12.19ー能楽現在形など | 村尚也ブログ 過剰なままに

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おどりの空間 主宰 村尚也が、時に熱く、時にクールに日々を綴ります。

自分がトラブルの火種だと薄々は察しながらも、別の人間に責任転嫁したり、愚痴ったり…とにかく、会社や組織、家庭のことでも個人のことでも、情報を複数の人間に洩らすのは一番評価できないことですね。


この話題、これ以上つづけると、このブログが穢れるのでやめにします。


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(笑)(笑)(笑)


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昨日は半日お籠りをして、夜、パブリックシアターで「能楽現在形」の公演になんとか頑張って出かける。

ホール能のあり方を模索した演出だったが、特に「安達原」は猿之助の「黒塚」の影響が大きく、すすきやロシア式の三日月などはその最たる処。

猿之助「黒塚」では中の巻に、仏によって救われるという喜びの舞があるのが能とは全く異なる処で、猿翁がロシアで見たという月を舞台に持ち込んだのが絶妙な効果となったものだ。何故なら、闇の部分が多い三日月の細い光は、老女が微かに見た救いへの光明の象徴になるからで、能はそれを前面に押し出す台本にはなっていない。

今回の演出では、僧の祈りが終わりに近づくと、老女が月の光で照らされる(照明のサスで演者の真上から)のだが、これをやるなら真如の月=満月にしなければおかしい。

要するに猿之助式「黒塚」の、あまりに強いインパクトが能の背景を動かし、テーマをも揺るがしてしまった例ではあるが、その黒塚も現・猿之助も言っているように、個々のパーツとしての完成度は高いのだが、演出的には統一感がないのだ。

今回の能でもやってしまったことで言えば、ナマのすすきを飾った二段の上を足袋はだしで歩くということ。本来なら履物がしかるべきところ。あまり気にならないからということで、目を瞑り、気にしないというお約束にしているのは、今回の能も猿之助式も同じなのだ。取り立てて言わないようにしている、このあたりの気持ち悪さは、前例として踏襲されないうちに改めておいたほうがいい。

ついでながら、この二段三段に組まれた装置は、次の「絵馬」にも使用されるのだが、キリにアマテラスが三段の上がるとそこが高天原になる設定だが、さすがにすすきは三段目だけ残すことにしている。が、歌詞は「春」を愛でるのでどうもいけない。原を表すためと、前曲との統一感を出すためなのはわからなくはないが…(「能楽ジャーナル」に詳細は述べる予定)