文学に学ぶライフスタイル乙女塾

女性の人生に訪れるあんなできごと、こんなできごと。
実は1000年前の女性たちも同じことを経験していた!?

現代文の授業や入試問題、どんな風に考えればいいの!?

日々の生活でふと立ち止まり、
文学の世界をちょっとのぞいてみませんか。

恋愛、キャリアアップ、結婚、子育て…女性のライフスタイルに訪れる悩み。
私自身もさまざまな悩みを抱えながら生きています。

おそらくこれを読んでいらっしゃる読者の方も。


実は1000年前の女性たちも、同じ悩みを抱えていました。

恋する男性のつれなさ、仕事上の苦労、結婚生活の憂さ……。

恋に生きた平安貴族と侮るなかれ。

知れば知るほど、

男も女も、1000年後の私たちと同じように必死で生きていた姿が浮かび上がってきます。


ところでみなさん、旅行はお好きですか?
普段生活する場所から離れることで、気分転換にもなりますし、

新たなアイディアが生まれたり、自分の悩みの小ささに気づいて楽になったりするという経験のある方もいるでしょう。

特に海外旅行では、今まで自分が当たり前だと思っていた価値観が、決して普遍的なものではなかったことを思い知らされることがあります。

自分の経験や思考を相対化するきっかけとして、旅行は大事なものですね。


では、旅行という「共時的」な相対化だけでなく、

時間旅行という「通時的」な相対化もしてみましょうよ。


1000年前の女性たちがどんなことを考え、どんな生き方をしてきたのか。

知れば知るほど、あなたの仲間が時を超えて微笑んできます。

古典文学の女性たちのライフスタイルを、私と一緒に、ちょっとのぞいてみませんか。


私自身が1000年前の女性たちという「仲間」を得られて、人生が豊かになったように。

あなたの人生をもまた、「仲間」を得ることで豊かに彩ってゆきたいのです。


…そんな、平安時代と新日本プロレス棚橋弘至選手をこよなく愛する研究者の卵、morohiのブログです。


【研究活動】

・「女房の裳着―『落窪物語』あこぎを中心に―」(古代中世文学論考 第31集 2015年10月)

・「『赤染衛門集』の物語制作歌群―サロン活動としての物語制作―」(國語と國文學 2015年3月)

・「宣旨女房考―摂関期を中心に」(中古文学 第94号 2014年12月)

・「散逸物語『みかはにさける』考―摂関期女房の呼称と官職をふまえて」

   (平安朝文学研究 復刊第22号 2014年3月)

・「上東門院彰子サロン―文化を湧出する場の女房たち―」

   (人間文化創成科学論叢 第16巻 2014年3月)

・「江侍従伝再考―和歌活動を中心に―」(古代中世文学論考 第27集 新典社 2012年12月)

・「大弐三位藤原賢子の出仕時期―女房呼称と私家集から―」

    (和歌文学研究 第104号 2012年6月)

・「中宮宣旨の一考察―威子・章子内親王に仕えた宣旨―」

     (平野由紀子氏編『平安文学新論』 風間書房 2010年)

・『古今和歌六帖全注釈』第一帖・第二帖

   (古今和歌六帖輪読会 お茶の水女子大学E-bookサービス 2012年3月

    こちらから無料で読むことができます

    →http://www.lib.ocha.ac.jp/e-book/  )


【ライター活動】

ぼくらのプロレス


漫画紹介サイトFLOCKS
平安文学研究者が伝えたい『あさきゆめみし』の魅力

愛されることに不器用な貴人たちの王朝恋愛絵巻『いづれの御時にか』


現代女性が描く理想の男性像(1)―会長はメイド様―

現代女性が描く理想の男性像(2)―姉の結婚―


Spotlight

『こころ』の先生は何歳?有名小説の意外な年齢設定
誕生日がきても年をとらない国がある!?誕生日と加齢の不思議な関係

プ女子増殖中!女子が新日本プロレスにハマる理由





テーマ:

 

※芸能人・スポーツ選手は基本的に敬称略。

 

『女が国家を裏切るとき』は、2011年5月14日に急逝された、菅聡子先生のご著書である。

私の大学には、ゼミでの指導教官とは別に、学科の担任(補導教官という)がいる。
私たちは、菅先生が初めて受け持った学年だった。
研修旅行で、天理、奈良、京都とご一緒したのも懐かしい。

 

実は私は大学に入る前から菅先生を存じ上げていた。
NHKで樋口一葉の「われは女なりけるものを」という番組をされており、
父が「お茶大にはこんな先生がいるぞ」とそのテキストを持ってきてくれたからだ。
(父はカッコイイ女性が好きなのである)

 

といっても、女子大らしい物静かな先生なのか、という予想はいきなり大きく外れた。
大学1年の前期の初め、補導教官の菅先生に質問するために研究室にお邪魔したところ、
先生の研究室には、所狭しと木村拓哉や堂本剛のポスターが貼られていて、私は驚いた。

というのも、その頃私の自宅の天井にも、木村拓哉のポスターが貼ってあったからだ。
(天井に貼ったのは、寝る時に眺めることができるから)

その時私は、恐れ多くもこの先生にいわば「類友」を感じ、
「ああ、私はこの大学に入るべくして入ったのだ」とつくづく思ったのである。
(しかしそこから、16年も在籍することになるとは思いもしなかったが)

 

さらにその後、菅先生が、自分の入った合唱サークルの先輩であることも知った。
サークルに入ろうとした私にいい顔をしない両親であったが
(両親は学生時代にサークル活動をしていなかった)、
「菅先生も入っていたの」
これを言ったら、父の方は説得できた。

 

そのほかにも、(福岡出身でいらっしゃりながら)巨人ファンであるとか、
中田英寿のファンであるとか、私と好きな男性が重なっていた。
もしまだご健在であれば、今頃はプ女子になられたかもしれなくて、
(中邑真輔でもオカダ・カズチカでも内藤哲也でもなく)棚橋弘至選手のことを好きになられたのではないだろうか。

 

父と旅行するので丸ノ内線で東京駅に向かっていたら、菅先生と一緒になったことがある。
ぎゅうぎゅうの電車の中、少し離れたところから、菅先生が口パクで「お父さん?」と聞いてきて、
私はうなずいてそれに答えた。
父も、あこがれ?の菅先生と会うことができて、今となっては良かったと思う。
まさか菅先生がこんなに早くこの世を去られるなんて、思ってもみなかったからだ。


前置きが長くなったが、
この菅先生のご著書は、〈感傷〉をテーマに、近代日本において、
女性のあり方がどのように国家と共犯関係を結んでいってしまったかをあぶり出したものだ。

たとえば、第Ⅰ部第一章では、「学問か器量か」と題して、女性が学問をすることが、どのように捉えられていたかを論じている。
特に男性作家の、学問をした女性が不幸になるような描き方は、義憤を感じずにはいられないほどだ。
(現代でも、学歴の高い女性のいわゆる「婚活」が困難であるという現象は、
我々のいまいる時代が、未だ〈近代〉であることの証なのではないかと思わされる。)

 

だが、第一章の最後で菅先生はこう述べる。
「「学問」をしてしまったからには、「母の言うなりにどんな男でも夫に持」つようなことはできないし、「教育」を受けてしまったからには、知ることのできた「精神の自由」を手放すことはもはやできない。
そして、「籠を出て飛んでみよう」と思わずにはいられないのだ。女性にとっての「学問」や「教育」の持つ意味はここにある。」
(44頁)

 

自由になったからこその苦難はある。
しかし、自由でなかった頃には戻れない。
その中で私たちは、必死に生きていかなくてはならないのだ。
その覚悟を後押しする、力強い言葉である。

 

第Ⅱ部では、樋口一葉の和歌作品を通して、和歌に内在する〈女性性〉と国家の交わりを記している。

樋口一葉の和歌は、与謝野晶子のような近代短歌とは異なる、伝統的な詠み方をしている。

これまで半井桃水への恋心をしのばせた作品は注目されていたが、戦争を題材とした作品などはとりあげられていなかった。
(古典文学研究者である私はそこに、個人の思想、特に恋愛を尊ぶ〈近代〉を見るものである)

その意味で、和歌研究としても貴重な論となっている。

 

ただ、近代において、女性が和歌を詠むことに適しているとされ、女性たちが多く和歌を詠むことを学んでいたことは事実であっても、和歌自体が内在する情緒を「女性性」としてしまってよいのか、そこには疑問が残った。

そもそも和歌の歴史をひもとけば、確かに恋歌において男性と女性の詠み方は異なっているが、男性が女性の、女性が男性の立場で詠む、代詠も多く行われてきた。

また、望郷や哀傷の歌は、男女問わず詠まれている。

したがって、戦争を題に詠む場合に男性性が指向され、一方でその戦争を詠むときに伝統的な題と混合されるときに女性性を帯びた情緒が呼び出されるという指摘(135頁)があるが、「日清戦争を題材に和歌を詠む際、伝統的な題と混合されて情緒的な詠みぶりもされていた」「女性の歌には、伝統的な〈待つ女〉の情緒性が色濃かった」ということでよいのではないか。

 

また、第Ⅲ部では、吉屋信子という作家の作品が、いかに国家の欲望と結びついてしまったかを鋭く指摘する。

それは、たとえば、『女の教室』という作品が、ハンセン病の絶対隔離政策を補強し、差別を助長してしまったという事実や、近代化された中国の象徴として登場する留学生の存在……。

圧倒的女性読者を獲得していた吉屋作品の功罪が明らかにされている。


ところで、タイトルには「裏切るとき」とあるが、むしろ本書で中心的に論じられているのは国家との共犯関係、すなわち女性による言説が、国家の大義、具体的には戦争にからめとられる様である。
では、「裏切るとき」はいつなのか。

 

すでにこの本は、現在は駒澤大学准教授でいらっしゃる倉田容子氏のすぐれた書評がある。
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/52630
(倉田氏は私がマスターの学生であったころドクターに在籍されていた優秀な先輩である)

 

倉田氏は書評の中で、このような指摘をされている。
「〈感傷〉が生み出される表現の際に降り立ちながら、〈感傷〉から幾度も身を引き剥がし、著者はその機制のさまを告発
し続ける。この身を切るような読書行為を営々と自らに課してきた孤高の批評性が、読むものの心を揺さぶる。すなわち、「国家を裏切る」のは、一葉や吉屋のテクスト以上に、本書の〈読み〉なのだ。」

 

そう、「裏切るとき」は、むしろ我々の〈これから〉に向けられているといってよい。

 

また、倉田氏はこうも指摘する。
「(本書で取り上げている事例は)自らもお茶の水女子大学教員として〈学問〉を通じたシスターフッドの形成に尽力し、
 研究・教育の両面において多大な功績を残した著者自身の姿を想起せずにはおかない。
 すなわち本書は、文学研究の書であるとともに、自伝的フェミニズム批評としての側面を備えている。」

 

ご自身もまた菅先生の形成したシスターフッドの一員でいらっしゃる倉田氏の指摘を読み、
私の脳裏には、ご健在でいらした頃の菅先生のお姿が浮かんだ。

 

しかし私はそこで気づく。
〈感傷〉に溺れ、思考停止することの危険性を鋭く指摘する本書を紹介する、私のこの文章が、菅先生の思い出という〈感傷〉的なところから語り始めているこの事実を。
かくも〈感傷〉の力は強いのだということを実感せずにはいられない。


本書の最後で菅先生はこう述べておられる。

「物語に何を〈読む〉のかということそれ自体が、私たち自身の欲望の投影であるとも言える。」(274頁)

 

菅先生はここから、〈文学〉研究の真意は、文学的感傷の力に抗うための〈文学〉の戦略を熟知するためのものであると解かれるわけだが、
この指摘は非常に重い。
たとえば、摂関期の文学作品を研究する私が、当時の女性のあり方を考察し、論文化すると、そこには私自身の欲望が投影されているわけだ。
ことは〈文学〉研究にとどまらない。
本書自体の読み、さらにその書評の読みもまた、私自身の欲望の投影なのだ。

 

なお、本書は、韓国語訳が計画されている。

私自身も微力ながら、和歌の現代語訳など、お手伝いさせていただいた。

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