一宮、教師による中三いじめ自殺 | 学校なんていらない~不登校小学生ちゃりこの父娘自転車旅行記

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いじめにあって不登校になり、父とホームスクーリングですごした女の子、ちゃりこが日本各地を自転車で旅をして、たくさんの人たちとふれあい、成長していった記録。腐りきった学校、卑怯な教師、そんなものは捨て去ってもいい。人の優しさ、親切、は学校の外側に必ずある。

いじめ自殺、というが、正確には

「いじめ殺し」であろう。

私が何度も何度も何度も何度も、口を酸っぱくして言ってきた、有事の際の教育関係者の卑劣さ、醜さ…

また、いやというほど表に出ていると思う。

当初の言い方から、「いじめという認識ではなく、不適切な指導だった」
という言い方に変えたらしい。

ちょっと待てよ、
「いじめられた側が、いじめられたと感じれば、それは、いじめだ」
って、自分たちの旗色や都合が悪くなったからという理由で、いじめの定義を変えたのは、当の自分たち教育関係者だったはずだろ。
卑劣な教育関係者が、いじめと認識するかしないかなんて、問題外のはずだ。
というか、認識なんてする来もないくせに。
認識しない、という言い分が通用するということは、見てみぬふりが通用するということだ。
かつてもいろいろな学校でいろいろな見てみぬふりでいじめ殺しをおこなわせてきたよな。
暴力の現場を
「やりすぎんなよ」と言って立ち去った、いじめる側に対してとてもとてもとても寛大な担任、いじめられた子どもを放置して自殺させて、自分はのうのうと生きているんだろうな。当時、休職ですんでいたからな。
今回の一宮の中学の教師も、こんなことが言われているらしい。
「静かな生徒にはしつこいくらいに注意を繰り返すが、【活発な】生徒にはほとんど注意をしない」
わかるよなあ。
そういう卑怯者教育関係者、塀に囲まれた学校って場所に、たくさん潜んでいるんだよなあ。
【活発な】って、いいようにすり替えてるけれど、要するに、いじめる側、威張り散らす側、騒ぐ側、ルールを守らない側のことでしょうね。
言ってみれば、ちゃりこみたいな子どもに対して、危害を加える側の人間を、卑劣な学校社会では【活発な】子どもたち、と表現するんだよ。

板橋区立の小学校も絵に描いたような卑怯者教師揃いのひどさだったし、今の私立でも、中一のときの担任は【活発】優遇のヒステリーオバハンだったし、

自殺したいと思う子どもが出ても、当然だろう。

第三者委員会、って、第三者だったためしはないからね。
自分たちの息がかかった、自分たちに都合のいい人間を集めて、第三者って主張するだけだから。

学校なんていらない、

人が生きていくために、学校を利用するのは構わないかもしれない。

でも、学校なんかに振り回される筋合い、あるか?

まともな状態で存在していたとしても、あれは、【必要悪】でしかないんだよ。

人生の中で、ほんの数年間在籍するだけの学校ごときに子どもたちが振り回される。
これは、学校制度が絶対的であるかのような【洗脳】なんだよ。

一定の年齢に達すれば、問答無用で子どもたちを顧客として確保できる。
塀に囲まれた中で、傍若無人な態度をし放題。
おいそれと居場所を変えることのできない子どもたちの弱味につけこんで。

学校なんていらない、って当たり前に言えるような世の中にならないとね。

なんたって、価値観の多様化の時代なんだしね。

認識、指導、第三者…
曖昧な、逃げ道確保しておくためだけのような言葉ばかり使いやがって…

奴らの見解によると、大暴れしていじめをしている生徒に
「〇〇く~ん、いけませんよお~」
なんて、猫なで声をかければ、指導したことになるらしいからな。
校長や教育委員会の指導なんてのも、同じことだよ…