第百二十七話 キヤツツ・アイ(三十二歳 女) 上 | ねこバナ。

第百二十七話 キヤツツ・アイ(三十二歳 女) 上

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暮れかかつた陽の光が、すし詰めの客車内を紅く照らしてゐた。
私は息子ヒデキを膝の上に乗せ、ぐらぐらと揺れるのに身体を任せ乍ら、ぼんやりと外を眺めてゐた。車内は池袋の闇市でひと仕事した人々とその荷物で、息苦しいほどにぎうぎう詰だつた。
その中にはぽつりぽつりと帰還兵の姿も見える。私は、彼等帰還兵の名札をちらちらと見て仕舞ふ。そんな事をしても無駄と判つてゐるのに。

私は溜息をついて、抱いたヒデキの頭に目を落とした。ヒデキは大事そうに、紫の風呂敷包を抱えてゐる。その結び目から、小さな耳が飛び出て、ヒヨコヒヨコと動いた。ヒデキはその耳を小さな手でつまみ、キヤキヤと喜ぶ。
隣に座つてゐたお婆さんが声を上げた。

「あんれまあ、コリヤ何だい」

すると、風呂敷の隙間から、三角形の顔がヒヨコリと飛出た。ヒデキはまた嬉しさうに笑ふ。

「猫だ」
「猫だって」

辺りに座つたり立つたりしてゐた人達が、ヒデキの膝の上の風呂敷包を見る。
通路を挟んで隣の座席から、傷痍軍人と思しき男がひとり、ずいと人を掻き分けて私達に詰寄つた。そして、

「何だ、猫なんぞ汽車に乗せやがつて。俺に寄越せ、喰つてやる」

と手を伸ばす。息子はその怖ろしさに泣出した。私は息子と猫を庇ひながら云つた。

「この猫は年寄です。もう永くは無いから田舎で飼ふのです」

しかし男は、隙間だらけの歯を見せながら早口で云ふ。

「構ふこたアねえ。どうせ死ぬなら喰はれるのが本望だらう。さあ寄越せ」
「嫌です」

私は成る丈鋭く云ひ渡した。すると男は怒つて、風呂敷包に傷だらけの手を伸ばす。ヒデキが包を抱えながら大声で泣く。

「止めてください」
「寄越せこら」

私も必死にヒデキと、包の中の猫を庇つた。

「五月蠅えな、一体何事だ」

太い声が、人混みの向かふ側から聞こえた。
さうして、ぬうと大きな男が現れた。鳥打帽を被つて、大きな革の鞄を襷掛けにしてゐる。

「おいお前、子供やご婦人に乱暴すんぢやあねえよ」

その男は、さう傷痍軍人に命令した。

「何だと貴様何様の積りだ」

傷痍軍人は松葉杖を不器用に動かし、その男に向き直る。男はじいと傷痍軍人を見つめ、帽子を取り乍らかう云つた。

「おうマスダぢやあねえか。生きて還つたか」

男を呆気に取られて見ていた傷痍軍人は、ハツと何かに気付き、姿勢を正して敬礼した。松葉杖がずるずると脇の人に寄掛かる。

「し、少佐どの、お久し振りであります」
「少佐どのは止せやい。モウ戦争は終わつたんだぞ」
「は、しかし」
「何だ、何が居るんだ」

男は包みから顔を出した猫を、じいと見つめた。ヒデキは益々包みをぎうと強く抱きかかえる。
その様子を暫く眺めていた男は、傷痍軍人にかう云つた。

「猫なんざ、喰つても大して美味かねえぞ。止めておけ」
「し、しかし、動物を車内に持込むなど、乗車規定違反であります」
「ふうん、そんな規定は聞いたこたあねえな」

男は私に話しかけた。

「あんたら、何処まで行くね」

少し警戒し乍ら、私は応えた。

「次の、次の駅で、降ります」

すると男はにたりと笑ひ、

「さうか、こいつあ奇遇だ。俺も其処で降りるのさ。途中まで一緒に行かう」

と云つた。さうして傷痍軍人の懐に何かを突込み、小声で何か囁いた。
すると傷痍軍人は、にこりと笑つて男に敬礼し、元居た席にもぞもぞと戻つて行つた。
ホームに汽車が軋み乍ら入って行く。隣に座つてゐたお婆さんが降りたので、その男は私の隣に腰を下ろした。
そうして私に向かつてかう云ふ。

「俺はアサミってんだ。お前さんは」

私は自分の名を名乗り、息子のヒデキを紹介した。

「おうヒデキ、宜しくな」

ヒデキは男を警戒して目を伏せた儘だ。無理もない。私だつて未だこの男がどんな人物か全く判らないのだ。
そんな私達の不審を察したのか、男は自分の事を話し始めた。

「俺は次の街からずつと山に入つた処にある、小さな寺の生まれだ。何を間違つたか士官学校に入つちまつて、気が付いたら戦場だ。南方から逃げ帰つて来て、横須賀でだらだら過ごして居たら終戦だ。モウ軍隊は給料をくれねえし、実家に帰ろうと思つて此処まで来た訳さ」

軽い調子で男は話す。戦争なぞチヨイと経験して来たとでも云はん計りだ。私は少し不機嫌になつた。

「お前さん、旦那はどうしたね」

男が訊く。私は短く、

「戦死しました」

とだけ答えた。男は、

「さうか、それは気の毒に」

と、気の毒さうもない口調で云ふ。私は益々不機嫌になつて、そつぽを向いた。

「しかしこの猫、静かだねえ。鳴きもしねえし動きもしねえ。これなら連れて来るのは訳ねえな」

何やら感心したやうに男は云ひ、猫の顔に指を近づけた。猫(名前はチヨと云ふ)は、その指の匂ひを嗅いで、直ぐに頭をひつ込めてしまつた。

「何だ、そんなに嫌ふないご同輩」

と、男は不思議な事を云ふ。

さうしてゐる内に、汽車は目的の駅に着いた。

  *   *   *   *   *

駅から出ると、大きなトラツクが真ん前に駐つてゐた。
その陰から、煙草を咥えた屈強さうな男が出て来て、アサミと名乗つた男と親しそうに抱き合つた。少し立ち話をした後、アサミは私達に声を掛けた。

「おうい、何処まで行くんだい。こいつの行く途中なら乗せてつてやるぞ」

予想もしなかつた言葉に、私は驚いた。さうして迷つた。本当にこの男を信頼してよいものか。
アサミはつかつかと私に歩み寄り、云つた。

「そんなに心配するなつて。取つて喰やしねえよ」

夕陽に照らされて、微笑むアサミの左目が、きらりと光つた。
ヒデキの抱えた包みの中から、チヨが、にやあと鳴いた。
私は、覚悟を決めた。

「イワドの一番手前にある、シチコという家です」
「おう、さうかい、ならば寄れねえこともねえ。なあ」
「おう」

顎の無精髭を撫でて、逞しい男は相槌を打つた。

「では、頼みます」

私は頭を下げた。

「いいつてことよ。さあ乗つた乗つた」

助手席にアサミ、荷台に私とヒデキ、それにチヨを乗せ、トラツクは大きな音を立てて走り出した。

  *   *   *   *   *

「お母さん」

揺れるトラツクの荷台の上で、ヒデキが私に訊いた。

「なあに」
「僕達、お父さんの伯父さんの家に行くのでせう」
「さうね」
「随分遠いの」
「車なら大した事は無いと思ふわ。それより、よく揺れるでせう。気を付けて」
「はい」

ヒデキは相変わらず、チヨの入つた風呂敷包みを膝に乗せて座ってゐる。
この子にとつて、チヨは姉のやうなものだ。生まれた時からずつと傍に居る。あの空襲の中も、二人と一匹、何とか逃げ延びたのだ。だからこそ此処まで無理をして連れて来た。チヨが居なくなつたら、ヒデキは一体何うなつて仕舞ふことやら。
陽はもう山の陰に落ちて、空には星が瞬き始めた。トラツクは大きな音を立て乍ら、山道へと入つて行つた。

  *   *   *   *   *

坂を上り始めて少し経つた頃、トラツクが止つた。
助手席からアサミが勢いよく飛び降りる。

「俺は此処で降りる。何か困つた事があつたら云つて寄越しな。ぢや気を付けて」

さう云つてアサミは歩いて行く。その先には、大きな寺があつた。

「またな」

運転席から降りて来た男が、アサミに向つて声を掛ける。さうして、

「あんたら、荷台の上では揺れが酷くて辛いだらう。助手席に乗りな」

と私に云つた。私は荷物だけ荷台に残し、ヒデキとチヨと一緒に、トラツクの助手席に身体を押し込めた。

  *   *   *   *   *

道すがら、私は運転手の男に訊いた。

「あのアサミと云ふ人とは、お知合ひなのですか」

煙草をふかしながら、男は答えた。

「ああ。軍隊仲間でな。俺が除隊して行く当てが無く困つてゐる時、あいつが俺の働き口を紹介してくれたのさ。俺はこの先の山で働いてる。あんた、あいつと知合ひなのかい」

突然訊かれて、私は慌てた。

「いえ、偶々汽車の中で会つたのです」
「さうかい、あいつ、ああ見えて面倒見が良いからなあ」

さう云つて、男は笑つた。さうして少し真面目な顔になり、話を続けた。

「あいつのお陰で、俺は死なずに済んだのさ。あいつの指揮が無ければ、俺達の部隊は全滅していただらうな」
「さうなのですか」
「ああ。あいつは、普段は軽くて軟弱さうに見えるが、戦場では怖ろしい男だ。アメリカの奴ら、あいつを随分と憎んでゐるだらう。ほら気が付かなかつたか。あいつの左目、右目と色が違ふんだ。さうして、夜になるとな、きらりと光るんだ」

さう云へば、先程アサミの左目が光るのを、私は確かに見た。

「俺達は、猫目の大将と、あいつを呼んだもんさ。あいつが指揮する部隊のために、アメリカ軍は南方で散々に痛めつけられた。だから終ひには、アメリカの奴ら、あいつをおつかながつて、猫目が来たぞ、って呼びやがつたのさ。ええと、英語で、そう、何と云つたかな」

「キヤツツ・アイ...ですか」

「さう、さうだ。確かにさう叫んで、逃げて行つたぞ」

男は愉快さうに笑つて云つた。

  *   *   *   *   *

「ぢや、またな」

私達と荷物を下ろして、トラツクは去つて行つた。
街灯ひとつない田舎道を、月明かりがぼんやりと照らしてゐる。

「サチコさん、ヒデ坊!」

伯父と伯母が、家から走り出て来た。
ヒデキは、久し振りに会ふ伯父たちの元へ、走つて行つた。
風呂敷包みから這い出てきたチヨは、大きく伸びをして、にやあーうと、月に向かつて、啼いた。

つづく






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