12.20ー東京バレエ団「M」とOMー2 | 村尚也ブログ 過剰なままに

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おどりの空間 主宰 村尚也が、時に熱く、時にクールに日々を綴ります。

外はいい天気になりそうな予感ーーー

私の天気は晴れたり曇ったりかな?(笑)


先日、久々にOMー2の芝居をムーヴ町屋で見ました。ドラマとか演技、うまい下手という物差しは不要な芝居で、そこで皆がそういう「行為」をしていること自体を共に体感する時間で、これについてはゆっくり書きたいと思っています。


昨日は、東京バレエ団の「M」でした。ベジャールの「ザ・カブキ」は日本や歌舞伎、武士道などの型に捕らわれすぎた部分が妙に鼻につきましたが、「M」は傑作でした。

能楽囃子の伴奏はあまり必然性を感じませんが、では他の洋楽では何かと問われると答えられません。逆に言えば、それほど囃子に捕われない動きであった逆証でもあったのです。いわば「M」三島由紀夫に幻視される前日本という心のムーヴメントが、まずは能楽によって突き動かされ、ピアノに踊り、果てはオシャレでアンニュイなジャズでちょいと気取ってみる…

時間がないので最後の少年の切腹シーンだけを書きますと、これが扇腹なんですね。江戸末期に切腹が形式化し、実際には刀で腹を切らずに、扇で代用。扇を腹に当てた瞬間、介錯者が首を切り落とす。

果たしてベジャールがそれを意識したかどうかは定かではありませんが、腹切刀に見立てた白扇(共に長さは9寸5分です)を腹に当てた瞬間、それを開いて顔を隠すのです。これは首を切られた見立てとも見えなくはないですが、少年が敢えて演じているので、ある種の遊び、虚構に見えるのです。いわば、人生の最期を戯画化ないしは虚構の死にしたという、ベジャールの三島に対する愛情を込めた批評と読めるのです。それは題名を三島とせず、Mとしたことからも全体を通してベジャールのモーリスのMと重なって見えますから、その生きざまと作品を虚構に仕切った三島への憧れと、自分とダブらせた映像にも見える。

その少年はまた明るい笑顔で甦る。そして、冒頭にあった潮騒シーンが仏の世界へ転位する場面で終わる。プロローグとエピローグの輪廻ーーーしかも、永劫繰り返される波の満ち引きと生命の呼吸との二重奏。それが三島の処女作「潮騒」と命の終焉と響きあうーーーまだ書きたらないが、時間切れにて。