ツイッターをまとめることができるトゲッターという仕組みがありまして、
そこに「マンガの窓表現が最近凸凹リアルになってることについて」と題して窓の取り扱いに関するツイートをまとめたところ、
高評のようでして、ツイッターの文字数では書ききれない部分もありますからブログの方でも加筆転載してみたいと思います。
僕らが実際の建築デザインするとき、窓回りのディテールをどこまでシャープに出来るか、というのが非常に重要な要素なんです。
僕は他の建築作品についてどう評価しようかというとき、窓の出来を最初に見るんですね
というのも建築の質というもの、予算配分、デザインセンス、機能的要求にどうこたえているのか、、が窓のディテールにすべて現れるからなんです。
人間の性格というか出来について、ことわざでは「目は口ほどにモノを言い」、とかいいますが
建築においてこの目に相当するのが窓だからです。
窓は結構勝手にしゃべるんです。
参考:悪の組織がアジトにしやすい建築
歴代の建築で一番凄い窓としてはこんなのがあります。
事例はミース・ファン・デルローエによるバルセロナパビリオン(1929・昭和4年の作)ですが、今から90年以上前の建築ですが床、壁の大理石とステンレスのシャープな線だけで構成されたモダニズム建築の代表選手であり、歴史的名作です。
もはや、窓というよりも空間における補助線といいますか、抽象的ラインです。
こんなのが理想とされています。
ところが、なんですが
現代の日本の一般建築においてミースの時代から90年後の未来にもかかわらず
日本の建築設計で一般的なアルミサッシだと、もう窓回りのディテールがどうしようなくダメなんですね。
枠周りがガッタガタで縦方向の部材と横方向の部材もデッパリとヒッコミで面(つら)がそろっていないし、溝々コキコキになっているんです。
もちろんこのガタガタ凸凹にも理由があります。
誰も好き好んでこうしたくはないと思うんですが、、
昔アルミ原料が高かった時代に、アルミ使用料を減らし強度を出すために断面を工夫したとか既存の木造住宅において木製建具枠にくっつけることを前提にしたといったあたりが理由だと思うのですが、
40年前に開発したときから大きな進化が止まっています。
こんな感じの断面形状が普通なのですが、
木枠に取り付けるためのツバだとか、、結露水をためるとか、、
か雨水の逃がしのためだとかです。
しかし、日本のサッシ周りのデザインの悪さは、掃除のしにくさでもあります。
じゃあ、日本ではシャープなサッシは無理なの?というと
日本でもガタガタにならず窓ディテールをシャープすっきりにすることはできるのですが、
写真は谷口吉生さんの葛西臨海広場展望広場のサッシ割です。
サッシ枠そのものが特注になったり、細いフレームで強度を増す必要があるとか、取り付けに関してもアソビがなく非常にシビアになってきますから、コストが倍ではきかなくなります。
現実の世界の窓回りデザインはキレイな四角の枠ではなく複雑な断面形状の部材が凸凹と一筋縄ではいかないんですが、、、
マンガの世界では窓は記号化されて谷口吉生さん張りのシャープさを誇っております。
サザエさんちの居間ですが、後ろのサッシはなかなかキレイですね。
ノビ太の部屋のサッシもキレイですね。
これはですね、「二重に四角を書いたら窓に見える」記号ということもありますが、木製窓だからなのです。
昔の木製窓は枠断面を四角につくってました。
気密性には劣りましたけど
今では木製建具をつくれる建具屋さんの数がものすごく減ってしまって、製作値段も上がってしまい、中古で売買されたりもするぐらいです。
でもそのあたりの木製建具事情のことを採りあげています。
マンガの窓の話に戻ると、
いわゆるマンガの絵はデフォルメされるのが普通でしたから
窓もデフォルメされているわけです。
じゃあ、劇画はどうなんだ?と
劇画って今の若い人は知らないと思うのですが、
劇画は時代劇が多かったですから、めったにアルミサッシは出ませんね。
しかし!
リアル背景の元祖とも思われる大友克洋先生です。
ところがですね、、
大友先生の場合、案外、窓回りは洗練されてキレイなんですよ。
これは童夢の1シーンですが、窓枠がすっごい細いです。
カッコいいぐらいに
刑事たちが会議している建物でも
天井ギリギリでそろえたり桟も細くてミース・ファン・デルローエとか谷口吉生並みのシャープな窓ディテールです。
そのためか、あんまり貧乏臭くないですよね。
しかし、昨今のマンガ空間において、住宅用アルミサッシの安っぽさや、ダサさのリアリティが急激に上がっています。
この絵でもそうですが、縦部材と横部材の幅が違うこと、枠が凸凹していることで、普通の賃貸アパート感が倍加してもの悲しさを補強しています。
浅野いにお先生の「ソラニン」です。
この部屋にきっと誰か住んでいたのでしょう、もしくはこれからここで新たな生活を始めるのか、、ギター一本を見つめる彼女の背景がいわゆる普通でダサい窓であることが重要ですね。
この絵を、空間を
比較の意味で建築家デザイン変換してみました。
天井ピタリで、サッシ窓枠を細く縦横同寸法で凸凹無くしてあります。また壁と床の境目にある巾木も取ってみました。なんかヴィトゲンシュタインの建築とかバラガン邸みたい、、、です。
さらに建築家デザイン変換を施してみました。サッシを壁面のセンター配置に変えて、開口幅を拡大。だんだん安藤忠雄さんのマンションみたいになってきてしまいました。
ヴィトゲンシュタインというのは有名な哲学者なのですが、
参考:魁!!クロマティ高校の哲学的考察 6
ある時期彼は建築をやってるんです。
当時としてもアヴァンギャルドな建物、「ストンボロウ邸」といいましてヴィトゲンシュタインのお姉さんの家ですね。
この家の何が凄かったかといいますと、家の中の構成部材の配置や寸法を徹底してエシックスに基づきコントロールしたことにあるのです。
Ethicsエシックス=倫理というと道徳的な意味にとりがちですが、ここでヴィトゲンシュタインがやったことの何が画期的かといいますと、
縦横の比率であるとか、センターに合わせるとか、ピッチとかエッジとか徹底してここでの美学規範や倫理規範に基づいた設計をしたのです。
つまり、この建築空間の内部になんらかの思索的ルール(ヴィトゲンシュタインの考えた)を張り巡らせてあり、それが何か?は容易に他者にはわかりませんが、何かの仕掛けがある!ということは伝わるのです。
同時に世俗的な生活感は完全に消し去られています。
哲学の限界を言語の限界と定義しようとしたヴィトゲンシュタインがさらに大きな思索に向かうきっかけは、この建築に携わったことだといわれています。つまりこの建築は「建てられた書物」なのです。
ルイス・バラガンも同様な仕事をした人です。
長く謎の建築家でした。
40年以上前からメキシコの建築に詳しい建築家の鈴木恂さん建築写真家二川幸夫さんらによる紹介意外には断片的な情報しか得られず、特に完成建築を人に見せない、作品集とか作らせないことで有名だったのです。
その死の直前に建築家の齋藤裕さんが接触に成功し、大規模に網羅的な写真撮影を敢行し出版されたことでよく知られるところとなりました。
ルイス・バラガンの場合は、建築から「窓という記号」を消し去ったことに特徴があります。
上の写真でもそうですが、細い細い十文字の間にはガラスが嵌っているのです。しかもこの開口はとてつもなく大きいのですが、全体に空間の大きさを推し量る部位が消去してあり、家というよりなんらかの思索装置のようでもあります。
同時に窓の外の風景は日本の庭と比較して、整えられたとはいいがたい雑木が生い茂る雑木林ですが、一幅の絵のようです。
そして、バラガンの一番の特徴は、この室内風景を30年間ずっと維持したというところにあります。置いた家具の配置も一切動かさないで厳密に守られていたと聞きます。
外の風景は季節を通じ変化していったと思うのですが、室内空間は永遠に止まったままを演じ続けていたというわけです。
この空間に時代や近代化を表現する設備器具が見られないでしょう?
照明もどこにも見えませんよね。
つまりは、時間を止めたのです。
それでも住んでいるうちに経年変化により徐々に汚れたり、クスんでくるはずなのですが、そういったとき何をしたかといいますと
色を塗り替えました。元の色に。
つまり、伊勢神宮の式年遷宮のようにバラガンが決めた室内環境はそのたびごとに再生し永遠に続いているのです。
上の2例に見られるのは何か、といいますと
建築の言語的表現、抽象的価値、形而上的、哲学的な意味を問うたわけです。
建築には広さとか強さとかいった物理的価値や売価だとか資産だとかいった経済的価値以上の何かを込めることもできるのです。
両者ともに80年近く前のモダニズム建築と同時代の人でしたが、その真の評価が叫ばれ始めたのがこの20年くらいというところも興味深いです。
大きく話が飛躍しましたが
窓の話でしたね、
実は建築の歴史上窓の大きさというのは100年近く前までは大きなテーマだったんです。