第百二十八話 キヤツツ・アイ(三十二歳 女) 中
※前回 第百二十七話 キヤツツ・アイ 上
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夫の伯父の家に厄介になり始めてから半月ほど経つた或る日、私は街まで買物に出た。
駅の辺りまで来ると、緑色の車が一台止つてゐて、その周りには人集り。人集りの中心には、背の高い白人の米兵がふたり立つてゐた。
こんな田舎まで来て彼等は一体何をする積りなのだらう。知らぬ顔で通り過ぎやうとすると、米兵の話し声が聞こえて来た。
「飴玉放り投げる丈けで寄つて来やがる。まるで猿だな」
「ほらよ糞猿共」
言葉が判らないと思つてか、彼等は云ひ度い放題だ。私は彼等を睨んだ。人を蔑むにも程がある。
私の視線を察した一人の米兵が、人集りを掻き分け、こちらに近付いて来た。
「何を見て居る」
さう云ふ米兵に、私は英語で答えた。
「あなた方が、憐れな日本人を蔑むのを見て居るのよ。さぞ気分が良いことでせう」
米兵はにたりと笑ひ、
「気の強い女だ。俺はお前みたいな女が好きなんだ」
私の手を掴んだ。私はその手を思い切り叩き落とし、
「触らないで」
と云ひ放つた。然し米兵はにやつきながら私に近付き、私の肩を両手で掴んだ。抵抗すればする程米兵は私を強く掴む。
「誰か、助けて」
私は叫んだ。
その瞬間、米兵の身体がぐらりと揺れ、私の視界から消え去つた。呆気に取られてゐると、アサミと名乗つたあの男が米兵の腕を後ろ手に捻り上げ、人集りの中へ突き飛ばす処だつた。
アサミは米兵に向つて、流暢な、やや訛の有る英語で云つた。
「お前達は復活祭でも祝ひに来たのか。それとも女の尻を追掛けに来たのか」
その言葉に鼻白んだ米兵は、アサミを睨みつけながら吐き捨てた。
「はん、こんな臭え田舎町など、隊長殿が戻つたらサツサとおさらばするさ。俺達や只暇潰しをしていただけだ」
「なら大人しくして居ろ。此処は赤線ぢやねえんだよ」
アサミは鋭い目で米兵を見る。私は彼の目をしげしげと見た。成程右の目は殆ど黒だが、左の目は明るい茶で、少し緑がかつた色が混じつてゐる。
米兵はつかつかとアサミに近寄つた。アサミは動じずに米兵の目を見てゐる。
「貴様等は負けたんだ。余り大きな態度を取るんぢやないぞ」
米兵は小声で、然し強くアサミに云ひ渡した。アサミはそれに応へる。
「戦争に負けた国の人間には、何をしても良いと云ふ訳ではあるまい。GHQとはそんな無法者の集りか」
グツと米兵は唇を噛み締め、呻くやうに云つた。
「俺の親友は、貴様等日本兵に殺された。降伏を装つて刀で斬りつけやがつた。あいつは零れ落ちる腑を必死に抱へながら死んだんだ。俺は、俺は貴様等日本人を許さねえ。絶対にな」
アサミは顔色一つ変へずに応へる。
「それが戦争だ。生延る為には何でもするさ。それとも無差別爆撃の方が可愛げがある、とでも云ひ度いのか」
彼は冷たい視線で米兵を睨みつける。米兵は道端に唾を吐き、じろりと私達をねめ回してから、づかづかと車の方へ戻つて行つた。
「大丈夫かい」
アサミは私に声を掛ける。私は、ハツと我に返つた。
「ああ、どうも有難う御座います。助けてくだすつて」
「いいつてことよ。モウ家に帰るなら、一緒に行かう」
さう云つてアサミは歩き出した。私は買物の荷物を背負い直すと、黙つてアサミの後に続いた。
* * * * *
「あんた、英語が出来るのかい」
歩き乍ら、アサミは私に訊いた。
「はい、英語の教師をして居りましたので。彼方も随分お上手で」
「ナニ偶々さ。餓鬼の頃に道楽者の親父と一緒にアメリカで暮した事が有る。何でも憶えて置けば役に立つものさ」
さう応へて、アサミは良い調子で口笛を吹き出す。
本当にそれ丈けとは思へない。この男は一体何者なのだらう。私の中では興味と不信感がもやもやと渦巻いた。
「此処の暮しは何うだい」
口笛を止めてアサミが訊く。私は伯父夫婦に良くして貰つて居りますとだけ応へた。アサミはそれは良かつたと云つてまた口笛を吹き始めた。
この男が歴戦の勇士だと、あのトラツクの運転手は云つてゐた。私には矢張信じられない。
「南方ではご活躍だつたと聞きました」
そう私はアサミに投掛けて見た。アサミは振返らずにかう云つた。
「誰に訊いた」
「あのトラツクの運転手の方です」
「ニノミヤの奴め、余計なことを」
アサミはくるりと私に向直り、首を少し傾けて私をじつと見た。
「良く聞いて呉れ。俺は確かに南方で手柄を立てた。手柄と云つても逃回つた丈けだがな。全滅寸前の部隊を何とか逃すことに成功した。それを上の奴らは手柄と云ふのさ。負け戦には英雄が必要だ。判るかね」
私は答えられずに、只アサミの目を見てゐた。左目が虹色に輝いている。それは云ひやうの無い悲壮を湛へてゐた。
「ふん、あんな酷い状況にしたのは何処の何奴だ。無能な指揮官共ぢやねえか。お陰で俺は沢山殺した。敵も、味方も」
「味方を、ですか」
「仕方なく見捨てたのさ。殺したも同然だ」
アサミは道端にしやがみ込み、叢に目を落とした。視線の先には、彼にしか見えない何かが有るのだらう。
「撤退戦は地獄のやうだつた。一人また一人と動けなくなつて、ジヤングルの中に置去りにした。艦砲射撃や機銃掃射に怯えながら、敵の包囲網を咬み千切つて脱出した。生き延びる為には何でもやつたさ。囮も使つた。あの米兵の云つたやうに、降伏を装つて襲撃もした」
彼は草の束を掴んだ。ぎうと握り締めると、草がぶちぶちと切れた。
「俺の部隊は夜襲が得意でな。奴等の宿営を襲つて寝首をかくのさ。音も声も出さずに暗闇の中、見張りの兵隊の首を掻き切つて進む。銃を使わせる前に始末するにや、後ろから頸動脈を切り裂くか、後頭部から脳髄を突くのがいい」
「止めてください」
私は怖ろしくなつた。然しアサミは続ける。彼の左目は大きく見開かれ、ぎらぎらと光る。
「血の臭ひが付くといけねえから、軍刀は其処に置いて、殺した兵隊からナイフを頂戴するんだ。幕舎の連中は部下に任せて、見張台の兵隊を俺が始末するのさ。下から、おい交代だ、と叫んで登つて行つて、鳩尾から心臓までひと刺しだ。こう、ぐいと力を入れてな」
「止めて」
「一人だけ俺達に気付いて逃げやうとした兵隊がゐた。一撃で仕留められた筈が逃げられた。俺達は奴を大きな木の下に追ひ詰めた。奴は助けて呉れと懇願した。然し逃がすわけにはいかねえんだ奴は俺の目を見て猫の目だと云ひやがつた俺は奴の首根つこを掴んで頸動脈を切つたそこらぢう紅く染まつて」
「もう止めてくださいお願い」
私は叫んだ。そして崩れ落ちた。
「すまねえ」
アサミはそう云つて、暫くその場を動かなかつた。
遠くで雉の啼く声がした。
* * * * *
アサミはそれからずつと一言も喋らなかつた。私も彼にそれ以上何も聞けずにゐた。
段々と陽が暮れて来て、山の影が田畑を、山道を覆つてゆく。
あの大きな寺の前まで来て、アサミは振り返つた。
「ぢや又な。困つた事があれば何時でも云つて呉れ」
さう云ふアサミに、私はひとつだけ訊いた。
「お寺を継がれるのですか」
「俺が? 真逆」
からからとアサミは笑ふ。さうして少し真面目な顔を作つて云つた。
「親父が元気な内は、俺は放蕩息子で居るのさ。その後の事は判らねえ」
「はあ」
「今度、遊びに行つても良いかい」
「え」
意外な言葉に私は戸惑つた。然し私は、大して悩みもせずに
「はい勿論」
と返事したのだ。アサミはにこりとして、
「ぢや、おやすみ。あの坊主にも宜しくな」
と云つて去つて行つた。
私はぼんやり、その後ろ姿を見ていた。弾むやうに歩くその後ろ姿を。
ふと彼が振り向いた。そして、
「あの猫にもな」
と、甲高い声で、云つた。
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