方南町をうろついておりましたら、昔ながらの商店街の中の本屋さんといった風情の秀文堂書店さんがありまして、フラフラと誘い込まれまれるままに、以前から買おうと思っていた文春文庫版の火坂雅志先生「真田三代」の下巻を購入したわけです。

で、ついつい2階のコミックコーナーに上がってしまいましたところ!
いがらしみきお先生の新刊がどよよどんっと待ち構えていました。

「誰でもないところからの眺め」 いがらしみきお




いったんは引き返そうと思ったんですね。
本日は見送ろう、と
そこまでの気構えが出来ていませんでしたから。

その気構えとは、もちろん「いがらしを読む気構え」のことなんですが、
以前から解説していますように

いがらしみきお「I(アイ)」1巻を買ってしまった

いがらし先生の作品はうかつには読めないんですよ、
「っしゃー!来いや!」というくらいに、精神がしっかりした状態でないと、
呑み込まれる。
初期友川かずきやジャックスを聞くときの心がまえといっしょです。


マンガといえど娯楽性はないんです。
命を削りながら書いてる。

しかし、表紙の装丁、そに描かれたいがらしタッチの大海原の波、そこに逆巻く不思議なオレンジ色の炎のごときもの

辛抱たまらず買ってしまった。
そして読んでしまった。

え~予想どおり、里山の裏側の森の中に人知れずあったような沼、思索の沼底に沈んでおります。

「アイ」を読んだ方にとっては「アイ」の続きのような、
「かむろば村へ」を読んだ人にとっては、「かむろば」以前のような、
そんなお話です。

いがらしファンには自明のことと思いますが、
先生作品のいつものような空恐ろしさに溢れております。


日常の微妙な変化、小さな気付き、その果てにある何か途方のないもの

その予兆
予言のようなものの数々が
あのデフォルメされた強いタッチの中で、
言葉少なに溢れかえっておりました。


「アイ」で追求されていた「私」とは何か、について
ヴィトゲンシュタインのように答えている。
そんなことは考えんでもよろしい、と

ヴィトゲンシュタインについて:魁!!クロマティ高校の哲学的考察 6

さらに、「アイ」で描けなかった、性についても

「性(せい)」とは、物事がはじめからもっている資質のことを表す広範囲な意味をもった言葉ですが、性格、性質、酸性・アルカリ性、経済性、といったように。

しかし、「性」だけで取り出すと、限定的に生殖、セックスに関する意味になります。

「誰でもないところからの眺め」では、そこに踏み込んでいます。

といっても、声高に論じたり、あえて露悪してみたり、賢しらぶってドライに解読しているわけではありません。

生殖なのか増殖なのか繁殖なのか、わかりませんが
生物は同族の個体をつくりだし世代という種の継続状況を形成しようとします。

「生きる」というのは、本来そういうことなのかもしれない。
少なくとも微生物はそうやって生きている。
社会性を持つ昆虫、アリやハチなども働きアリや働きバチ単体では生きていけません。
巣全体を含む社会構造の維持、そうやって生きています。

人間の「私」は、本当に人が生きるために必要なものなのか
そして、その本来的な意図と人間の性行動はある部分異なっている。

それを、儀礼や、コミュニケーション論で語る人もいますが、そのような難しい話しでもない、様々な小さなエピソードが大きな気付きをもって描かれている。

失われつつある「私」の中に残る性衝動といったものが、地震の予兆に震える田舎の港町の普通の生活の中で、普通に描かれています。

「羊の木」でも、そのあたりは描いてありましたが、どこかカリカチュアして滑稽にしてありました。

ということで、これから読む方にネタバレしないように、とりとめもない
解説になってしまいましたが、ぜひ皆さん読んでみてください。

文学であれば、完全に芥川賞ものです。

いがらし先生は、マンガの可能性のひとつを常に常に切り開いてらっしゃいます。

あの深くて広いデフォルメの海の中で