大切なものを失くした大人達 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

文明とは、「何故?」から入り、世間から非常識と言われながら可能性を追求した人達が積み上げた知恵の結晶だ。

ホモ・サピエンスとは「知恵のある人」のこと、知恵とは覚えることではなく使いこなす思考回路のことで、火と道具を使いこなすことからそれは始まった。

知識は使いこなす為の一つの要素に過ぎず、いくら覚えてもそれだけでは役には立たない。

記憶するだけならパソコンが一番だが、パソコンが知識を人の脳のように使いこなせるはずもない。

仕組みや使い方を言葉で覚えても同じこと、数学の解き方を言葉で覚えるようなもので、野人エッセイすを国語力で翻訳するようなものだろう。

理論とは答えではなく、答えを導く為の道理、答えはその結果に過ぎない。

心が入らないから先入観もなく、答えは、出るべくして出る「ウンコ」のようなものだ。

野人はうんこ・・いや、答えを伝えたいわけでも、廃止運動家や教祖様になりたいわけでもなく、「判断」に最も必要な「考え方」を波及させようしている。

それによって心は十分伝わっていると思う。

目的に合わせて何処から思考を開始するのか、それが最も欠けているから迷路に入る。

欠けてしまった原因は個々の感性であり自由な心、心を判断に使うからそのようになる。

人にとって一番大切なものは心であることに変わりないのだが、心は別の棚にしまっておきなさい。

それは現実の答えを求める理の世界には無縁のもの、「たぶん」もなければ「思う」もないのだ。

数学の授業に各自がそれを持ち込めば先生も困惑、授業にはならない。

小さな子供が「何で?」「それ何?」と口癖のように言うのは名前ではなく、何の為にどのように使う「仕組み」を知りたいからだ。

それは生きようとする本能にほかならない。

大人になるにつれて人は「何で?」を忘れてしまった。

本能を満たすことより社会に馴染むことのほうが大切なことを教わるからだ。

生き物本来の価値観から人間社会の価値観へと移り変わり、お膳立てされた情報社会の中では考えることよりも覚えることのほうが多くなり、ホモ・サピエンスとしての学びの姿勢が失われて行った。

人間社会、教育に洗脳されたと言ってしまえばそれまでだが、生きると言うことは地球の他の生き物同様「自己責任」なのだ。

学ぶと言うことはひたすら本を読み、聞いて教わることではない。

何を見て、何を学ぶべきなのか、その仕組みを知り自ら判断することであり、今からでも遅くはない。

人間の常識から思考を開始する限り常識の壁を超えることはない。

壁が見えないからだ。

間違い、矛盾だらけの常識に自らの運命を託すほど人は愚かではないはず。

先入観やプライドを捨て、自然界を見て子供心を呼び戻してもらいたいと願っている。

真実は身近なところにあるものだ。



学びの哲学

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