第六話 祭壇に猫(68歳 女)
「じゃあね、姉さん」
玄関で妹は、見送る私にこれだけ言い残して、帰っていった。
私は、返事すら出来なかった。
地に足がついていないような気がする。
頭もぼんやりとしたままだ。
単なる疲れの所為だと思う。いや、そう思いたいのだ。
仏壇のある畳敷きの部屋に、夫の祭壇が出来ている。
昨日までは、ここに夫の遺体があった。
そして、1週間前まで、夫と私はここで寝起きしていた。
よく食べ、よく飲み、友人達との付き合いを大切にしていた夫は、急性心筋梗塞で、あっという間に旅立ってしまった。
祭壇に向かって座り、私はぼんやりと夫の遺影を見つめた。
血色のいい、満面の笑みをこちらに向けている。
笑顔の似合う人だったと思う。ただ、その笑顔の多くは、家の外に向けられていた。
明るくて素敵なご主人ですね、と他所の人から言われるたび、私は苦笑するしかなかった。
小さな会社の営業部長まで勤め上げ、部下から慕われ、上司からも頼られる存在だったそうだ。
定年後は、一緒に旅行にでもと誘ってみたことはあったけれど、外の付き合いの方が楽しいと見えて、一度もその誘いに応えてくれることはなかった。
ふつふつと、悲しい怒りが込み上げてきた。
私は出来る限りあなたを助けてきたと思います。
精一杯、良い妻であろうと努めてきました。
なのにあなたは。
私に、これっぽっちの思い出も遺してくれないのですか。
そうして、自分は友人達と楽しい思い出を一杯作って、さっさと旅立っていってしまうのですか。
私はいったい何なのですか。
膝の上で、ぎゅっと握りしめた手に、爪が食い込んだ。
線香の香りが、とても疎ましいもののように感じて、私は部屋を出た。
居間に出ると、すっかり傾いた日差しが、縁側をあかあかと照らしている。
そこから見える庭には、夫が友人から貰ってきた庭木が、無造作に植えられている。
自分で手入れするのかと思いきや、造園業者の友人を家に誘い、食事を振る舞って一緒に庭をいじっていた。
手入れの仕方を覚えることは、ついになかったようだ。
あの人らしい、と庭木をぼんやりと眺めていると、サツキの根本で、かさり、と何かが動いた。
庭に降りてよく見てみると、その音の主は、背中を丸めて、じっとこちらの様子を窺っている。
猫だ。
白と黒の斑で、毛足は長い。その長い毛は薄汚れて、枯れ草が所々に付いている。
はたと気がついた。この猫、前にも見たことがある。
そうだ、あれは。
* * * * *
「あなた、お昼ができましたよ」
庭でゴルフの練習をしていた夫に、私は呼びかけた。
しかし返事がない。
何処に行ったのだろう。縁側まで出てみると、夫はサツキの植え込みの下をのぞき込んでいた。
「あなた、お昼ですよ」
「おい、猫がいるぞ。珍しいな」
夫はそう言って、猫の方に手を伸ばした。
「いてっ」
と手を引っ込めたところを見ると、どうやら引っ掻かれたらしい。
「野良猫なんか珍しくもありませんよ。あまりかまうとまた引っ掻かれますよ」
「そうか? 俺は久し振りに見たぞ、野良猫。ほら、こっち来い」
夫はまた手を伸ばした。そして、猫の前足を掴むことに成功したらしい。しかし。
「うわっ!」
猫は物凄い勢いで暴れ、夫の手を振り切った。そして闇雲に走り回り、遂に家の中に上がり込み、昼食の支度が調ったテーブルの上に飛び乗った。
「あらまあ、ちょっと、どうしましょう」
「どれどれ、俺が捕まえてやる」
夫は家に入り、テーブルの猫へと近づいた。猫は、
「シャー!」
と、毛を逆立てて威嚇している。
夫はそれを気にすることもなく、どんどん近づいていく。
すると、猫はその瞬間になってようやく、テーブルの上の食べ物に気がついたらしい。夫を警戒しつつ、焼鮭の匂いを嗅ぎ、ぱっくりとくわえ込んだかと思うと、そのまま縁側にいる私の方に突進してきた。
「きゃっ!」
私は吃驚して猫に道を譲った。猫は、鮭の切り身をくわえたまま、何処かへ走り去ってしまった。
「ああ、逃がしたか」
「はあ、びっくりした」
「残念だったな。もう少しで捕まえられたのに」
「捕まえてどうするつもりだったんですか。私は飼うのは嫌ですよ」
「あれ、お前、そんなに猫嫌いだったっけ」
私はむっとした。何年一緒にいると思ってるんですか。
「猫だけじゃありません。動物はみんな嫌いです」
「そうか、そうだったよな」
そう言って台所で手を洗っていた夫は、何故か嬉しそうに食卓に着いた。
「なあ、俺、猫が飼いたいな」
「突然何を言い出すんですか。駄目ですよ」
「どうして?」
「どうせ世話は私が押しつけられるに決まってるんですから」
「そんなことないよ。小さい頃は犬も猫も飼ってたんだぞ」
「駄目です!」
私はむきになった。どうしても譲りたくなかった。
「そうか。しょうがないな」
夫はさも残念そうに言った。そして
「あ、あいつめ、お前の鮭を盗っていったな」
「大丈夫ですよ。気にしませんから」
「ほら、俺のをお前にやるよ」
「大丈夫ですって」
「いいから!」
夫はずい、と皿を私の方に寄せ、空になっている私の皿を取り上げた。
私は驚いて夫の顔を見た。こんなことをしてくれたのは初めてだ。
私の顔を見ながら、何故か夫は満足そうだった。
* * * * *
あの時の猫だ。
随分大きくなってはいるが、白黒の斑の位置や目の色、間違いない。
まだこの辺りに居たのだ。
自分でも訳がわからないうちに、私はそっと猫に近づいていた。自然と身体が動いたのだ。
猫はぴくりとも動かない。
「おいで」
私は何をやっているのだろう。
疲れて頭がおかしくなったのだろうか。
私が近づく度、猫は後ずさりしてゆく。
「ほら」
すっと私が手を伸ばした瞬間。
猫は、物凄い勢いで走り出し、開けていた縁側から家の中に入っていった。
「えっ、ちょっと待って!」
私は慌てて家の中に戻った。と、
がしゃーん。
ばたん。
ずどん。
立て続けに大きな音がする。
仏壇のある部屋からだ。
中に入ってみると。
夫の祭壇は滅茶苦茶だった。
花瓶は倒れ、香炉の灰は畳に散乱し、お供えの三方も明後日の方向に飛んでいる。
私はただ呆然とするしかなかった。しかしはたと気付いた。猫は何処?
いた。
猫は。
「シャー!」
満面の笑みをたたえた夫の遺影。
その真ん前で。
散乱した花や灰やお供え物に囲まれて。
「シャー!」
私を。
「シャー!!」
威嚇している。
....ぷっ。
くふふふふ。
「あはははははははははははははははは」
何故だ。
「あはははははははははははははははは」
私はどうしたというのだろう。
涙が止まらない。
あの猫は、何故あそこにいるのだろう。
猫は。
「ははははははははははははははははは」
お腹が痛い。
何が可笑しいのか。
判らない。
でも猫が。
そこに。
「ひぃ、ひあはははははははははははは」
私はただ、大声で笑った。
夫と過ごした日々の光景が、頭の中で瞬いては消えた。
畳に散らばった百合の花を、無意識に掴んだ。
掴んで、握りしめた。
そして大声で、笑って、泣いて、笑って、泣いた。
* * * * *
どのくらい時が経ったのだろう。
すっかり暗くなった部屋の真ん中で、私は息を整えていた。
ようやく落ち着いた。
猫は、供え物に上げてあったご飯の匂いを嗅いでいる。
「はあ、あなた、そんなもの食べても美味しくないわよ」
なんと私は、晴れ晴れしている。
夫に対する悲しい怒りも。
それをずっと自分の中でため込んできた自分の不甲斐なさも。
吹っ切れている。
「さあ、部屋の片付けをする前に、あなたに何かあげましょうね」
そう言って私は部屋を出た。
猫は、とことこと付いてきた。当然のように。
私は祭壇を振り返った。
夫の遺影が、泣き笑いに見えた。
おしまい
※第三十七話 梅雨の晴れ間に(72歳 女)もどうぞ。
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