第百二十九話 キヤツツ・アイ(三十二歳 女) 下 | ねこバナ。

第百二十九話 キヤツツ・アイ(三十二歳 女) 下

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夫の伯父夫婦の家で暮らし始めて三ヶ月程経つた頃、私は町の小学校教師の職を得た。
又町中に小さな家を借りられる事に成り、伯父夫婦は喜びつゝも淋しく成ると云つて息子ヒデキの頭を撫でた。
少ない荷物を纏め、愈々引越しと云ふその日の午前、ヒデキが軒先で猫のチヨと遊んでゐる処に、あの男、アサミがやつて来た。

「おう元気だつたか坊主」

ヒデキは呆気に取られてアサミを見る。するとチヨは、するするとアサミに近付いて、足下でにやあおと鳴いた。

「お前も元気で何よりだ」

アサミはさう云つてチヨの頭を撫でてゐる。私は土間から出てアサミに頭を下げた。ヒデキはサツサと私の後ろに隠れて了つた。
チヨを撫で乍らアサミは、

「町に引越すんだつてな」

と云ふ。

「はい、御陰様で」
「うん、お目出度う」

さうして、尻のポケツトから小さな紙の袋を取出し、私に差出した。

「お祝ひだ。俺にや碌な持物が無いし金も無いが、マアこんな物で良ければ受取つて呉れ」

私は有難う御座いますと云つて、怖ず怖ずとその包みを受取つた。開けて良いですかと尋ねると彼は勿論サと答へる。
開けて見ると、それは手帳位ひの大きさの絵本だつた。革製の上品な装幀で、背と表紙には剥がれ掛けた金字で

「Puss in Boots」(長靴を履いた猫)

と書いて在る。
可成り厚めの紙で出来た本の中には、淡い色彩で猫や王様、お姫様の絵が描かれてゐた。私はそれをヒデキに渡して、

「ホラ外国の絵本よ。綺麗でせう」

と云つた。ヒデキは目を円くして絵本に夢中になつてゐる。
私はアサミに向直り、改めて礼を云つた後にかう訊いた。

「随分高価そうな物を、宜しいのですか」

するとアサミは、

「ナニ俺も昔々御世話に成つた代物さ。何うだ坊主面白いか」

と云ふ。ヒデキは少し照れ乍ら、おじさん有難うと小さな声で云つた。
さうか良かつたと、独特の高い声でアサミはカラカラと笑ふ。
私も笑つた。アサミは直ぐに笑ふのを止めて私をじつと見た。
左の目がきらりと光る。


「あんたに託すよ。俺の無様な人生を」


確かにさう云つた。私は何の事だかサツパリ判らない。

「あのう」

私が質問しやうとした時、数台の車の音が聞こえて来た。

  *   *   *   *   *

三台の軍用車には十人程の米兵が乗つてゐた。車が止まると、皆ゾロゾロと此方に降りて来る。
裏の畑から帰つた伯母は、仰天して私を家の中に押込めやうとした。然し私は動かずに彼等に対峙した。ヒデキは私の後ろで足にしがみ付いてゐる。
さうしてアサミは、米兵等を冷然と見つめたまま、不遜な程に誇らしく立つて居た。
米兵等はアサミを取囲み、銃を向ける。その奥から、眼鏡を掛けた東洋人らしき男が進み出た。

「探しましたよ、キヤツツ・アイ」

さう男は、日本語で云つた。

「クニヨシか。久振りだな。お前もアメリカの犬に成り下つたか」

アサミがさう返すと、男は眼鏡を持上げて、お互ひ様さ、と云つた。

「随分と買ひ被られたな。俺にやこんなに随員は要らねえよ」

アサミがにたりと口を曲げ乍ら答へる。眼鏡の男は表情ひとつ変へずに云ふ。

「何うかな。ガダルカナルでは君等に一個小隊が全滅させられたのだからね。油断は禁物さ」
「安心しな。モウそんな元気は残つてやしねえ」

さう云つて、アサミは両手をゆっくりと挙げた。一瞬、私の方を見て、彼はかう呟いた。

「俺は、二重スパイさ」

アサミの左目が光る。悲しさうに光る。
その沈痛な輝きは、私のこころを射貫いた。

「さあ行かう」

眼鏡の男に促され、アサミは両手を挙げた儘ゆつくりと歩き出した。すると眼鏡の男は私をじつと見て、アサミに訊いた。早口な英語で。

「あの女は知合ひかね」

アサミは私に背を向けた儘英語で答へた。

「只の知合ひさ。彼女は何も知らない」

眼鏡の男はつかつかと私に近付き、じろりと私をねめ回し、かう云つた。

「失礼ですが、色々伺つても宜しいですかな」


さうしてゐる間に、アサミは軍用車の中へと消えて了つた。

  *   *   *   *   *

クニヨシと云ふ日系の米軍将校は、私の名前や学歴、親戚関係まで事細かく質問した。私はそれに淀み無く答へた。元々隠し立てする事など何も無いからだ。
只あのアサミと云ふ男から何か渡されませんでしたかと尋ねられた時は、イイエとだけ答へた。あの絵本はヒデキが持つて家の中へ入つて了つたから、男には確かめやうも無かつた。
眼鏡の男は何か不審さうな目をして私を見てゐたが、やがて、

「御協力有難う御座いました。では御機嫌良う」

と云つて背中を向けた。私は思わずその背中に向つて叫んだ。

「あの方は、何をしたのです。何か悪い事をしたのですか」

クニヨシは肩越しに私を見て、ぼそりと呟いた。

「良い悪いでは有りません。軍規に則つて裁かれるのみです」

私は食い下がつた。

「一体何んな罪を、あの方が犯したと仰るのです」

彼は視線を落とし、又呟くやうに云つた。

「裏切者は、その報ひを受ける可きだ」

さうして、彼は足早に車へと戻つて行つた。
ぶるるんとエンヂンの掛かる音がして、車の群は動き出した。
軍用車の幌の中から、ちらりとアサミの姿が見えた。
アサミは、静かな表情を湛えて、私に向つて手を振つた。

チヨが、にやあーう、と、彼に向つて啼いた。長く、悲しく。

土埃をモウモウと立てて、車の群は去つて行つた。

  *   *   *   *   *

それ以降、私はアサミ氏の事を耳にはしなくなつた。
あのアサミの実家と云ふ寺も、誰も住まう人が無くなつたやうで暫く放つて置かれたが、やがて新しいお坊さんが来て、人々はアサミ氏とその家族の事などを気に掛けなくなつて了つた。
然し私は気になつた。彼がその後何んな処遇を受けたのか。生きているのか。
勿論米軍内の情報など新聞に詳しく載る筈も無く、私は虚しく紙面を眺める日々が続いた。

伯父夫婦の処から新しい家に越して来てからといふもの、私は仕事に忙しい日々を送つてゐた。
ヒデキは度々伯父夫婦の家に預けられる事になつたが、伯父夫婦もヒデキもそれを喜んだので、私は肩の荷が下りる思ひだつた。
猫のチヨは狭い家では飼う事が出来ず、そのまま伯父夫婦の家に住む事になつた。年寄りの割にはネズミを良く獲るので、重宝がられてゐるやうだつた。

或日、私がヒデキを迎へに伯父夫婦の家に行くと、ヒデキがあの小さな絵本を縁側で読んでゐた。横にはチヨが円くなつて眠つてゐた。

「お前は本当にその絵本が好きね」

と云ふとヒデキは、

「お母さん、此は何でせうね」

と、本を私に差し出す。
私が本を受取ると、革の背表紙がはらりと剥がれた。

「ほら、此処が開いて、中に何か書いてあるでせう。チヨが見つけたの」

ヒデキはさう云つて興味深げに本を見てゐる。
果たして、やけに分厚い紙だと思つてゐたこの本は、蛇腹折になつてゐて、背表紙の側からも開くやうに作られてゐたのだ。
さうして、その紙の裏側には、英語混じりの細かい文字でビツシリと、或物語が書綴られてゐた。
私は頁を捲つた。その物語に驚き、恐怖し、戦慄した。

「お母さん、僕にも読ませて、ねえ」

ヒデキが私のシヤツの裾を引張るのに、私は暫くの間気が付かなかつた。
にゃあうとチヨが鳴いたので、私は漸く我に返る事が出来たのだ。

キヤツツ・アイ。あの人は。

  *   *   *   *   *

その、絵本の裏側に綴られていたのは、アサミの回顧録だつた。
彼の数奇な人生を、私はヒデキが眠つてから毎夜読み耽つた。アメリカでの生活、スパイとしての帰国、戦場での葛藤。国の謀略に翻弄される憐れで、然し逞しい生き様と、何うしやうも無い苦悩が、鮮やかに活写されてゐた。
私は何時しか、彼の人生を世に明らかにしやうと思ひ出した。勿論直ぐには無理だらう。GHQの出版検閲は苛烈を極めてゐると聞く。然し何時か、彼の味わつた苦悩と悲壮を明らかにしてやらう。さう思つたのだ。

「ねこちゃん、ねこちゃん」

ヒデキが寝言を云ふ。私はあの、きらりと光るアサミの左目を思ひ出してゐた。
悲壮を湛えながらも、まるで猫のやうに相手を射貫く、あの目の輝きを。

おしまい






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