【独り言】カダフィ政権崩壊でリビア人は幸福になるか? | My Aim Is True

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昨日、書きかけた記事です。


報道によると、リビアで長年、独裁政治を行ってきたカダフィ政権の幕が閉じようとしているという。

カダフィ大佐と言えば、僕も幼い頃から「中東の狂犬」というレッテルを貼る報道があったりして、悪いイメージだけが「植え付け」られてきましたが、その実態は不勉強のため、今でもよく知りません(そのため、この記事に違和感を感じる人もいるでしょうが、よろしければ御教授願いたいです)

これまでもいくつかの国際テロに「関与」したとされてきて、アメリカはその「報復」として空爆し、カダフィ大佐は家族を失っている。

どっちが「狂犬」だか、危険だか、非道だかわかったものじゃなりませんが(笑)、「国際社会」的には、あくまでも国際テロに「関与」したとされる、リビアを空爆して無辜の市民を殺害することは「正義」となるのであろう。


さて、カダフィ大佐はかつて核開発に心血を注いで、アメリカから、あらゆる面で「ならず者国家」と名指しされてきましたが、核開発を放棄したことによって、アメリカと国交が正常化されるまでになりました。

しかし、皮肉なものである。

「ならず者国家」を止めたにも関わらず、今年に入ってからの反国家勢力の「打倒カダフィ」に欧米諸国は加担して、リビア政府(カダフィ政権)に対して、NATO軍が「正義」とばかりに空爆するのである。

まるで、湾岸戦争後、大人しくしていたイラクのフセイン政権が、いきなりアメリカに「アルカイダと繋がりがある」とか「大量破壊兵器を有している」とか根拠のない言い掛かりを付けられて、戦争を吹っかけられて崩壊したのと似ている。


興味深いのは、両氏とも「欧米の犬になるものか」という気概を持ち、そのためには「核兵器を保有せねば」という鋭い国際政治感覚を有していたのに、おそらく「甘い」言葉に騙されて、核保有を放棄したがために欧米に戦争を吹っかけられて崩壊したということである。

これを見たら、当然のことながら、北朝鮮はあらゆる圧力を加えられながらも、核開発を継続し続けたことは「正しかった」と確信したことであろう。

例え、アメリカが「金政権の維持」を確約して、核放棄を迫って、それを飲んだとしても、そんなものは全く信用できないと確信したことであろう。


それにしても、今年に入ってからの北アフリカ~中東における民衆蜂起に対して、日本の大メディア様は、いたって好意的に報じている。

なるほど、確かに「戦後民主主義教育」によれば、独裁政治はとにかく悪であり、民主主義や民衆こそが絶対的に正しいとされるのである。

それこそがフランス革命やロシア革命を正当化し、国家や民族の歴史によって培われた伝統を破壊し、「人類の普遍的な原理」とみなす左翼思想に他ならないのであるが…。


今日のリビア報道に対して、報道ステーション(テレビ朝日)」で、コメンテーターの五十嵐浩司(朝日新聞編集委員)が以下のようにコメントしていました。


五十嵐:「しかし、厳しいリビアがここまで来たのか、アラブの春』と言われた動きがここまで来たのかと思うと、感慨深いものがありますね。ただ、早過ぎるかもしれませんけど、問題はこれからだと思うんです。課題は(略)国際社会の対応ですよね。これまで憲法も政府も、事実上、議会もなく、40年以上、カダフィさんがやりたいようにやって来た国なんですよね。民主化と言っても、その土台がないし、反体制派の人たちも部族、イスラム勢力、旧政権から離脱した人たちの寄せ集めですね。『反カダフィ』という旗印を下ろしたら、まとまっていけるのかどうか。だから、我々、国際社会が(リビアの)国づくりに関与していく必要がある


この発言には、僕が指摘しておきたいポイントがいくつかあります。

まずは、上述したように、

①「独裁=悪、民衆=善」という「人類普遍」とされる価値観を前提にしているということ。

②次に、権力を打倒することが正しいのだという左翼思想

「反カダフィ」という旗印を外したら、単なる寄せ集めに過ぎない反政府戦力という構図は、まさに「反自民党」という旗印を外したら、寄せ集めに過ぎない民主党という昨今の左翼思想が吹き荒れた日本に似ているということ。

③そして、宗教も伝統も歴史も異なるリビアという国の「国づくりに関与していく必要がある」と考えることは果たして、まともな発想なのかどうかということです。


①に関して。

フセイン政権が打倒されたイラクの民衆は果たして幸福になったのか?

イラク戦争でフセイン政権が打倒されたとき、日本のメディアは、「フセインの息子が街を歩いているカップルの女性を気に入って、その女性を男性から奪い取って連れ去り、寝取った後で高層ビルからその女性を突き落とした」というエピソードをニュースとして流しました。

まだ若かった僕は「けしからん!」と憤りましたが、果たしてそれは事実に基づく報道なのか真に怪しいと思いますし、今となっては明らかに、軍事行動を起こしたことを正当化しようとするプロパガンダだったとしか思えないのです。

だとするならば、フセイン政権が崩壊したことによって、イラク民衆は確かに「自由」を手にしたのかもしれませんが、その「自由」とは、「秩序を保った『不自由』」と引き換えに得た、「無秩序の『自由』」だったのかもしれません。

どちらがイラク国民にとって、幸福だったのか?

確かにフセイン独裁政治においては、「言論の自由」はなかったのかもしれませんが、無辜の市民が犠牲になるようなテロは起きていなかったでしょう。

そう、人々はテロによって、無辜の市民を虐殺する「自由」を得たのです。

フセイン時代は、宗教の宗派や民族間における「自由」を弾圧してきたかもしれませんが、そうして来たからこそ、宗派や民族の対立における紛争を阻止して、秩序を維持できていたのです。

どちらが幸福なのか、僕にはわかりませんが、それを一方的にこっちの方が幸福だと押し付けることには疑問を抱かずにはおれません。

そして、それと同様の混乱が今後、リビアで起こるのではないでしょうか。


②に関して。

僅か2年ほど前のことです。

ここ日本で既存の「権力」である自民党政権を打倒し、「政権交代」さえすれば、地上の楽園が生まれるというような大メディア様の扇動がありました。

懐かしいですね、それに乗せられたお馬鹿さんたち。

で、「反自民党」という旗印だけにまとまった、寄せ集めの民主党に一体、何ができたというのか?

(「政権交代して何ができるというのか?」が、民主党に政権交代させてはならぬという我々、保守派の主張でした)


③に関して。

リビアという国の「国づくり」を「国際社会」が関与していくことが適切かどうかということ。そして、果たして、それは上手くいくかどうかということ。

かつて、GHQがやったようなことではないか。あるいは、最近、アメリカがイラクでやろうとして大失敗したことではないか。


そもそも、五十嵐・朝日新聞編集委員が言うように、リビアには「民主主義の土台がない」のである。そんな国に「民主主義」を押し付けて上手くいくか!?

例えば、今の「中国」には、中国の民主化を目指す民主主義活動家がいるし、ニホン人や「国際社会」は、「中国も民主化すべきだ」などとおめでたいことを考えているのかもしれませんが、僕は「中国は民主化しても上手くいかない」と考えています。

何故なら、歴史・伝統的に見て、「民主主義の土台がない」からである。

別に、それが良いとか悪いとかの問題ではありません。

単に、「中国」には、「民主主義の土台がない」し、民主主義は合わないと思っているだけです。

現に、賢い中国人の多くは、「『中国』に民主主義は機能しない。絶対的な独裁政権じゃないと、『中国』をまとめることはできない」と言いますが、まったく同感です。

だからこそ、僕は中国人に、「中国は分裂すべきだ」と提案しますが、それは中華思想の本能に反することですから、彼らとしては、とても呑めないでしょう。


おそらく、「国際社会」はこれまでの失敗(イラク情勢など)から学んで、次こそは上手くやってみせると意気込んでいるのでしょうが、所詮、「国際社会」にとって、「上手くいく」ということは、リビアが安定して、石油などを「国際社会」に供給する飼い犬にさせることを意味しよう。

これまでは、カダフィに独裁をやらした方が「国際社会」にとって得だという皮算用だったのだろうが、いっそのことカダフィを倒して「国づくり」をした方が、もっと得するかもと見込んで、いきなり打倒カダフィに加担したのだろう。


日本の左翼は、「民衆が独裁政治を打倒した!民主の勝利!」と喝采を送りますが、皮肉なのは、カダフィ大佐は元々はリビアを牛耳っていたイギリスの傀儡政権を打倒して政権を奪取し、リビアをイスラム社会主義国家にしたのである。

本来の日本の左翼にとって、カダフィ大佐こそ英雄ではないか?

「欧米資本主義陣営の飼い犬になってたまるか!」という主張は、日本の左翼が崇拝した毛沢東や金日成と同様である。

というと、日本の保守陣営からは嫌われそうではありますが、中国や北朝鮮は左翼的共産主義の社会主義国家であったのに対し、カダフィはイスラムの伝統を保持する社会主義国家を目指したのである(その結果に関しての知識はありませんが)。


そして、今回の反体制派のクーデターによって、「国際社会」による「国づくり」が上手くいけば、またリビアに「国際社会」(欧米)の傀儡政権が誕生するのである。

このことは日本の保守にとっても、左翼にとっても祝福できることなのであろうか!?


ついでに、話は大きく変わりますが、元々、反体制派「反国家権力」の旗印を掲げた市民活動家であった、菅直人・現首相は何故、ここまで「国家権力」に固執し、独裁的に振舞うのであろうか?

そもそも、あの年代の「反権力」活動家は、単なる駄々っ子のような利己的個人主義者なのだろう。


「俺の思うようにならない。俺の思う社会じゃない。『権力者』が馬鹿だからだ。権力者』なら何でもできるはずなのに! 『国家権力』が悪い。ぶっ潰せ!」である。


そんな「自分ではないもやらないくせに文句ばかり言う」最近のニホン人の元祖のような者である。

そして、かつて、「権力者なら何でも思うようにできるはずだ」という思い込んでいた者だからこそ、いざ「権力」を握ってしまえば、独裁的に振る舞い、その「権力」に固執するのだろう。