第五十三話 猫の像(25歳 男 大学院生)
※前回 第二十七話 猫絵師(25歳 男 大学院生)
霧の中、僕は車を走らせていた。
「まだ行くのかい?」
「うん、たぶんもうちょっと」
助手席のマナカは、地図とにらめっこしている。
もう一時間以上、僕たちは、道に迷ったままでいる。
外の湿気が、車内まで忍び込んで来そうだ。
人気どころが車が通る気配すらない山道で、僕はおっかなびっくり運転を続けた。
* * * * *
一週間前、部屋に遊びに行った際、マナカは僕を旅行に誘った。
長野の鄙びた温泉に行こうというのだ。僕も静かな温泉宿は好きなので、予定を確かめてすぐOKしたのだが、その旅行には、彼女の資料調査がくっついていたのだ。
「長野の山奥に、猫の石仏があるんだって。ねえ、見てみたくない?」
無理矢理にでも僕に見たいと言わせんばかりの押しの強さに、僕は渋々調査への同行を承諾したのだけれど、「山奥」というのがどうもひっかかっていた。
物凄くハードな登山はごめんだし、だいいち登山用具なんて持ってない。そう彼女に言ったら、
「大丈夫だって! 近くにキャンプ場みたいなのがあって、駐車場からそんなに歩かなくていいみたいよ」
とのたまう。
彼女は、下調べは割としっかりやるタイプなので、そこは信用してもよいらしかった。
しかし、そこへ辿り着くこと自体が、僕等にとっては大変だったのだ。
「うーん、やっぱりさっきのところを曲がるんだったのかなあ」
僕は道端に車を寄せて、横から地図を見てみた。
目的地への道路は、地図の境目あたりにあった。
地図をぐるぐる回しながら見ていたマナカは、ここを見落としていたらしい。
「安宮神社...これか。修那羅峠がこれで...。うん、この細い道じゃない? やっぱり」
「そうかあ、ごめんね」
そうだ。マナカは旅行好きのくせに、案外地図を見るのが苦手なのだ。
「大丈夫だよ。ちょっと行き過ぎただけだから」
まあいい。目的地はわかった。やれやれ。
少し広くなったカーブの待避ゾーンでUターンし、僕等はようやく、目的地へと正確に、進んだ。
* * * * *
「雰囲気あるねえ」
マナカが呟いた。
駐車場も霧深いが、そこから続く神社への道は、一層霧が濃い。
アカマツの林が、その霧にうっすらとした闇を作っている。
少し怖い。
「カメラ持ってくれた?」
「うん? あ、ああ」
「おし、じゃあ、行きましょ」
マナカは意を決したように、歩を進めた。
僕はとぼとぼと、それに続いた。
* * * * *
歩きながら、僕はマナカに訊いた。
「あのさ、こないだから猫絵を調べてたけど、それとこの山奥の神社と、どう繋がるんだ?」
「ああ、それはほら、こないだも話したとおり、猫の石仏よ」
「いやだからさ、石仏と猫絵は関係ないだろ」
「ううん、関係おおありよ」
「まさか、猫絵みたいに、鼠よけの猫を石で作ったとか?」
「そうじゃないのよ。むしろ逆なのね」
「逆?」
「うん。猫が鼠をよく獲るから、養蚕農家に猫が珍重されたって話は、こないだ骨董屋のおじさんに聞いたでしょ」
「ああ」
「それで、全ての家で猫を飼うことができなかったから、猫絵の需要があった。猫絵のほうは、鼠よけ、つまり災厄を払うための呪符のような意味合いが強いわけよね」
「うん」
「長野のこのあたりも、昔から養蚕が盛んだったのよ。猫の石仏は、近在の人々がこの神社に奉納したものなのよね。蚕が当たった御礼に」
「当たる?」
「うん、つまり、たくさんいい繭ができたってことなんでしょうね。災厄を払うのではなく、豊穣を祝うわけよ。わかる?」
「ああ、そういうことか。それで逆と言ったんだね」
「そうそう」
僕が理解を示したので、マナカは嬉しそうだ。
「で、災厄を払う力だけでなく、豊穣の象徴としての力も、猫の形に託されたってことでしょう? これはなかなか興味深いわよ」
「そうなのか」
「あ、もちろんね、奉納されるってことは、これからもどうぞよろしく、って願いを込める意味もあるんだけどね。ただ直接的な力を期待していないってところが、面白いのよ」
「ふうん」
ところどころ、道上に大きな木が倒れている。僕等はそれらを踏み越えながら、道を急いだ。
「あ、それからね」
マナカは何かを思い出したらしい。
「安宮神社じたいは江戸末期の成立で、開祖とされる修験者がさまざまな霊験を顕して、周囲の人々の信仰を集めたんですって」
「わりと新しいな」
「そうね。それで、豊作や病気平癒の御礼にと、村人達がこの神社に石仏を奉納したのが、これから見る石仏群のはじまりなのよ」
「群ってことは、いっぱいあるのか」
「うん。石仏は七百体くらいあるようね」
「七百!!」
「ここが現世かと思うほどの光景だ、って、誰かが本に書いてたわ」
「うわあ...怖いな」
「うん。だから一人で来るのはいやだったんだ」
と、案外しおらしいところを見せる。しかし、
「あ、鳥居が見えてきた!」
アカマツ林の向こうに急な石段、そして鳥居が姿を現すと、マナカは一目散に駆けていった。
僕はカメラを抱えて、早足で後に続いた。
マナカが一段抜かしで駆け上がる石段の、その先。
鳥居の脇に、猫が一匹、ちんまりと座って、僕等を見ていた。
* * * * *
「かわいいねえ、お前ここの猫なの?」
鳥居の下で、マナカは白い猫を撫でながら話しかけている。
僕はふと周りを見回した。と、古ぼけた社殿の賽銭箱の下に、白っぽいトラ模様の猫が寝そべっている。
石仏ではなく本物の猫に出会うとは。
「この子人なつっこいねえ」
マナカは猫をいじるのに夢中だ。僕は社殿や境内の写真を何枚か撮った。造りは質素で、鄙びた感じだ。僕はこういうのは嫌いではない。
がらんがらん
音にびっくりして社殿を見遣ると、マナカが柏手を打ってお参りしていた。いつの間に。
賽銭箱下の猫は全く動じない。だらりと寝そべったままだ。
「さ、じゃあ行きましょうか」
マナカが、社務所の脇の小さな鳥居を指して言った。鳥居の向こうは建物の下をくぐるようになっている。
まるで祠だ。
マナカがすいすいと鳥居をくぐる。僕も慌ててそれに続く。
くぐり終わった瞬間、マナカの足が止まった。
と。
「うわ....」
なんだこれは。
辺り一面、石仏だらけだ。
板碑のようなものから、人形のような地蔵、怖ろしげな顔の明王のようなものまで、さまざまだ。
それが視界のすべてに。
在る。
「これは...すごいね」
さすがのマナカも、言葉を失っている。
「うん」
僕もその程度しか言葉が出ない。
「と、とりあえず、いろいろ撮っておいてくれる?」
「あ、ああ」
僕はあちこちにカメラを向けた。しかし。
ファインダー越しに見る景色は、ほんとうにこの世のものとは思えない。
シャッターを押す手が、時々止まる。
マナカはうろうろしながら、猫の像を探している。
心なしか足取りが覚束無い。
細い道の脇にも、ずらずらと石仏が並んでいる。
これはほんとうに仏なのか。神なのか。
まるで小学生が遊びで拵えたような、稚拙なものもあれば、アステカの神殿に在りそうなエキゾチックなものもある。
不思議でしょうがない。神や仏に、これほど自由に形を与えていいのだろうか。
何か決まりのようなものが、あるのではないか。
しかしここは。
悉く自由だ。
それが、酷く怖ろしい。
「あ、あったー!」
マナカの叫び声が、僕には何故か救いだった。
早足で、マナカのもとに駆けつけた。
そこには、
丸顔で目が大きく、耳の小さい、不思議な動物の姿をした石像があった。
「これ...猫なのか?」
「たぶんね...。この本のコピーにある像といっしょだから」
と、マナカは折りたたんだコピーを示しながら言う。
「それにこれ」
その石像の隣には、
養蚕大神祠
という文字が陰刻された石碑が立っている。
「そうか養蚕か」
「うん、たぶん間違い無いでしょう」
僕は色々な角度から、何枚も写真を撮った。マナカは像や石碑の周りを回って、何か必死にメモしている。
「あ、左側、一つ置いて、また猫が居るから」
と、彼女が指差す先には、また猫だ。
これは、少し目が小さめで、愛嬌のある顔をしている。
「もう一つあるはずなんだけどなあ...」
と、マナカはあちこちうろうろしている。僕はその姿を含め、何枚も写真を撮った。
彼女を写しているほうが、気が楽だ。ここの石仏達は...。
やっぱり、僕には怖ろしい。
* * * * *
結局、マナカのいう「もう一つ」の猫像は見つからなかった。
あれだけ量が厖大なのだ。見つけるのは至難の業だろう。
石仏群をひと回り見た後、マナカは社務所で宮司さんと何か話していた。その間僕は、石段に腰掛けて猫を撫でながら、ぼんやりとしていた。
あの石仏は、プロの仏師や石工が彫ったものより、全くの素人が作ったものの方が多そうだ。つまりは、神や仏についても、あまり知識の無い人達の作ということだ。
だから、豊穣を祝ったり願いを込めたりする当人にとっては、石仏を作って奉納するという行為じたいが大事で、石仏の形なんかには、あまり意味が無いのかもしれない。
だがしかし。
その意図しないところで、形は見る者に大きな影響を与える。一人歩きするのだ。
そのことに、作った当人達は思い至らないのだろうか。恐らく至らないのだろう。
それが凄い。いや怖ろしい。
ぶるっと、僕は身震いした。
「おまたせ~」
マナカが足早に戻って来た。
「ほら見てこれ」
差し出されたのは、石仏の配置マップだった。
「なんだ、最初からこれ貰えば良かったんだ」
「うん、そうなんだけど、まあいいわ。自分の足で探したって感じだし」
「あ、そうだ、これ見れば、もう一つの猫のありかも、判るんじゃないか?」
「うん...そうなんだけど...」
珍しくマナカが返答に窮している。
やっぱり怖いんだろうか。
「ま、まあいいのよ。二つも猫見つけたしさ。今回はこれで」
「そうか。じゃあ戻るか」
「うん。猫ちゃん、またね」
マナカはそう言って、猫の顎の下を撫でた。猫は気持ちよさそうに、ぐるぐる、と鳴いた。
* * * * *
日が陰ってきた。
鬱蒼としたアカマツの林は、闇を一層濃くしつつある。
僕等は駐車場へと急いだ。途中、視線を感じてふと振り向いた。
その先には。
鳥居の下に、猫が三匹。
並んで、僕等を見下ろしていた。
僕はそれから、車に着くまで、一度も振り返ることが出来なかった。
つづく?
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