昨日11月30日。

冷たい雨が降りしきる中、タイで亡くなられたノ・スボクおばあさんの追悼式が行われました。

当日、遺骨で母国の地に帰ってきたノおばあさん。

クォン代表は空港までおばあさんを迎えに行き、追悼式場までお連れしたそうです。

在日のウリハッキョの為に、ご自身の生活費を削りながら貯めた大切なお金5万バーツを寄付してくれたおばあさん。

タイからの心暖まる寄付の話
http://ameblo.jp/mongdangj/entry-10994197520.html


弔報・ノ・スボクおばあさんが他界されました。
http://ameblo.jp/mongdangj/entry-11072365713.html

おばあさんの気持ちは決してわすれません。

安らかにお眠り下さい。

モンダンヨンピルの記事、聯合ニュースの記事をお届けいたします。

故ノ・スボクお婆さんの追悼式。もう故国の地で何の心配なしにゆっくりお眠り下さい。

11月30日。午前9時仁川(インチョン)空港から出発した棺が午前11時に光化門の日本大使館前に到着し、その場で追慕式が行われました。モンダンヨンピルでも何人かが参加し、献花も行い一緒に涙も流しました。特に、クォン・ヘヒョ代表は、朝早く空港に到着して、故国地に永眠するために来られたお婆さんの遺影を胸に抱いて光化門までお連れしました。天気は寒く、悔しみの雨がとめどなく降りました。

ノスボクお婆さん!心の底から祖母の心を大事いたします。
お婆さんが聞かせてくれた"アリラン"を忘れません。

モンダンヨンピルcaffe

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来る12月14日は元慰安婦らの水曜デモ1000回目を迎える日です。
日本の良心的な市民団体がその日、日本外務省の人間の鎖で包囲しようという運動を提案しました。
また、"戦争と女性の人権博物館"を作るための募金口座を促進し、良心的な日本人たちにも呼びかけています。以下はそのチラシです。

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<"ハン(恨)多き人生"慰安婦故ノ・スボクおばあさんの追悼式>


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イ・ヨンスンおばあさんが遺骨を手に取り涙を流している

(ソウル=聯合ニュース)キム・スンウク記者="おばあさんが故郷をしのんで好んで歌った一生忘れることができなかった歌、"アリラン"をおばあさんの肉声で流します。"
長い時間、他国からの風波の中で国語を完全に忘れてしまったという、故ノ・スボクおばあさんだったが、スピーカーから流れ出たおばあさんの"アリラン"は完璧に近かった。

追悼式を見守っていた6人の日本軍"慰安婦"ハルモニたちは、ノおばあさんの悲しい"アリラン"にハンカチを取り出して涙を拭いた。

日本軍慰安婦に連行されたがついに戻ってくることができずに享年90歳最近、タイで生涯を終えた故ノ・スボクおばあさんの追悼式が30日午前、在韓日本大使館前で開かれた。

11月の冷たい風雨が吹きつける中で、80名の慰安婦だったおばあさんたちの遺族、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の関係者など30人余りがノおばあさんの最後の道を見送った。


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慰安婦のおばあさん達が追悼式に参加している

会場に事前に到着し、この日の朝、故国の地を踏んだノおばあさんの遺体を落ち着いて待っていた慰安婦のおばあさんたちは、黒い棺車から降りた遺影と遺骨箱に会うとすぐに両手あわせ泣いた。

追悼式は、テントの下で行われたが、雨が風に乗っておばあちゃんたちの頬を濡らし涙と雨を見分けることが難しかった。

21歳の年齢で日本軍に連行され、シンガポールやタイなどの地で慰安婦生活を強要されたノおばあさんが、遺影の中では誰よりも明るく笑っていた。

追慕の雰囲気は、挺対協のユンミヒャン代表が追悼の辞を述べると絶頂に達した。

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追悼式で追悼の舞(鎮魂舞)が踊られている

"4月のタイ訪問時に故郷を訪問したいと腕の強さを自慢したおばあさん。8月に故郷を訪問し、幸せそうな笑顔でありがとうと仰ったおばあさん。私たちは再び会う日は雨ではなく、涙ではなく、暖かい太陽の光が私たちを照らしてくれると信じます"
1時間の追悼式が終わってノおばあさんの遺影と遺骨箱は再び霊柩車に載せられた。

遺骨箱を撫でていたおばあさんたちは、車のドアがしまると霊柩車を撫でた。

"おばあさん、お眠り下さい。ハン(恨)多き人生...。天国に行ってゆっくりお休みなさい。お眠り下さい、おばあさん。さよなら、お姉さん...。"
 ノおばあさんの遺骨はこの日午後、慶尚北道イェチョン郡ソンサンの両親のそばに埋葬される。

URL
http://www.mongdang.org/208