ゆでたまごになりたい -4ページ目

まなび

こんにちは
hittomです

最近はそれなりに忙しいです


普段誰かに

「最近何してるの~?」

などと聞かれると
とても困ってしまいます


いつもだいたい

「うーん、ふつう」

みたいな返答しかできないからです


ふつうに日々を生きているので
特別なことはとくにありません


おきて
ごはんたべて
学校いって
バイトして
友達と会って
買い物をして
本をよんで
おふろにはいって
勉強して
寝る


いつもなんだか
いろいろと忙しいような気がしているけれど
具体的には何も答えられない


けれどこの質問をされたときに

「暇だよ~」

とは言わない自分がいたりして



どうしてかなあ、と思っていました

見栄?
でもほんとうにそれだけ?

それだけではないな、とも思いました



けれど考えてみると

きっと ほんとうは 暇なんです



暇だから、余裕がない



たぶんそうゆうことだと思います



こころとか
あたまとか

めにみえない 動きがわからないものが



あしとか
てとか

めにみえる  動きがわかるものが
動いていないときに


ぐるぐるぐるぐる


しちゃってるんだろうなあ と思います




ここのところわたしは



忙しい=余裕がない



ということではないと思っています

というか
そう思うようになりました



余裕がない=忙しい



ということではない
というほうがわかりやすいかもしれないですね




いままで
わたしはいつも

余裕はないけど
忙しくもない

そんな毎日を送っていたのだなあ
としみじみ思います



そして
そんなことを考えていると

なんだかとっても寂しくて

あああ~

と目を覆いたくなるような
いたたまれない気持ちになりました




まなぶことがたくさんある

そんな忙しい日々に
感謝・感謝です



終わってしまったものごとについて

お久しぶりです

hittomです


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まずはじめに



この度の震災で被害を受けた方々


いまだ余震が続き、不安にしておられる方も多いと思います。


私ができることなど、たかが知れてはおりますが

できることは今後3年・5年・10年・・・と

長きにわたって取り組んでいこうと思っております。


皆様が心穏やかに過ごせる日々が早く訪れるようにと

心より願っています。


何卒ご自愛くださいませ。


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私にとっても、厳しい日々が続きました


多くの人の状況を変えてしまった震災




はやいもので、あれから約3ヶ月。


慣れによる鈍化が進んでいます。

(少なくとも私は、ということですが)




その中で思うことは


わすれるべきこと

わすれるべきでないこと


という線引きの難しさです。



心が痛みます。




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今日は

終わってしまったものごとについて



震災の前と後で

私のこころから何かが失われたような

そんな気がしてならない最近です。



生きていく中で

納得できないこと・違和感を感じるもの

誰しも出会うと思うのですが



震災から


その違和感が際立ったような

(輪郭がくっきりとみえるようになったような)


そんな毎日を過ごしてきたように思います。



そんな中感じた話です。


またまた抽象的です。

ご了承ください。






「ああ、これはもう終わってしまったんだな」


と思う瞬間ががありました。



そして



「ああ、これはもう終わってしまったんだな」


と思った瞬間に

それは終わってしまったんだと思いました。




ものごとが終わり続けている


終わりに向かっているときは


全くそのことに気づくことはできません。



悲しいことに もうそれは


“終わってしまったものごと” でしか存在し得ない

“終わってしまった”こと    で初めて存在するものごとなのです。




うーん

うまく言えません




終わり続けているときは気づかないんです

死につづけているときに気づかないように



(例えが悪く不快な思いをさせてしまったらごめんなさい)



そして

一度終わってしまったものは、もう始まりません

たぶん



近似値をはじき出しても

同一になることはないでしょう





これが喪失する、ということなのかな


と最近思っています




そうして喪失していくことが

生きていくことの醍醐味なのかもしれませんが


なかなかさみしいものですね



なにごとにもよらず


いいことも

悪いことも




終わってしまったものには

美しさすら、感じてしまいます





憧れ

ときめき

どきどき

わくわく


好奇心や探究心も


そのように

ひとつ ひとつ 


終わってしまうのでしょうか?







こわいなあ






というわけで、また着地せず、さようなら!





cf、

最近読んだ文章の中に


歳をとると落ちるポテンシャルのひとつには

精神的に「傷つく能力」 も含まれている


というような内容のものがあって、つい、感心してしまいました。 

あ、あんまり関係ないか。

それは何色か


生きるということは、働くということか、食べるということか


最近はそんなことばかり考えています。

相変わらず迷宮入りです。

hittomです。



冒頭のテーマについて書くためには

もう少し頭の中でこねこねしないといけないようなので

今日は違う話で書こうと思います。



ずばり


「就職活動のさなかに思うこと①」


ということでいいですか(今考えた



11月頃?10月頃?

いつだったかは忘れましたが

就職活動に関するセミナーを大学でひらいていまして


それに全員出席しないと今後就職支援をしませんと脅されたので

(言い方悪いですが私的解釈によるとそう受け取らざるをえませんでした)


とりあえず足を運んでみました。



正直な感想として

嫌悪感しか感じませんでした。



まあ、それはきっと、偶々だと思います。



けれど、そのときに感じた嫌悪感がなかなか忘れられず

文章にしてみようと思いたちました。


では、考えます。


なぜ嫌悪感を感じてしまったか?


それはきっと

「らしさ」

に関する言及があったからです。


「学生らしく」

「女性らしく」

「子供らしく」

「大人らしく」

「彼女らしく」

「国民らしく」


うーん、


あらためてこう書いてみるとなかなか攻撃的ですね。



どういうことかというと



ひとによって

ひとつの言葉に対する認識はさまざまです。



ということです。




共通感覚

コモンセンス


そんなものはどうやらおぼろげにあるようで

実はないらしいです


(高嶺格さんの「とおくてよくみえない」展をみて若干影響を受けています。詳しくはまた書きます。)


だから同じ「赤」という言葉をみて


私の想像する「赤」 と

あなたの想像する「赤」 が


等しく「赤」=「赤」となる


というわけではない、ということです
自分なりの世界認識をしている ということです

(まあよく考えたらそうですよね)


そして、


どうやらここでわたしは

 「らしさ」 という言葉に

敏感に反応してしまったようなのです。


わたしのなかで 「らしさ」 とは憎むべきもの


としてインプットされているようですね。


がっちがちに否定するわけではありませんが、

個人的な体験から、嫌悪感を想起させるのでしょう。


「らしさ」を求めた瞬間に

「らしく」なくなる


「らしく」しようとすればするほど

「らしさ」は失われていき


ほんとうは、自分は、欲求は、感情は、

なんだったのか


簡単なことがわからなくなるのじゃないか


そんな不安を煽るようで、

それは心を苦しめると思うのです。



(抽象的ですね。具体的に話をするのは苦手です。)



けれどそれは「らしさ」に対する私の認識であって

たぶん学校の先生は

悪い意味を付与するために使ったわけではないと思います。



そしてその経験に関してしばらく考えてみたところ、最近


就職活動をする際に頻繁に使われている言葉には

私が嫌悪感を抱く言葉(もしくは使い方)が高い割合で含まれている


ということに気づきました。



それまで、

人物のまとうオーラのようなもので


就職活動に対して

よくわからないもやもやした苦手意識

を若干抱いていました


けれどそのことに気づいてからは

なかなか興味深く取り組めるようになったかな と思います。



まっ

とりあえず今日はこんな感じ。


また予想もしてない着地点。