近年、いわゆる「キラキラネーム」が色々取り沙汰されていますが、「子」がつく名前も復権しつつあるといいますね。


私は高校の非常勤講師をしていますが、まあ、クラスに1人か2人くらいは「子」のつく名前を持つ女子がいますから、少なくなったとはいえ、根強いなと思いますね。

アキコとかユウコなどの2字で書く名前よりは、リカコとかマリコなどの3字で書く「子」の付く名前が人気のようです。

さて、ご存知の通り、「子」の付く女性の名前は、古代から見られる伝統的なものです。

皇族や貴族の女性に「子」の付く名前がつけられていたのですね。

(「姫」の付く名前もありますよ。隆姫、とか)

とはいえ、本名に呪術的な意味があったためか、男性であれ女性であれ、身分の高い人の本名は呼ばないのが一般的でした。

男性の場合は、仕事柄、記録類に名前が残されている例が多いので、本名が知られている人が多いですが、女性の場合、記録類に本名が記された人はほんのわずか。

后妃や皇女と、摂関家の妻、内裏に出仕していた女房の一部くらいなものです。

紫式部や清少納言など、后妃や皇女に出仕していた女房たちの本名はほとんどわかっていません。


昔、紫式部の本名が「藤原香子」だとする説がありましたが、あれは完全な誤りです。

同時代に藤原香子という本名を持つ内裏女房はいたのですが、それと紫式部は別人なのです。

これについては、

拙稿「散逸物語『みかはにさける』考―摂関期女房の呼称と官職をふまえて」(平安朝文学研究 復刊第22号 2014年3月)

で書いたことがあります。


さて、女房について調べていくうちに、おもしろいことがわかりました。

限られた史料ではありますが、どうも、当時の女性の本名は、父親から1字とってつけることがあったらしいのです。


父親から1字もらって息子の名前にする、ということは現在でも時々ありますが、父親から1字もらって娘の名前にする、というのはかなり珍しいのではないかと思います。

しかし、平安時代には、父親から1字もらう女子というのが、史料に散見します。


角田文衛氏の著書、『日本の女性名』上(教育社 一九八〇年)が指摘しているのは、次のような例です。


藤原道長の妻の一人である源明子は、源高明の娘。

大蔵卿藤原正光の娘は藤原光子といい、土御門御匣殿と呼称された妍子女房。

百人一首にも歌を残す周防内侍は、平棟仲の娘で、平仲子といいます。


このほかにも、藤原伊陟の娘で陟子、源経成の娘で成子、という例もあります。


もちろん、父親とは関係ない名前をつけている女性も多いのですが、時々こういう例があるのです。


周知の通り、女房として出仕をする際には、本名ではなく女房呼称をつけました。

父や夫などの男性官人の官職を用いてつけるのです。


赤染衛門の「衛門」、紫式部の「式部」、伊勢大輔の「大輔」、これらは父親(赤染衛門の場合は養父)の官職です。

部長の娘だったら「部長」って呼ぶ、みたいなことですね。


しかし、部長が複数いるような場では、単に「部長」とは呼べないので、苗字などのさらに区別できるようなものをつけるわけです。

「赤染」は(養父の)苗字、「伊勢」は父親が伊勢神宮祭主であったことからで、父親の官職です。

「紫」は本人の作品『源氏物語』のヒロイン「紫の上」からきたとするのが通説ですが、彼女は歴史物語や私家集では「藤式部」と呼ばれてもいて、それだと苗字です。


このような手がかりをもとにすれば、物語作品で内裏女房や摂関家に仕える女房が出てきた時に、父親がどういう人物か一目瞭然、というわけです。


たとえば「中納言」という女房がいたら、父親は中納言の可能性が高く、結構出自の高い女房ですよね。お嬢様です。

それに対し、「下野」という女房がいたら、父親は下野守で、中流貴族。そんなにはお嬢様ではありません。


このような女房呼称の原則をふまえると、本文が散逸してしまった物語においても、どういう女性として描かれているのか、登場人物の設定を復元することができるようになるのです。


推理小説みたいですよね?

そうなんです。

文学研究に限らず、研究とは、謎を解明していく推理小説を自ら作ることと同義なのです。


次回、「だからこそやめられない」の予定です。


追記:

女房呼称の原則については、

拙著『摂関期女房と文学』(青簡舎2018年)で詳しく説明しています。

大学図書館や国会図書館などでお読みいただけたら幸いです。