第三十七話 梅雨の晴れ間に(72歳 女) | ねこバナ。

第三十七話 梅雨の晴れ間に(72歳 女)

※第六話 祭壇に猫(68歳 女)もどうぞ。

昨夜からの雨が、朝になって止んだ。
サッシを開けて縁側から庭に出ると、真綿のような湿気が辺りを満たしている。
柔らかい朝日が、サツキの枝に付いた滴をきらきらと照らす。
すう、と空気を吸い込んだ。土や草花や苔や虫の死骸や、いろいろなものの匂いが、肺を満たしていく。
もう子供の頃のようには、敏感ではなくなったのだろうが、私はこうして、生命の匂いを感じることが出来る。

「きゃん」

縁側の下から鳴き声がした。

「あら、ノラや、来てたのね」

私は、ノラにあげるキャットフードを取りに、台所へと急いだ。

  *   *   *   *   *

夫が亡くなった三日後に突然現れ、夫の祭壇をひっくり返してしまったノラは、その後この家に居着くようになった。
「ノラ」と何の気なしにつけた名前だが、偶々寄ってくれた町内会長が、
「それは内田百間の随筆に出てくる猫と同じ名前ですね」
と教えてくれた。
百間先生は、家に居着いてしまった野良猫のノラが失踪して大いに嘆き悲しみ、『ノラや』という随筆を書いたという。
私は正直、このノラに、そこまで思い入れがある訳ではない。たぶん何処かへ行ってしまっても、それはそれでこの猫の運命なのだから仕方ない、と諦めるだろう。
ただこの家へ寄ってくれる限りは、少しは世話をし、繋がりを持ちたいと思うのだ。
ノラのほうも、今の世話以上のことは期待していないようで、擦り寄って来ることは無いし、家の中にもほとんど上がってこない。
たいていは、縁の下で休んでいるか、せいぜい縁側に上がって眠る程度だ。そして、私が餌をやると、それを平らげてさっさと何処かへ引き揚げてしまう。
きっと他所に別宅があるに違いないが、それはそれで構わない。今のままの関係以上のものは、求めない。

はぐはぐと、ノラが餌を食べているのを、私は縁側に座って、ぼんやりと見ていた。
蚊取り線香の煙が、ゆらゆらと立ち上っている。
陽は少し高くなり、ノラは悠々と餌を食べ終え、縁側の、風通しの良い日陰に、ごろんと寝ころんだ。
私は、丸めてあったよしずを広げ、軒先に立てかけ、そこに出来た日陰にまた腰を下ろした。
もう梅雨も終わりだろうか。

と、
「すいません、あの」
垣根の向こうから声がした。
「はい?」
「ちょっと、お尋ねしたいんですが」
見たところ三十から四十くらいの女性が、息を切らして立っていた。
「何でしょう?」
「このあたりに、男の子が、来なかったでしょうか」
「男の子ですか?」
「ええ。小学校三年生の、男の子です」
「さて...私はずっとここに居ましたけれど、そういう子は見なかったですねえ」
「そうですか...」
「あの、どうかなすったんですか?」
「いえ、な、何でもないんです」
「そんな子を見たら、お知らせしましょうか?」
「結構です!」
女性はいきなり大きな声を出したので、私は吃驚してしまった。
「...あの...」
「あ、すみません、本当に結構ですから」
「そうですか...」
「お邪魔しました。失礼します」
その女性は、ぺこりと頭を下げると、急ぎ足で行ってしまった。
どうしたのだろう。行方不明にでもなったのだろうか。
それにしても、この近所では見ない人だ。新しく越して来たのだろうか。
そんなことをつらつらと考えながら、私は麦茶の入った瓶とコップをお盆にのせ、縁側に運んだ。
こうして縁側で庭を眺めながら、ゆっくりと飲む麦茶は、格別だ。

と、

がさごそ。

玄関の脇にある植え込みの陰から、誰かが出てきた。
「あら」
男の子だ。
ちょうど、さっきの女性が言っていたのと同じ位の。
メガネをかけて、黄色い、漫画か何かが書いてあるTシャツに、デニム地の半ズボンを履いている。
こちらに気付いたらしく、そろそろと門扉まで向かおうとする。
声をかけようとして、はたと気が付いた。
この子は、あの女性、恐らく母親に、今は会いたくないのだろう。
私は何故か、この子に興味を持った。手招きをして、
「こっちへいらっしゃい、大丈夫だから」
と声を出さずに言った。
男の子は、女性の向かった方を気にしながら、そして私を少し警戒しながら、ゆっくりと縁側までやって来た。
私は、よしずの陰へと彼を案内し、麦茶をコップに入れて渡した。
彼はごくごくと音を立てて麦茶を飲み干し、ほう、と息をついた。

「どう、少しは落ち着いた?」
私は声をかけてみた。
「うん」
男の子は小さく頷いた。
「お年はいくつ?」
「九歳」
「私はね、カトウ ケイコっていうの。あなたのお名前は?」
「ヒノ リュウタ」
「リュウタくんね。どうしてこんなところに?」
「...」
彼は押し黙った。まさか虐待ではあるまいかと少々心配になったが、訊いてみなければ判るまい。
「黙ってちゃ判らないでしょ。あなたが、いきなり私の家の庭に来たので、ほら、猫がびっくりしてるのよ」
ノラはいつの間にか、縁側の一番端にまで逃げ、こちらを注意深く窺っている。
「じゃあ、あなたのおうちはどこ? この近くなの?」
こくりと頷く。
「歩いて帰れるくらいの距離なのね?」
またこくりと頷く。そう遠くないなら、とりあえずひと安心だ。
麦茶をもう一杯注いでやりながら、私はもう少し踏み込んで訊いた。
「ね、教えてちょうだい。お母さんが探してるのに、あなたは家に帰りたくないの?」
「...ん」
彼は小さく頷いた。
「そうなの。でもね、あまりお母さんに心配かけるもんじゃないわ。落ち着くまでここに居ていいから、なるべく早くお帰りなさいな」
私は出来るだけ優しく言ってみた。彼は私に一瞥をくれて、下を向いて溜息をついてから言った。
「...だって、いろいろ、やれって、ゆうんだもん」
「いろいろ?」
「月曜と金曜は英会話、火曜はお習字、水曜はプール、木曜はピアノ、土曜日はカブスカウト、今日はサッカーとバイオリン。学習塾は毎日夜の9時まで」
すらすらと彼は答えた。驚いた。こんなに色々習っているのか。
「あらまあ、それは忙しいわねえ」
「うん」
「あなたは、それが嫌なの?」
「ぜんぶ嫌じゃないけど...。嫌なのもある」
「例えば?」
「バイオリン。ぼく、上手じゃないから...」
「そうなの。やめたいって、お母さんに言ってみた?」
「言えないよ」
「どうして?」
「言ったらすごく怒るもん」
「そんなことないでしょう。正直に言ってみればいいのに」
「体操教室はやめたんだけど、その時ママすごく怒った」
「...あら」
「リュウちゃんのためにやってあげてるのにって。ぼくが一生懸命やらないのはおかしいって」
「それは...大変よねえ」
彼は俯いて、地面をじっと見つめている。少し長めの髪の毛の陰から、汗がたらたらと垂れてきた。私は箪笥からタオルを出して、彼の首筋や顔を拭ってやった。
「でもねえ、リュウタくん、お母さんがあなたのためを思ってるのは本当だと思うの。だからああやって心配して、あなたを探しに来てるでしょ」
「...でもママは、ぼくがママの思うとおりにならなきゃだめって思ってる」
「え?」
「ぼくは、もっとほかにやりたいことがあるのに」
この年でそんなことを考えるのか。これは些か、私の手に余るようだ。
どうやって次の言葉をかけてやればよいか、頭に浮かばなかった。私はしばし、麦茶のグラスを持ったまま、庭のサツキを見つめた。

  *   *   *   *   *

突然リュウタ氏は私に向き直った。
「ねえ、あ、えっと、か、かと」
彼は私をどう呼んでいいか迷ったらしい。私は可笑しくなった。
「おばあちゃんでいいわよ。何?」
「あの、おばあちゃんちは、あの猫飼ってるの?」
そう言って彼は、縁側の端にいるノラを指差した。
「ああ、ノラね、うーん、そうねえ。飼ってるって言えるのかしら」
「飼ってないの?」
「ノラはね、この家がお気に入りのようだけど、ここが本当の家かどうか判らないの。毎日ここに来て、ごはんを食べて、お昼寝をするけど、夜は外にいるし、ここに来ない時に何処で何をしているかなんて、私は知らないわ」
「じゃあ飼ってないんだ」
「そうね。飼っているとは言えないかもね」
彼はノラをしげしげと眺め、手を伸ばして触ろうとした。
「ああ、だめよ。ノラは触らせないから」
「なでなでもさせない?」
「そう。ノラは、触られるのが嫌なのよ」
「おばあちゃんも触らないの?」
「ええ。別に触らなくてもいいの。ここに来て、元気な姿を見せてくれればね」
「ふうん...」
ノラを見つめる彼の目が、メガネの向こうで、好奇から羨望に変わった。
「いいなあ、猫は」
「どうして?」
「だって、何もしなくていいんでしょ、お散歩したり、ごはん食べてお昼寝したりして、のんびり過ごせるんだもん」
私は笑いながら言った。
「ああ、そうねえ、それはそれで羨ましいかもしれないわねえ」
しかし、もちろん、それだけではあるまい。
「でもね、猫は猫で、大変なんだと思うのよ。病気や怪我はするし、交通事故にも遭うしね。他の猫と喧嘩したり、餌がなくて何日もお腹を空かせることだってあるかも知れないでしょ」
「そうなの?」
「もちろん、家の中で飼われている猫は違うでしょうけどね。でも、ノラは家の中が嫌いだから、どんなに大変でも外で生きていこうと思ったんでしょう」
「ノラは男の子?女の子?」
「ああ、女の子ね。避妊手術されてたから、昔は何処かに飼われてたのかしら」
ノラが以前ひどい怪我をして病院に連れて行った時、獣医師がそう言っていた。
「ヒニン?」
「あ、ええとね、手術のあとがあったの。だから昔飼われてたんじゃないかと思って」
「そうなんだ...。おまえ、捨てられたの」
リュウタ氏はノラを見つめた。そこには同情以上の何かがあった。

  *   *   *   *   *

「ねえ」
「何?」
「おばあちゃんは、子供はいるの?」
「いいえ、残念ながら、いないわねえ」
「じゃあ孫もいないんだ」
「そうねえ」
「ずっと一人で住んでるの?」
「ええ。三年前からひとりでね」
「さびしくないの?」

そう訊かれて、私ははたと気付いた。
一人暮らしが始まってから、幸いなことに、私は寂しさを感じずに済んでいる。

夫がいた頃、私は悶々と寂しさを抱えて過ごしていた。
夫を亡くしたあの日、私は虚無感と寂しさで一杯だった。
それを掻き乱し、吹っ切れさせてくれたのは、他ならぬノラだ。
ノラがやって来てくれるから、私は寂しさを紛らわすことが出来ているのだ。
ノラのおかげで、私は随分救われているのだ。

「ええ、そうね。寂しくはないわね」
「ほんと?」
「ノラが遊びに来てくれるから」
とぐろを巻いて眠りに入っているノラを見遣りながら、私はそう言った。
「じゃあ、ノラを飼えばいいのに」
とリュウタ氏が言ったので、私は少し驚いた。
「どうして?」
「だって、ノラがそんなに大事だったら、家で飼えばいつもいっしょにいられるじゃない」
なるほど。しかし。
「そうねえ。でもね、私はノラの今の生き方が好きなのよ」
「いきかた?」
「そう。人にちょっとは頼るけど、自分らしく生きてるって感じがするじゃない。もちろん大変だろうけど、手を貸すのはほんの少しにしておきたいの」
「そうなんだ」
「ノラも、そのほうが自分に合ってると思ってるのよ、きっと」
「そうかあ」
「それに、そんなノラのほうが、私は好きだしね」
「ふうん」

のそりと、ノラが起き出した。
そして、リュウタ氏の脇をするりと抜けて、垣根の下を潜って何処かへ行ってしまった。
「ああ、もうお出かけみたいね」
「なでなでしたかったなあ」
リュウタ氏は少し残念そうだ。
「さあ、あなたもそろそろ帰りなさいな。もうお昼が近いし」
「うん...」
まだ戻る気がしないのか、彼は俯いて足をぶらぶらさせている。
「大丈夫よ。お母さんだって言えばわかるわ。あなたがほかにやりたいことがあるって、ちゃんと言えば」
「そうかなあ」
「そうよ」
そうだ。やりたいこと。彼のやりたいことは。
「ねえ、亡くなった私の夫はね、やりたいことだらけで、毎日忙しそうにしてたものよ。おかげで私はほったらかし」
「そうなの?」
「そう。まあ、家の人をほったらかすほど、やりたいことばっかりじゃいけないと思うけど、楽しそうだったわ、やっぱり」
「そうなんだあ」
「ねえ、リュウタくんのやりたいことって、何?」
彼は眼を輝かせて、言った。
「ぼくね、びじゅつかんに行って絵を見たり、絵をかいたりするのが好きなの」
「あら、すてきじゃない」
「去年はずっと土曜日に、びじゅつかんに連れてってもらったんだけど、今年はもうないんだって、そういうやつ」
「そういうやつ?」
「わーくしょっぷとか」
「そうなの...残念ねえ」
「だから、もっといっぱい絵をかきたいんだけど...」
「そうやって、言ってごらんなさいよ。ぼくは絵をかきたいぞ!って」
「かきたいぞ!って?」
彼は始めて笑ってくれた。
しかし、すぐに表情が曇った。
「もしだめって言われたら?」
「それは...」

こう言うしかあるまい。

「そうしたら、また私の家にいらっしゃい。ノラに会いにいらっしゃいよ。そしてまた、いい方法を考えましょう」
「うん! やくそくね!」
「はい、約束」
リュウタ氏は、ずり落ちそうなメガネをかけ直して、
「おばあちゃん、またね」
と言って、駆けだしていった。

やれやれ、近所づきあいもほどほどだった私に、こんなに年の離れた話し相手が出来るとは。
それもこれも。

がさごそ。

「あら、ノラまだいたの」

ノラのおかげなのだろう。


おしまい





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