日本を「普通の国」にするためには | My Aim Is True

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読まれていない人もいらっしゃると思いますので、長期休業中に共感した新聞記事を、これまた今さらながら紹介したいと思います。


7月14日の産経新聞のコラム「宮家邦彦のWorld Watch」です。


≪選抜主義か平等主義か≫

<第二次大戦後、われわれ日本人は国政レベルの指導者養成に失敗したのではないか。過去数年間の日本内政の迷走を見るにつけ、つくづくそう思う。特に、過去2年間はこの国の最高政治権力が消滅したのかと錯覚するほどだ。

なぜこんなことが起こるのか。政界の体たらくを目撃しながら、なぜ国民・大手マスコミは何の行動も起こさないのか。開発途上国ならいざ知らず、なぜ今の日本でかくも醜い政治的喜劇が続発するのだろう。

昨晩米国の高名な日本研究家とじっくり飲んだら、先方から同様の質問を受けた。これに対し筆者は「民主主義の本質は平等主義だと誤解している日本では、優秀な若者を選抜してエリート教育を施すことは非民主的だと考えられているからだ」と答えた。

「その通り、しかし米国では民主主義とエリート主義は両立する。民主主義は結果の平等ではなく、機会の平等を保証する制度にすぎないからね」と友人は言ってのけた。確かに彼の言う通りだと思う。

だが、この「選抜か平等か」の議論はエリート教育の本場英国でも問題になっている。同国の全寮制パブリックスクール式全人的教育は有名だが、ブレア政権時代にはこの種の伝統的教育が平等主義に反するとして槍玉に挙がったらしい。

(※労働党のブレア政権は基本的には左派)

当時の英エコノミスト誌記事がこの問題を鋭く分析していた。記事はエリート教育の弊害について保守、労働両党の政策を等しく批判しつつも、末尾で「エリート主義に問題はあるが、それでもエリートがいないよりはマシだ」、と結んでいた。実に興味深い話ではないか。

やはり英国でも民主主義とエリート主義は共存する。英国では古き良き伝統により、米国では徹底した競争主義により、それぞれ将来の国家指導者候補たるエリートを選抜・養成している。これはフランス、ドイツだけでなく、中国でも基本的に同じだろう。

日本人は平等意識が強すぎるのか。それとも1945年の敗戦によって戦前の全てのエリート主義が否定されたからか。日本でエリート教育はいつの間にかタブーとなり、当然ながら、この国に真の意味のエリートは育ちにくくなった

民主主義の下で全ての人間は平等に扱われるべきだが、平等な機会を通じて選ばれたエリートは、その負うべき責任について非エリートと平等ではない。エリートには人々を導き社会を守るための特別の自己犠牲と無私の精神が求められるからだ。

日本以外の主要国はそれぞれの方法で政治エリートを選抜し、静かに特別扱いして育てている。エリートを正しく養成しなければ、結局はその社会全体が劣化することを本能的に知っているからだろう。

これに対し、エリート教育を忌み嫌う今の日本では、国家指導者の資質を持つ若者の芽が早い段階で摘まれ、国家指導者にはほど遠い凡才たちに無意味な競争の機会が平等に与えられる。だから、政治家同士の争いは結局「ドングリの背比べ」になる。

典型例が近年の総理大臣だ。

資産家の政治名家に生まれながら、指導者としての教養も器も磨かず、「唐様で書く三代目」を地で行くボンボンがいた。

(※鳩山由紀夫

最高権力を握ること以外、国家統治に資質も関心も持たなかった草の根政治家もいた。

(※菅直人

どちらにも共通することは、エリートとして選抜され必要な教育を受けなかったことではないか。残念だが、過去数十年間、日本人が組織的にエリートを養成せず、凡才を淘汰してこなかった代償は予想以上に大きいようだ。>


はい、当ブログと付き合いが長い人はご承知のように、僕は常々、「教育の正常化」による国民全体の健全化と共に、「エリート教育」の重要性を訴えてきました。


そのため、一時期、一世を風靡し、民主党への「政権交代。」の後押しともなった「霞ヶ関をぶっ壊せ!」とか、「脱官僚政治主導」「政治を国民の手に」という大メディア様が煽りまくった左翼思想プロパガンダを基本的に批判してきました。

結局のところ、その根底には、「エリート」や「国家権力」を敵視する、フランス革命~ロシア革命型の、悪「平等」主義、「弱者」と「強者」の転換、歴史・伝統破壊といった左翼思想がプンプン臭ったからです。

世襲政治家根絶!」という左翼スローガンも2年前に大いに流行し、世襲政治家が吊るし上げ、「これこそ次期総選挙の争点になる!」なんて馬鹿げた主張がありました。

確かに、あれだけ大メディア様が官僚や政治家の不祥事等を煽り立てれば、左翼思想を自覚していなくても、それに喰いついてしまうのが大衆というものであろう。


そして、もちろん、本来、国民の中の「エリート」たるべき官僚、本来、「国民の代表者」「政治エリート」たるべき政治家に対し、どうにも不甲斐ないように思える現状があることは確かです。

ただ、普通に考えればわかることでしょう。

「国民の中のエリートがだらしない」「国民の中の代表者が情けない」のなら、それを排出している国民全体がだらしなくて、情けないのだ、と。

安易に批判することは、自らを貶めていることだと感じていないのだろうか。

もちろん、中には、「いや、俺は国民じゃない。市民だ、地球市民だ」という左翼もいるでしょうが…。

そもそも、戦後、エリート教育が否定され、実践されていないのですから、官僚が本来のあるべき「エリート」に、政治家が本来のあるべき「政治エリート」になっているはずがないのです。

根本には教育が悪い

そして、そんな馬鹿に付け込むメディアが悪い。もちろん、そんなメディア人を育てたのも教育ですし、そんなメディアの欺瞞を許しているというか、見抜けない一般の視聴者も悪い。


おっと、僕が日頃、批判している、「何でも文句ばっかり言って批判している」奴っぽい論調になっている感があるため(笑)、ちょっと論調を変えましょう。

そもそも、人間には人それぞれ「向き・不向き」「能力差」「運・不運」などがあるのは当然です。

サッカーが得意ならプロサッカー選手になればいいし、国家を運営できる器なら政治家なり官僚になれば良い。

もちろん、誰しもがそうした「花形」の職業につけるわけではありません。

野球が好きでもプロになれない人は草野球で楽しめばいいし、政治に関心がありつつもジャーナリストになれないなら、こうしてブログを書けば良い。

技術分野に興味を抱き、得意とする者は、学力があれば一流企業に勤めるだろうし、そうじゃない人は零細企業に勤めるかもしれませんが、どちらも社会に必要な仕事ですから、各自が相応の仕事を一生懸命やれば良い。

重要なのは、職種だとか、地位だとか、給料の善し悪しとかではなく、そこで何ができるか、成し遂げられるかです。

それを給料が高いか安いか、名声を得たか否かで勝手に「勝ち組」「負け組」とレッテルを貼って、不「平等」を煽り立てるメディアに問題がある。

もちろん、格差が広がりすぎるのは問題だが、それを煽り立てることに何の意味があるのか!?

いや、左翼にはあるでしょう。

革命のためには「弱者」の不満を煽り立てて、社会的暴動を起こす必要があるからです。


例えば、16世紀にフランシスコ・ザビエルが残した有名な言葉があります。

日本人は、「驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も貧しいことを不名誉と思っていません」、また、「武士たちがいかに貧しくとも、そして武士以外の人々がどれほど裕福であっても、大変貧しい武士は金持ちと同じように尊敬されています」と。


強引に言い換えましょう。

仮に、日本人が野球をこよなく愛し、それを誇りに思っていたとしましょう。

そこでは、プロ野球選手だろうと、草野球選手だろうと、野球を愛する気持ちは同等であり、優劣はない。

そして、仮に「給料の高い一流企業に就職するか、『給料の安い』プロ野球選手になって、はたまた日本代表として『野球大国』日本の誇りのために戦うか」という選択肢があったならば、皆、プロ野球選手になってWBCで世界一を目指すことを望む。

もちろん、そうした「給料の安い」日本代表選手は金持ちからも尊敬されています。


強引な例えですが、当然、「ボーナスが安い」とかで次回のWBC出場をゴネている日本プロ野球選手に対する批判も込められています(笑)。

「夢を売る」仕事じゃなく、「金を得る」仕事か?

ここにも腐った「エリート」がいる。


さてさて、話が大きく脱線してしまったため、今回のテーマに関連する本を2冊ばかり紹介します。


「米国製エリートは本当にすごいのか?(佐々木紀彦著・東洋経済)」


My Aim Is True


この本は既にそこそこ話題になっているようですね。

スタンフォード大学に留学した著者が抱いた、米国の教育観やその学生達の様子を記し、また日本の教育はどうあるべきかというタイトル通りの箇所もありますが、それ以外にもアメリカ国内情勢から国際情勢の分析、そして日本は今後どのように国際社会で生き抜かねばならないのかなど幅広いテーマを扱った総合書(?)であり、なかなか面白かったです。

特に・・・と書き出すと一つの記事になってしまうため(笑)、一つだけ触りを書きます。

アメリカでは北部と南部では支持政党や価値観や思想が違うとよく言われますが、著者は、「保護主義」「平和・孤立主義」「エリート文化」「完璧な共和国」を目指す傾向のある北部の支持政党は、(昔の)共和党→(今の)民主党へと変わり、「自由主義」「好戦・介入主義」「大衆文化」「大英帝国の後継国」を目指す傾向のある南部の支持政党は、(昔の)民主党→(今の)共和党へと変わった、というような分析をしていて興味深かったです。

なるほど、昔、アメリカのアジア進出の邪魔者だった日本を叩き潰し、大戦後、世界の超大国となった(昔の)民主党、そして、昨今、安易にアメリカに屈しない国々を「ならず者国家」と呼び、敵視して、「民主主義」「自由」「人権」の価値観を押し付け、軍事力でぶっ壊す(今の)共和党は確かに同類です(かなり短絡的な見方ですが)。


次の1冊は、


「公務員が日本を救う~偽りの『政治主導』との決別~(榊原英資著・PHP)」


My Aim Is True


個人的に、「経済評論家」としての榊原英資は何だか偉そうだし、口が軽くて好きではありませんし、メディアもやたら「かつて『ミスター円』と呼ばれた」と持ち上げるので気に入りませんが、この本はなかなか良かったです。

まあ、「公務員が日本を救う」というのは大袈裟ですけど、簡単に言うと、上述したような「霞ヶ関をぶっ壊せ!」「官僚をぶっ潰せ!」という左翼プロパガンダに対する反論です。

本の帯にある「仕分けされるべきは政治家たちのほうだ!」の方が適当かもしれませんね。

これまた、知らない人のために、メディアの「印象操作」に騙されている人のために基本的な知識を紹介しておきましょう。


まず、「日本には公務員が多すぎる」のか否か?

実は身近にいる知人と以前、言い争ったことがあります。

身近にいる人の中では、比較的、知識のある人にも関わらず、「日本の公務員は多すぎる」と言うので、僕は「多くはないですよ」と言うと、「多いよ!」と言うので、「何を基準にして多いと言っているのですか?」と言い返したことがあります。


答えは?

人口1000人あたりの公務員の各国の数は、

イギリス:98人

フランス:96人

アメリカ:74人
ドイツ:70人

日本:42人

です。


ちなみにこれは、いわゆる「天下り先」の公社公団や政府系企業に勤める人も含んでいます

おまけに、メディアの槍玉に上がっている官僚こと国家公務員の数は、各国と比較して更に少なく、イギリスやフランスの4分の1です。

言い換えれば、日本は地方公務員はそこそこ多いが、批判を浴びている国家公務員は他国よりも少ないのです。おまけに地方公務員の平均給料は国家公務員よりも高いのです。国家公務員が批判されて、地方公務員が批判されないのは何故?

(ただし、それでも全公務員の給与の総額も先進国で最低)


一方、日本の国会議員は1000人あたりの数では、アメリカよりも多く、ヨーロッパ諸国よりも少ないのですが、歳費は圧倒的に高い。

おまけに地方議員の給与は他国に比べて、ずば抜けて高い。

それはともかく、「日本の政治家の役割は、法律づくりや予算編成ということではなく、むしろ、アメリカのロビイストに近いものなのです。選挙民やその他の支援者たちの要請を受けて、役所にかけあったり、法律作成のときに要望をしたりするわけです」という指摘は面白いです。

「だからこそ、『脱官僚・政治主導』なんだ!」などと言う人もいるんでしょうけど、能力もないのにできるはずがないですし、そもそも、日本の政治的伝統としては、「政治家」と「官僚」の二人三脚なのです(江戸時代からそうです)

反目し合っていては、行政が麻痺します。

【参照】「『江戸に学ぶ日本のかたち(山本博文著)』を読んで


ただし、国家の大局的ヴィジョンを描いて、大局的な方向性を示すことは政治家の役割ですが、戦後は「政治エリート」教育を怠ったため、そうした政治家が少なくなり、単なる「選挙のプロ」と化してしまったのが、昨今の政治家でもありました。

そこを民主党は「政治主導!」というプロパガンダで突いたわけですが、国家観の欠片もない鳩山由紀夫や菅直人に、国家の大局的ヴィジョンを描けるはずがありません(笑)。

国家の大局的ヴィジョンどころか、国益や国家の名誉を損失させる売国的なヴィジョンしか持っていませんでした。


最後にもう一つ面白いのは、政治家は良い政策や良い法案を出すためには「キャリア官僚」を上手く使うことが求められますが、「キャリア官僚」が良い政策や良い法案を作るためには「ノンキャリア官僚」を上手く使うことが求められるという指摘です。

これも江戸時代から変わってませんね。

左翼からしたら、「だから、ダメなんだ」と言われそうですが(苦笑)、それが上手く機能したときに日本らしい政治ができるのです。


だから、何度も言っていますが、「霞ヶ関をぶっ壊せ!」ではなく、「霞ヶ関を立て直せ!」ということです。


最後に念のために言っておきますが、ここで言う「エリート」とは、単なる学歴エリートではなく、「公のために私を犠牲にする精神を有する者」「短期的な私益のためでなく、大局的な国益を追求する者」を言います。