というわけで、大川のさまざまな生産現場を拝見して、ものづくりにおける
その多様性、その迅速性、その融通性に驚愕していたわけですが、

そのころにはすでに不況の波といいますか、デフレの影響といいますか、

前述した船舶艤装の木工所でも何を作っているかというと、カラーボックスなんです。
「なんで!?こんなにすごい工場なのに!」って思ってよくよく話を聞いてみると、
どんどん仕事がなくなっていく中で、職人さんや工場を維持するためには、
なんでもやらなくっちゃならない、社長が取ってきた仕事がそんな安売り家具だったと
しても、仕事がないよりはマシということでした。

しかも、発注元の家具量販店は信じられないくらいの廉価で注文しているんです。

「この価格で受けないんなら、中国に発注する。」と脅されて、呑んだと聞きました。

木工所だけでなく、塗装工場でもそうでした。

「尺いくら」って言うらしいんですが、この場合の尺とは3尺=90センチのことですが、
いわゆるタンスは大体幅が90センチでしょう、そのタンスの正面。
開き扉であろうが、引き出しであろうが、銘木突き板の表面を下地から磨きから
仕上げのニス塗装までおこなって1500円で受けているとか言ってるんです。
幅90センチで高さ180センチの家具の正面仕上げの塗装がたったの1500円ですよ。
100本受けても15万円にしかなりません。
それを家族三人で受注していると聞きました。
またしても、「それで受けられないんなら、中国へ発注する。」と発注元から言われたからだそうです。

この話を聞いたときに、私はむしょうに怒りがこみ上げてきて、

なんというか、安い家具を売りたいがために、
同じ日本人の職人さん、しかもすごい職人さんに向かって、
「これでやれないんなら、中国に発注する。」とか脅して注文しているんです。
そんなにまでして安モンを買いたいのか、、この国の消費者は。
とも思いましたし、仕事とはいえ、
家族3人で100本ものタンスの塗装をしても生活できるかどうかわからない金額で、
注文を出さざるを得ない大手量販店の調達部長や、
それでも唯々諾々と受けざるを得ない工場や、
何か、そういった全体の状況に対して、あまりに腹が立って、
ものづくりの街を盛り上げてほしいといわれて、のこのこやって来た自分は、
そんな話しを聞いているうちに、何か底冷えするくらいの無力感で、
思わず悔しくて泣いてしまいました。

また、工場めぐりをしているときに、国道に黒塗りのベンツが数台止まっており、
道脇の家具工場から、サングラスや坊主頭の黒スーツのおっかない人たちが、
機械やらなにやら運び出している場面に遭遇しました。

債権回収で工場が差し押さえられたのでしょう。
案内役の方が「このあたりで台風といえば手形のことなんですよ。」と教えてくれました。
台風手形というのは210日以上、7ヶ月後にならないと現金にならない手形のことです。
つまり、今日仕事を終えて支払いをこの台風手形でもらってしまうと、現金になるのは
来年の3月末、という支払ってもらってるのかどうか実感がわかない支払い形態です。

で、しょうがないからこの手形を現金化するために手形割引業者にところに持っていくと、
7ヶ月後でも大丈夫そうな会社なら1割とか、信用なさそうなら2割とか、
この手形を担保に高利でお金借りるとか、そんな感じで資金融通をしまくって、
発注先と受注先が古くから知り合いなら、お互いが手形を振り出しあうとか、
裏書人が30人くらいつながっているとか、
そんな、「なにわ金融道」顔負けの事態があちこちで起こっていたんです。

これは、何か、全力で即効性のあることやらないと、

地元の地銀の担当者の方とも話したんですが、1年で十数社が倒産の恐れがある、と
聞きました。十数社といってもそこで働く従業員さんとかその家族まで合わせると、
10000人単位です。毎日3~4人が死んでいくような世界です。

移動中にすれ違った楽しそうに下校中の数人の小学生とかも、
お父さんやお母さん、みんな家はきっと家具製造工場とか職人さんなんです。

当時5万人ほどの人口の町の就労者の7割が家具木工に従事しているということは、
その家族も含めて3万5千人が家具木工で生計を立てているということです。

何か地域や国で対応策は打っていないのか!と思ったんですが、、、

地域には国から補助金もあったり組合費用で家具デザインのフェスティバルとか、
コンテストとかも数千万単位でお金かけているみたいなんですが、
何をやっているのかと思えば、
補助金支給の大本で、大手の広告代理店がアタマはねして、
くっだらねえ二流の似非デザイナーや准教授が審査員とかして、芸術系学校の学生や
仕事のない自称建築家が考えた、使えない家具とか、建ちもしない空間デザイン模型に、
賞金出すようなイベントはいっぱいやってたみたいでした。

地域産業を盛り上げるための根本的な対応策ではなく、
ちょことっとマスコミに露出させて終わり、といった作業です。


なぜ、地域産業とかにこんだけ熱く興味があったかというと、
私の故郷というのは岡山県西部の町なのですが、江戸時代の備後絣をルーツとして、
かつて昭和40年代には国内産ジーンズの7割を生産していたという人口4万人程度のところ
なんですね。
だから、地元ではあらゆるところに紡績工場があったんです。
小中高通じて、友人には機織や縫製や紡績やボタン付け、やファスナー付け、タグ付け等々の
中小工場の息子がいっぱいいたんです。
みんないってみれば社長の息子なんですよ。
それが、ちょうど私が高校生くらいのころから、縫製関係が安い安いで、
どんどん中国や朝鮮に逃げていって、バブルが終わるころにはほとんどの工場が閉鎖。
東京の大学にいって、帰省するたびに、
工場が消え、商店が消え、駅やバス停が消えていくんです。

最後にリーバイスの日本工場が閉鎖されてみんな廃業したんだと思います。
自分の故郷の町の地場産業が数年の間に消えていくのを見てるんですね。

だから、大川のものづくりが存亡の危機だというのは、
思いっきり実感できたんですよ。
現実に日本からジーンズ生産体制が、ジーンズの町がなくなっていくとこ見たんですから。

一介の設計士の俺に何がいったい出来るんだろう、、
小手先のデザインがどうだとか、そんな甘っちょろいもんではだめだ。
何かもっとボトムから考えないと、、、
と頭を悩ませ続けた2年間が始まりました。

当時ちょうど、建築の設計実務に加えて早稲田大学政治経済学部の
大学院、白木三秀先生の研究室で経済学の論文も書いていたんですが。
建設業界の生産性においては人的資源の質によることが大であり、
そういった意味ではOJTによる熟練技術者教育のネットワークが不可欠といった内容でした。
大手ゼネコンの企業内熟練による内部労働市場なんかを扱っていたのですが、
大川の町を見て、企業内どころか街全体で業務のリレーションシップがあって、
地域内熟練というか、大川に生まれるとすでにOJTが始まっているというすごい街だったのです。

つづく


私がマキシマム ザ ホルモンを知ったきっかけとは
家具の街大川でマキシマム ザ ホルモンを知る 2

家具の街大川でマキシマム ザ ホルモンを知る 4
家具の街大川でマキシマム ザ ホルモンを知る 5
家具の街大川でマキシマム ザ ホルモンを知る 6