第百五十七話 ノラの行く末(79歳 女)
※第六話 祭壇に猫(68歳 女)
第三十七話 梅雨の晴れ間に(72歳 女) もどうぞ。
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庭の小さな梅の木が、今年も花をつけた。
風はまだ冷たいが、陽は随分と高くなり、縁側の温まる時間が長くなったようだ。
春はもうすぐそこまで来ている。
私は久し振りに縁側を開け放って、陽だまりの中に座った。
「みゃう」
部屋の中からノラがのそのそと出て来る。
「ほら、こっちいらっしゃい」
と声をかけると、ノラは私の傍らでごろりと寝転がった。
* * * * *
私の家に時々やって来るだけだった野良猫のノラは、二年ほど前から、この家に入ったきり外に出なくなってしまった。
ノラと出会って十三年ほど経つ。もうすっかり婆さんなのだろう。私と一緒だ。
要するに、ノラはこの家を、終の棲家と決めたというわけだ。
「ノラや、今日はあったかだねえ」
と声をかけながら、私はノラの背中を撫でてやる。
一日のほとんどを寝て過ごすようになってしまった。もう高いところへも登れない。
そのくせ食べ物の好みはかなりうるさい。安売りのフードなど見向きもしないのだ。
私も頑固なところがあると思うが、ノラはもっと頑固な婆さんらしい。
私は思い立って、魔法瓶と急須と湯呑みを持って来た。
そうして緑茶を淹れ、それを啜りながら庭を眺めた。
相変わらず手入れの行き届かない庭だが、私にとっては心の落ちつく風景だ。
「おばあちゃん」
と、若々しい声が庭に響いた。
ふと見ると、学生服姿のリュウタ氏が、垣根の向こうから手を振った。
なんと珍しいことに、女の子を連れている。
「あらまあ、いらっしゃい」
私はふたりを縁側に誘った。
* * * * *
リュウタ氏は、ひょんなことから、私の家に遊びに来るようになった男の子だ。
塾や学校、習い事の帰りに時々ひょっこりと現れ、他愛のない話をしていく。
初めて会った時はまだ小学三年生だったが、今では高校生。すっかり大人びて、見上げるほど背が高くなった。
それでも、遊びに来る時に見せる屈託のない笑顔は、あの頃と全く変わらないけれど。
「おばあちゃん、あのね、同じ部活の子、連れてきた」
とリュウタ氏は照れくさそうに言う。
「こんにちは」
と、三つ編みの女の子は、ぺこりと頭を下げた。
「まあまあ、汚いところだけど、どうぞゆっくりしていって」
私は二人に茶を注いで、お菓子の鉢を持って来てあげた。リュウタ氏は大変なお菓子好きなのだ。
「ノラ、また寝てるよ」
かりんとうを頬張りながら、リュウタ氏はノラを見て言う。
「しょうがないわねえ、もうお婆ちゃんだから」
「うちの猫も、もうおじいちゃんで、ずっと寝てるんです」
と女の子が言う。
「あらそうなの。今いくつくらい?」
「えっと...。今年でもう十八歳です」
「うわあ、そんなに長生きなんだ」
リュウタ氏が驚く。私も驚いた。
「じゃあ、ノラももっと生きるよね」
「そうねえ...そうだといいんだけど」
私は、実は少々複雑な気分だ。
「あのっ、すみません、お手洗いお借りしていいですか?」
女の子が訊く。
「ええもちろん。そこの仏間を抜けた先、玄関の向かいよ」
「すみません、じゃ」
軽い足取りで女の子が家の中へ向かう。私はその様子をぼんやり見ていた。遠い昔の記憶が、やはりぼんやりと思い出される。
あの年頃、私は何をしていただろうか。
ボーイフレンドと並んで歩いたことなど、あっただろうか。
「どうしたの?」
リュウタ氏が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「え? ううん、なんでもないの」
「ふうん」
「可愛い子じゃないの、リュウちゃん」
「そう?」
「ええ。お似合いよほんとに」
「ちょ、そんなんじゃないってば」
ばりばりと煎餅をかじりながら、リュウタ氏は本気で照れている。こういうところが可愛いのだ。
「同じ部活ってことは、美術部なのねあの子も」
「そう。僕よりあとに入ったのに、うまいんだデッサンとか」
「へえ」
「それに勉強も出来るし」
「そうなの」
「うん...」
「こんなおばあちゃんの家に来るよりも、ちゃんとおうちに連れて行けばいいのに」
「駄目だよ! そんなことしたら」
リュウタ氏は言葉に詰まった。そしてとても小さな声で言った。
「ママが怒るよきっと」
「やっぱりそうかしら」
「そうだよ。こないだだって、部活のみんなで美術館に行ったんだけど、こっそりついて来てたんだもん」
「あらら」
「僕のやることは全部気になるんだよ、あの人は」
ふう、とリュウタ氏は溜息をついた。
彼から聞かされる話の七割方は、彼の母親についての愚痴だ。お陰で、まだ一度しか会ったことのない彼の母親について、私は随分詳しくなってしまった。
「そうはいっても、ほら、一人息子のことは心配になるのよきっと」
「そうかもしれないけど...。別に、悪いことしてるわけじゃないのに」
「そうよねえ、デートくらい普通よねえ」
「だからそんなんじゃないって!」
そこへ女の子が帰って来た。
「ありがとうございました。あれ、何なに何の話?」
「えっ、なななな何でもないよ」
このリュウタ氏の慌てっぷりといったら。私は思わず吹き出してしまった。
「ふふふ、可愛いガールフレンドね、って話してたのよ」
「おばあちゃん!」
リュウタ氏は真っ赤になって照れている。女の子のほうも耳を紅くして黙ってしまった。からかう積もりはないのだけれど。
「ほら、リュウちゃんが食べるから、彼女のお菓子が無くなっちゃったじゃないの」
「だからそうじゃなくて」
「ちょっと待っててね、お茶も淹れ替えましょうね」
「すみません...」
照れてむきになるリュウタ氏と、恐縮する女の子。最近はこういうカップルは珍しいんじゃなかろうか。
私はそんなことを考えながら、台所でお菓子とお茶の用意を整えた。
ふと振り返ると、縁側でふたりは、ノラを間にはさんで、微妙な距離を空けて座っている。その距離感が堪らなく可愛らしくて、私はしばし、ふたりの後ろ姿に、見とれてしまった。
* * * * *
「あのねえリュウちゃん」
「なに?」
バウムクーヘンのかけらを口の端につけたまま、リュウタ氏は私の言葉に応えた。
やっぱり私は、彼しか頼れる人がいないようだ。
「ひとつお願いがあるんだけど」
「うん。どんなこと?」
リュウタ氏は姿勢を正した。なんとなく、私の雰囲気を察したのかも知れない。
「私ねえ、来週から入院するのよ」
「入院? 何処か悪いの?」
「この年になったら、悪いところの二つや三つあるのよ」
と言って私は笑った。私の身体のことなど、そう深刻ぶることではないのだ。
「それでねえ、こんなこと、リュウちゃんに頼むのも何なんだけど」
「うん、僕に出来ることかな」
真剣な面持ちで、リュウタ氏は私を見る。女の子もリュウタ氏の陰から、私をじっと見ている。
「そうねえ...出来たら、そう出来たらでいいんだけど」
「うん」
「あの、ノラの世話を、して欲しいのよ」
「ノラの?」
矢張り図々しい望みだろうか。しかし口に出してしまったのだから、もう言ってしまおう。
「私は此処に戻って来る積もりだけど、どのくらい入院するか判らないし、それに戻って来られるかも判らないし」
「そんな...」
「たったひとりの肉親だった妹は、去年亡くなってしまったし。それにうちのご近所はみんな年寄りばっかりで、気軽にお願いするわけにいかなくて...。どうかしら、学校の行き帰りに寄ってくれるだけでも」
リュウタ氏はじっと私を見ている。
「...それだけでいいの?」
「え?」
「ノラの世話だけでいいの?」
「だけでって...」
「お見舞とかはいいの? 入院の準備とかは?」
「そんな、そこまで迷惑はかけられないから」
「別に迷惑じゃないよ。大丈夫だよ」
元気な声で、リュウタ氏は請け合った。
「毎日ごはんあげて、トイレ掃除して、それでいいんでしょノラの世話」
「そ、そうねえ、そんなとこかしら」
「お見舞も行くよ。何か欲しいものがあったら言ってよね」
「あら、まあ、まあ」
「あ、私も猫のお世話、手伝っていいですか?」
女の子が小さく手を挙げた。
「年寄り猫なら任せてください」
「まあ、ほんとに」
「ああ、そうだよな。僕よりこっちのほうが世話に慣れてるからね」
良かった。この二人なら安心だ。
「ありがとう。良かったわねえ、ノラや」
少し傾きかけた夕陽が、私達をオレンジ色に染めだした。
その光の中で、ノラは大きく欠伸をして、くるりと丸まった。
* * * * *
その夜、私は遺言書を書いた。
この家と土地、老後のために積み立てた預貯金、そして幾つかの会社の株。
これら一切を、ヒノ リュウタ氏に遺贈すること。
頭がはっきりしているうちに、手がまだ動くうちに、書いておこうと思っていたのだ。
私はまだ此処に戻って来られるかも知れない。しかし万が一のことがあったら。
親族もいないし、昔からの友ももういない。
たったひとり、私の友人と呼べるのは、リュウタ氏だけなのだ。
彼は迷惑だと思うだろうか。しかし国庫に全財産を持っていかれるよりはましな気がする。
彼が生きるための、ささやかな助けとなればいい。家も土地も売り払ってもらって構わない。
私という存在が、彼の思い出の中にほんの少し、残ってくれたら。
それだけで私は幸せだ。
「さあノラや、もう寝ましょ」
そう声をかけると、ノラは私の布団に潜り込んだ。
考えてみれば、夫が亡くなってから、私はこの猫に随分助けられてきた。この猫が家に来てくれるだけで、私は寂しさを感じずに済んだのだ。
この年寄り猫の最期を、私は看取ってあげられるだろうか。もしそうでなければ、リュウタ氏に辛い思いをさせることになる。
矢張り迷惑なことだろう。それをリュウタ氏は、何事もないといったふうで、引き受けてくれた。
「あなた、私は、寂しくありませんよ」
虚空に浮かんだ夫の笑顔にそう呟いて、私は眠りについた。
おしまい
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