毎年今日1/17になると不思議な、そして複雑な気持ちになります。
そして今は少し離れてしまっていますが、神戸と言う街、家族、仲間が無性に恋しくなります。
同級生たちは同じ想いで幼少期を支えあい暮らしたからか
同じ傷を負ったものだからか
今でも結束が強く、頻繁に関西に帰っていた3年前ぐらい
(会社を興す前)は帰るたびに集まっていたような・・・・☆
あの地震を経験してから、ちょっとやそっとの事では動じなくなりました。
当時の振り返りは過去のブログ参照☆
私の実家は神戸の東灘区で、阪神淡路大震災で家屋の倒壊率が最も高く、死者の数も高かった地域です。
当時反抗期に突入したばかりでそれまでは一人で生きてきたような
生意気な物の見方で、親や学校、世間を見ていました。
でも地震で気づかされた事は、自分は一人では生きて居ないって事です。
どんなに強がったって、人は人に支えられて生きているんです。
それは地震後に自衛隊や個人ボランティアや企業ボランティアの方々によって力づけられたので
痛感しました。
当時学校にはみんなにお母さんと慕われていた保健の先生が居ました。
厳しく体育会系の先生が多かった中、いつも温かいオーラで、諭すように皆に声をかけてくれた先生でした。
不登校の子に対しても親身に優しく母親のように包みながら接していました。
どの先生よりも身近に感じていた先生でした。
でも・・・・・・
その先生も震災で亡くなりました。
幼心に皆信じられなかったと思います。
震災が少しおさまり、底が抜け落ちめちゃくちゃになった教室に入った同級生が黒板にあるものを見つけました。
「〇〇先生ありがとう!」
黒板いっぱいの大きな字で保健の先生の事を書いてあったそうです。
他にも、後輩や友人の妹、近所の方、身近なだけでも多くの方が亡くなりました。
当たり前の日常の有難さを痛感しました。
同級生たちを見ていると、保健の先生の影響で、教職の道に進んだ子、養護の道に進んだ子
現在もボランティア活動をする子、海外の困窮の事業に携わっている子
震災が私達を変えた事は言うまでもありません。
そして私には何が出来るだろう・・・・
漠然と考えます。
でも行き着く答えは、何か人のために動くには、まず自分を画一することでした。
そして今を一生懸命に行き、震災を風化させないこと。
それが地震で亡くなった先生をはじめ多くの方々へのせめてもの弔いになるのではないかと
思います。
最後になりましたが
阪神淡路大震災でお亡くなりになられた方々へのご冥福をお心より祈りいたします。