもさらに少な目ぐらいで毎回やめておくと次が楽しみになって続けやすくなります。動かすべき身体を動かさなければ動かなくなってきたり、使いすぎればつったり腫れたりと、身体が色々なサインを出してくるので、それに耳を傾けることが大事ではないでしょうか。運動をしなければ体がなまり、運動をし過ぎれば疲れるなどするので、素直にその声に従って身体を動かしましょう。

ちなみに私自身はウォーキングではなくてジョギングをしていますが、それはジョギングの方が短い距離と時間で効率的に身体が温まるからですが、本来はジョギングよりもウォーキングの方がいいはずです。人間はずっと走り続けてきたのではなくて、歩き続けてきたからです。ジョギングだと膝も痛めますがウォーキングの場合はそんなこともありません。時間のない人にはウォーキングよりもジョギングの方がいいということになってしまうかもしれませんが、本当はウォーキングの方がお勧めです。そしてそのウォーキングも、チンタラと歩くのではなくてなるべく大またで早く歩きます。それによって身体もよく温まり、血液の循環も良くなります。血液の循環を良くする、汗をかいて身体の水の循環をする。それが大事ではないでしょうか。

ところで全身を動かすラジオ体操ですが、長い年月の間に数々の改善などもあってあれは人間の身体にとってかなり考えられた究極の動きだそうです。元々はアメリカから来たものだそうですが、国が奨励して全国に広まり、ラジオ体操を毎朝行うだけで統計的に病欠が減るそうです。そこで多くの企業に取り入れられています。大きな企業ともなると総務には総務の専門化が集っていますので、自然とその方面を勉強してラジオ体操を行うと病欠が減るので採用して毎朝会社で行うということになるようです。ユーチューブなどで第一も第二もすぐに出てきますので、両方を毎日行うことをお勧めいたします。欲を言えば朝と午後の2回行いたいところです。

長所には必ずその裏に短所あり。楽あれば必ずその裏に苦あり。その逆もしかり。楽ばかりしていたらしっぺ返しは必ずやってきます。文明の利器で世の中が便利になったからといってそれにあぐらをかいて頼りきってしまってはおかしなことになってしまうのです。若い時の苦労は買ってでもしろとはいいますが、正にその通りであります。いえ、若くないからといって苦労が不要になるわけではないと思います。むしろ“若い時の”という部分は不要だと思います。楽をすれば衰える。そういう意味では苦というか、身体を鍛えるということは健康にとって大切なことではないでしょうか。

ところで以前、地図が読めない女、話を聞かない男という本がヒットしたと思いますが、面白いTV番組を見たことがあります。方向音痴と思われる人達と、そうでない人達の頭に目の動きが見れる特殊なセンサーの付いたヘルメットをかぶせて、その人達が移動している最中に何を見ているかを調べることができる実験です。 方向音痴でない人達は、ビルなどの動かない大きなものを目印として見ているのですが、方向音痴の人達は皆さん面白いように車などの動くものばかりを見ています。道を覚えなければいけない時に、どうして動くものばかりを見るのか私にはその思考回路が理解できませんでしたが、実はうちの奥さんは後者のようです。 

そしてうちの奥さんを見ていると、どうやらあのTVはわざと面白おかしく作ったわけでもなんでもなくて本物だと思いました。なぜならうちの奥さんときたら、何度同じ道を通っても一向に覚えません。 覚えるつもりがないのか、動くものばかり見ているからなのか。永遠のペーパードライバーで運転に夢中で周りを見ることなどできないのか。多分それら全てかもしれません。注意深く彼女の運転を見つめていると、確かに運転に一生懸命で景色やビルなどの目印を見ている余裕はなさそう。前方に対するその視野の角度はわずか30度位に思えてきてしまいます。 

それも歯と食事、身体のつくりと歩く運動などと同じように進化の結果でしょうか。太古の昔から男は家族のために外に出てひたすら食べるものを探して歩かなければなければなりませんでした。誰が何と言おうと、とにかくただひたすらに食べ物を探しにです。でないと家族が飢えてしまいます。それで男は話を聞かなくなり、地理に詳しくなった。男がもし方向音痴だと、家族が待つ元に二度と戻れません。(中には例外もいるでしょうが)その点女性は留守を預かる身。よくおしゃべりをするし、家族みんなの話も聞く。その代わりに地理に明るくなる必要がない。それにしても鮭や渡り鳥の地理の明るさには恐ろしいほどのものがあります。