第二百二十三話 猫のお医者さん・夏の病気編(後)
※前々回 第二百二十一話 猫のお医者さん・夏の病気編(前)
前回 第二百二十二話 猫のお医者さん・夏の病気編(中)
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もうすっかり、陽が暮れてしまった。東の空からは、大きな満月がぐんぐん昇っている。
僕はハンペンの後ろについて、長い坂道をのそのそと歩いていた。やたらとくねくね曲がる急な坂道に、僕はいいかげん辟易していたのだ。
「ま、まだ歩くのかい」
前を悠然とゆくハンペンに、僕は情けない声で聞いた。
「あ? まだまだ先は長いぞ。お月さんがてっぺんに来るまでにゃあ、登らなきゃいかんからな。ほら急げよ」
ハンペンはそう言って僕にハッパをかける。とはいえ、慣れない四つん這いの姿勢で一日歩いて来たのだから、僕はもうすっかり疲れてしまっているのだ。
「ひい、はあ」
おなかも空いたし、喉も渇いた。ハンペンだってきっとそうに違いない。なのにハンペンは、一度も休もうとせず、黙々と歩き続けているのだ。
猫ってこんなに忍耐強い生き物だったんだろうか。あのお気楽な印象からは想像出来ないのだが。
それとも、僕がただ軟弱なだけなんだろうか。
そんなことを考えながらも、
「ひい、ふう」
長い長い坂道を、僕は歩き続けた。
* * * * *
「も、もうだめ」
どたりと倒れ込んでしまった僕を、ハンペンは情けなさそうに見る。
「おいおい、もうすぐそこだぞ。ほれ気合い入れろ」
「そんなこといったって」
「猫神さんのお社は、涼しくて気持ちいいんだぞ。こんなとこにいるよか、よっぽどいいぞ」
そうハンペンに急かされて、僕はやっとのことで立ち上がった。よろよろとハンペンについて歩いていくと、白っぽい色の鳥居が、うすぼんやりと見えてきた。
「さあ着いたぜ」
ハンペンはそう言って、その場に行儀良く座った。僕もその隣に、少々へたったまま座り直す。
僕は眼を凝らして、鳥居の向こうをじいと見てみた。すると、真っ暗闇の中から、うっすらと光が洩れてくるのが判る。
「ほらチクワ、行けよ」
ハンペンは僕にそう促した。
「えっ、僕が」
「そうさ。猫神さんが呼んだのは、お前だからな。何の用があるのか知らねえが」
「でっでも、なんだか、こわいよう」
「大丈夫だよ、取って食やしねえだろ。ほら行けって」
じろりと睨まれて、僕はおずおずと鳥居をくぐった。そうして、ぼんやりと洩れている光のほうへと、歩いていった。
それは小さなお社だった。周りには猫の人形だのはりぼての招き猫だのが、ずらずらと並んでいる。光はお社の扉の向こう側から、ちらちらと洩れて来ているようだ。
「で、僕にどうしろってんだ」
僕がそう呟いた瞬間、
「どうしました?」
「うわっ!!」
にゅう、と大きな黒猫の首が、お社から突き出てきたのだ。僕はびっくりして思わずのけぞった。
「ああ失敬。どうもこうやって聞くのは癖でね。どうだい猫成分の摂取は十分に出来たかね」
その黒猫、いや黒猫の首は、僕をじいと見てそう言った。
「ってことは、ああ、あの病院の先生」
「そうだよ。まあ、丸一日もこの島にいれば、否が応でも猫成分まみれになるだろうからね。どれどれ、じゃあ診てみようか。はい口あけて。あーん」
「あーーーん」
「うんうん、いい口の開きだ。ほほう、今日の晩ご飯はカワハギだったのかね」
「はひ」
「うらやましい。私もたまにそっちに遊びに行きたいよ。はい、よろしい」
「あのう、それで」
「うん。症状はどうだね。頭はまだぼんやりするかい。食欲は戻ったかい」
「ああ...」
ぼんやりも何も、疲れてあちこち痛くて、神経がむしろ高ぶっている。
そして、えらく腹が空いて、もう倒れそうだ。
「いや、逆の意味で大変です...」
僕がそう言うと、
「なるほど、では治療は成功だな。めでたしめでたし」
と言うが早いか、黒猫の首は、するするとお社の中に引っ込んでしまった。僕はお社の中を、眼を凝らして覗いてみたのだ。すると、
「ナベシマ君、彼はもう大丈夫そうだよ」
「あらそうですか」
「ほら見てごらん」
小さな窓のようなところから、光が洩れてきている。その向こうには、あの美人の看護士さんがいた。
「あらあ、かわいい~。すてきな猫ちゃんになったわね~」
彼女はそう言って僕を見て、笑う。僕はなんだか、それだけで嬉しくなって、
「ぐるぐる~」
不覚にも、喉を鳴らしてしまった。
ぜひこのまま、あのお膝でなでなでしてもらいたい。ぜひともそう願いたい。なんて素敵な。
「あ、あのう」
「それでだね君」
「のわっ」
僕の妄想を突き破って、またしても、にゅう、と黒猫の首が突き出てきた。
「なっ、何ですか」
「そろそろ君は、こちらに戻ったほうが良さそうだ」
「そうなんですか」
「うむ。あまり人間を猫の世界に置いておくわけにもいかんからな。治療が終わったらさっさと戻って来て貰わないと」
「はあ」
「なんだお前、人間だったのか」
何時の間にか隣に座っていたハンペンが、僕を見て目をまんまるにする。
「あっ、ご、ごめん、別に隠してたわけじゃ」
「ふうん、まあいいさ。俺達猫はそんなこまっけえことはどうでもいいからな」
そう言ってハンペンはにやりと笑う。顔は怖いけど、面倒見が良くて、気持ちのいい奴だな。僕はそんなことを考えていた。
「では、早速戻って来てもらおう」
黒猫の首が話を続ける。
「はあ、でもどうやって戻るんですか。そっちに歩いて行けばいいんですか」
「駄目だよ。これは所謂プロジェクタに過ぎないんだからね。君がこっちに来るには、また催眠術を使わなければならない」
「でっ、でもここには看護士さんはいませんよ。なでなでしてくれないと」
「助平なことを考えるものではないよ君。ナベシマ君がいなくても、君はちゃあんと帰って来られるさ。ほれ、このお社の基台に置いてある、小さな木の棒を咥えてみたまえ」
「ええっと...ふぁい、こうでふか」
「そうそう。そうして、その水の入った缶を、覗き込んでごらん」
僕は言われたとおりに、僕の顔より少し大きいくらいの缶を覗き込んだ。
缶いっぱいに入った水が、空を映している。月明かりがきらきらと反射して、缶の中には一匹の猫の顔が照らし出された。灰色の縞模様で、鼻に黒い点がついてる、なんだか情けない顔の猫だ。
そうか、これが。この猫が。
僕なんだ。
「チクワ」
ふと振り返ると、ハンペンが行儀良く座って、僕を見ていた。
「またこいよな」
僕は木の棒を咥えたまま、こくりと頷いて、また缶の中の自分を見つめた。
月がずんずん近くなる。僕の顔はますます明るく照らされて、眩しいくらいだ。
「さあ眼をしっかり開いて」
黒猫の声が聞こえる。僕は思いきり目を見開いた。その瞬間。
大きな月が、缶の内側にぴったりと収まった。
光が溢れる。
僕の全身を、月の光が照らす。
僕の眼が、猫の眼が、ぎらりと光って更に反射する。
眩しくて眩しくて、僕は思わず、
眼を閉じて。
* * * * *
「まぶしいっ」
叫んだ。
「うわっ、生きてた」
近くで男の人の声がした。
光のせいで、まだ眼がちかちかする。僕は眼を擦りながら、ゆっくりと起き上がって辺りを見回した。
夜の暗い路地だ。向こうにはコンビニの明かりが見える。僕の住んでるアパートの近くの。
「だ、大丈夫かねあんた」
と声を掛けられて、僕はその声の主を見た。懐中電灯を持った警官が、僕を不審そうに見ている。
「は、はい、大丈夫...」
と言いかけて気が付いた。僕の手足。髪の毛。ほっぺた。
ぱたぱたと叩きながら確認した。ちゃんと人間に戻ってる。
「うわ人間だ」
「...大丈夫...なのかい本当に」
警官はまた、僕の顔を懐中電灯で照らす。
「ま、眩しいですっ」
「ああごめん。それにしても、どうしたんだね。こんなところで寝そべって。いくら暑い夜だからって、風邪ひくよ」
僕はそう警官にたしなめられ、名前や住所を聞かれた。別に何も悪いことはしてないので、普通に答えたのだけれど。
警官が書類に何か書き込んでいる間、僕は改めて自分の周りを見渡してみた。
コンビニのはす向かいの、狭い路地をちょっと入ったところ。高い塀に囲まれたこの建物。そうだ。僕はここで診察を受けて...
「あっ、あのっ」
「む? 何だね」
僕は警官に尋ねてみることにした。
「この建物、なんとか診療所っていう建物は」
「ああ、随分前から廃屋になっていてね。診療所? そんなことがどうして判るんだね」
「だってそこに看板」
「ないよそんなものは」
「えっ」
「看板なんてどこにもないじゃないか」
そう言われて、改めて門の周りを見てみたが、なるほど確かに何もない。看板らしきものがあった跡くらいはあるけれど。
じゃあ、僕が見聞きしたのは、いったい何なんだ。
「ともかく、これからは気を付けてね。またそこいらで寝ちゃ駄目だよ」
「はい、すみません」
ぺこりと頭を下げ、僕は警官を見送った。
「ふう」
まさか、全部夢だったんだろうか。
なんだかとんでもない一日だった。会社を休んで病院に行こうとして...。
そういや、僕はなんで病院に行こうと思ったんだっけ。何処か具合が悪かったんだっけ。
いろいろ思い出そうとしたが、
ぐう。
途端におなかが鳴った。怖ろしく腹が減っていることに気が付いた。
「うわー、くれくれ」
「おいらのだいっ」
「あたしのよっ」
餌に群がる猫達の叫び声が、耳の中でこだました。
やっぱり夢なんかじゃない。これはきっと。
「いかにのんびりお気楽に暮らすか! これが猫の生きる道ってもんよ」
ハンペンの声が聞こえた。そうなんだ。
いろいろややこしい世の中だけれど、もっと簡単に、お気楽に。
僕に足りなかったのは、きっとそれだ。
今朝はあんなにぼんやりしていた頭が、何時の間にかスッキリと晴れ渡っている。そしてとにかく、
ぐううううう
「うわう、も、もうだめだ」
腹が減っている。
僕は腹を押さえて、よろよろとコンビニへと歩いた。なんでもいい、早く腹に入れなきゃ、倒れてしまう。
「にゃあおう」
背後で猫の鳴き声がした。歩きながら、ゆっくり振り返ってみると。
黒猫と白猫が、塀の上に並んで座って、僕を見ていた。
「にゃーあおう」
黒猫は何か言いたそうに、高く啼いた。
白猫は悩ましげに、尻尾をくねくねと動かした。
「チクワさん、またいらしてね」
ま、まさか。
満月が空のてっぺんで、僕を青白く照らしていた。
おしまい
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