昔 太陽の黒点は自我という話を聞いたことがあります


世界とは内側であり ミクロとマクロですから それは 合っていると

思うのです


惑星はチャクラだと思います


では 重力とは?


私は 重力は執着だと思うのです

宇宙は無重力であり地球と時間が違いますね


内側でもっとも小さいものが外側ではもっとも大きい


内側でもっとも小さいものは意識です


では もちろん意識=宇宙ということになります


そして 意識には時間がありません 時空を超えます


実際に自我が消えてゆくほど内側は軽くなり 苦悩もなくなってゆきます


では 愛は?


愛=ヒントではないかと思います


世界が鏡であると気づいたものは自我の放棄にとりかかりますが

愛が進む方向を示してくれていると思います

灯台のようなもの


自我まみれですと本当の愛 無条件の愛はちらつくこともありませんが

どんどん自我が少なくなるにつれ 無条件の愛は 見え隠れしてきます


時間も空間も存在していない愛 宇宙の声は 自我が静まるときこえだします


それは 声なき声


非言語の世界


我々の身体は 三次元 外に向かっています 手も 足も 目も全て外側を向いています


でも 本当に向かう方向 四次元は内側です


木は暗い土の中に根を生やし栄養を吸収しています 葉は太陽 明るい世界に向いていますが


大事なのは内側です


人間も同じ


二つの目ではなく 第三の眼が真実の世界


そして 最も重要になってくる自我は 心地が良いという感覚や気持ちの良いという感覚の時


これらは 最も見逃しやすい


人間は 人にされたことや 辛いことを記憶する傾向があります

自分のしたことは忘れます


そして 心地のよいものを好みます


それらを しっかりと見つめることが大切です


すぐに三次元に 夢中になってしまい 内側を見ることを忘れるからです


けっこう多くの人が辛い時だけ祈ることや瞑想するという傾向があるかと思いますが

大きな間違いです


逆です



楽しいと感じる時 それは 自我満足の時だと知ることです


見つめること

内側にはいることを忘れないで


いつもいつも 自我を見つめる第三者を忘れないで

皆様は 毎日 笑って過ごせていますか?


心の中は 穏やかでいられていますか?


大人になると 子供の頃のようには 笑っていないですよね


でも 笑うこと 口角をあげることは とても大事です


身体は心と繋がっていますから  楽しいことがなくても口角をあげる癖を

つけると良いですよ


楽しいから笑うのではなく 笑うから楽しいという生き方に変えてみませんか?


私は 思い出しては口角をあげていますが とても良いものですよ



女性は特に ホルモンが・・・体調が・・・と いらいらしている方が多いですよね

いらいらは 周りにも影響し 結果 鏡ですから 自分の心に大打撃を受けますよね


何かのせいにするのは やめませんか?


どんな体調でも 口角をあげてみてはどうでしょう


今年 すでに流行語とささやかれている方の中で 私が注目したのは 3つの言葉


まずは ラッスンゴレライさんの ちょっと待って お兄さん

これは まさに 自我へのメッセージですね


自我は すぐに 意見や文句を言いますね  そう心に何か不満が浮かんできたら

ちょっと待ってですね


次に 上西議員さんの エモーショナルですね


彼女は お化粧や言動も 色々と問題にされておりましたが あれもメッセージですね


本人だけが気づいていないという まさに典型的な自我ですね


エモーショナル 外側の言動に反応しない これ大事です


最後に クマムシさんの あったかいんだから~は 自我を捨て去った空の状態ですね


何もない状態 それは 本当に愛で満たされます


この世界は あなたの心なんです


世界を否定した時 それは 己を否定していることになります


否定したくなる心は自我が原因です


自我は どこまでもどこまでも しつこく存在していますから 

気づかないと 大変なことになります


この瞬間も いらいらしている人は 未来もいらいらします


マイナスループにはまると 抜け出すのは大変です


ですから 常に口角をあげ あらゆることに感謝をする癖をつけてゆくことです


一日でも 否定しないで 過ごしたことがありますか?


世界は操縦できない 自分の思い通りになるものはないと 認めてください


そして 他者の言動を否定しない


私の父は 行ったことないスカイツリーにも 去年行ったとか 近所のお総菜屋さんで

パートをしていたとか  毎日 朝からTVを観賞しているのですが TVの電源を入れたことが

ないとか・・・  色々 幻想話がでてきます


以前は 反応していましたが  それが間違いだと気づきました

実際 父が本当にスカイツリーを見ていようが見ていまいが

お総菜屋さんでパートをしていようが していまいが 今の私は どちらでも変わらないという事実に気づきました


人の記憶が自分の記憶 認識と違うということが厭だったわけですよね


それが自我だと気づいたのです


私の中で 父の発言に反応してしまう日が 自我をしっかり見つめる目安になっています


人は心地よい環境を求めています


しかしながら それが 鏡の世界の罠です


心地よくない環境や出来事にこそ 気付きのチャンスがあります


時々 自我は またまた都合の良いように 心地よくさせる為に 無になるということを

思いつきますが それは また間違いです


心地良いとか悪いとか その判断がある限り 次元を超えることはできません


どの状況でも ただ 感じて 見つめて 反応しないでいられること


お花を見るように


すみれはすみれ ローズマリーはローズマリー 雑草は雑草 お花なら そのままを

見られるでしょう?


どうして 人間や動物になると そのままではいられないのですか?


そこには 全て同じ要素しかありません


自分の心地がいいように・・・ ただそれだけです


世界には認知症が増えていますが それは 鏡である あなたが 認知症だということです


あなたが すぐに鏡世界を現実だと思いこんでしまいます


ヘルパーである世界が 鏡ですよ 自我を捨てなさいと言っても すぐに忘れますよね


でも 最近は 少し 記憶できているのではないでしょうか?


この世が夢のまた夢であるということを・・・







幼い頃 私は この世界のことで確信していることがありました


それは 時間は逆に流れているということ


エジプトやピラミッドに興味があった為 そう思っていたのかもしれませんが

人類は 進化しているようで 実際は退化していると思います


大きな視座で見ると エジプト時代へ回帰しているようなものかもしれないですが

アルファとオメガは同じ空間にあるとは思います


物質にあふれた現代 心は 魂は 退化していますが

それもまた シナリオ通りなのかもしれません


幼い頃 誰もが感じていたことですが 時間の流れは遅くありませんでしたか?


時間とは そもそも存在しないものです


我々は成長と共に 概念を創り出してきました

全体意識から個性 個の意識が強くなるにつれ時間という概念が生まれます


大人になると  時間中心になりますね


時間 時間と気にして生きています


時間がない 時間がない そういう固定概念が生まれた結果 大人になるにつれ

どんどん時間は早く感じられてゆくのです


この世界は 心の反映とするのなら 実際に 何も持っていない人ほど内側は満たされているということになります


自分を見つめるといい海外へ旅行にいく人は 最も自分から離れていることになります

大きく見たら 自分の中で旅行をしているにすぎませんが・・・


分かりやすい例でいいますと 日曜なんかに 宗教の勧誘の方を多く見かけますよね

見かけだけで 勧誘の方だと分かる なぜか分かりますか?


エネルギーが同じだからです


あの方々は 良い人間と言われるタイプです 悪いことはしません

自分の信じるものを自分だけ信じているとエネルギーは内側に流れますが

外に向かって勧誘しているものですから エネルギーが漏れているわけです


他にも 同じような例はいくらでもあります


我々のエネルギーは 地球も同様 中心は穴が あいています


光の柱やチャクラともいえますが 果物の芯のようなものです

トーラスといいます


その空を中心にエネルギーが内側に循環しているのか外側に循環しているのかで

全然違うのです


多くの人間は 外側に循環している為 内側のエネルギーが枯渇しています

その枯渇したものを補う為に 癒しを求めたり 他者を求めたり 買い物したり

神社に行ったり 外へ何かを求め 内側を埋めようとするのです


これは 世界を どう見ているかで流れは変わります


世界は自分の意識だと理解し 自分の自我を内側に取り込んでゆきます


自我を消すということは 結局 判断をしなくなりますから 他者を否定しません


そうなりますと 世界は投げた意識が還ってきますから 全てを肯定する世界が

自分に訪れてくるという訳です


イエスキリストの名がYESなのも 私は 世界をYES 肯定しなさいと教えてくれているかと感じています


世界に対して 無条件の愛を捧げることができた時 世界は自分に無条件の愛を戻してくれます


自我は何かしら求めています


その心がある限り 世界は いつまでも いつまでも 限定されたものしかないでしょう


ことわざにありますように 一日一善から はじめてみてはどうでしょうか?


雀や猫にご飯をあげても 心は温かくなります


小さなことから 善意をしてみて 実感してみて そうやって 世界が鏡だと

理解してゆくのも 一つの手かもしれませんね


この世は色即是空  諸行無常 鏡の世界であり

どこまでも 己の心が反映した世界なのです


そのことを認め 自我を捨て去る方向へいかない者は

苦悩がたえない時代になってきましたね


今 苦しみがありますか? 嫉妬する心 後悔する心

誰かをうらむような心 逆に何かを望む心 期待する心はありますか?


この世のあらゆる感情は幻想です 心 意識とは 何もない海に反射する

光の煌めきのようなものです


あらゆる悩みは自我によって 引き起こされますが 自我は 何かしら都合の

良いように解釈します


まず 最大の罪は 己が正しいと思いこんでいる意識ですね


人間は誰しも 己の思考を正しいと思っています

それにより 他者 世界を判断しています その結果 苦痛を味わうのです


己は 本当に正しいのでしょうか?


この世は 意識 素粒子で構成されています


世界は己の過去の意識でしかありません


その事実を知りながらも 鏡世界の法則から脱出できていない人は多いですね


未だに見えるものを信じ 見えないものを心の底から信じることができていません


世界が自分の意識であるということを100%理解して生きると 判断する心が

如何に無知な行為か分かってきます


いいですか?


世界は本当に一人のあなたなのですよ


あなたの内側を外に見ているだけなのです 惑星も太陽も山も 全て内側なのです


他者は動いているし それぞれが生きているから なかなかそうは思えないのでしょうね


あなたは 毎日 小さな選択をしています それは 小さな判断とも言えます


多くの人が無意識にそれをしています おそろしいことです


朝 起きて ご飯を食します 美味しいと感じる心も判断なのです


電車にのって ストレスを感じることも 好きな人といて心地よいと感じることも


自分の中で 無意識的に 良い 悪い その選択をしています


その選択は 同時に否定する心を育成しているのです


綺麗好きな人は 道でゴミを捨てる人を見るといらっとします


真面目な人は 時間に遅れる人や やる気のない人を見るといらっとします


自我 心は 気づかないうちに たくさんの判断をして 自分の法則をつくりだします


そして 同じ人を見つけ 共感し 自分が正しいのだという幻想をつよめてゆくのです


この心を 常に 見張ることが大事です


楽しい時も 辛い時も 無な時も 己の内側を見つめる癖を忘れないことです


それをしない限り 判断する心は消えません 


判断するということは 鏡の世界で どんどん判断したものを創造する結果になります


犬がしっぽを いつまでも追いかけていることと同じなのです

それが輪廻でもありますが・・・


目覚めてゆきたい者 次元を超えてゆきたい者は 自我の放棄 その道を

生まれる前から決めていたのです


今 誰かに不満がある人 誰かの行動を注意したい人

それは 自分へのメッセージだと気づくチャンスです


不快に思うのはなぜ? 心地よくないと思うのはなぜ?

このような感情の時 どう自分が意識を変えるかで 錬金術はおこせます


他者に向ける言の葉は 己へのメッセージです


多くの人は 思い通りにならないことで いらいらします


それは 大きな間違いです


思い通りになることなど 何もないと知ることです









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言語を愛し 言語の限界まで辿り着いた自我の私は
意識の限界 言語の限界を知りました

内外反転である この世界において 限界まで辿り着いた
言語の意識を 内側に取り込み 内側へ浸透させることが
沈黙の道なのだと思いました

そして春分の日を境に 突然 パステルアートを始めていました


言語 自我 意識を内側へと内在させた私は 言語を放棄し
パステル(有)を誕生させることが 沈黙の続きとなりました


意識の建築 沈黙の芸術 

内側と外側


今は ハートと形ないものを 描くことが幸せでなりません

言語の先に 待ち受けていたものは 沈黙でした



何人か鏡を把りて魔ならざる者ある


魔を照すにあらず造る也


即ち鏡は 瞥見す可きものなり熟視す可きものにあらず



鏡は別視するものでないと 鏡の世界に取り込まれてしまいます




ヴィトゲンシュタインの名言


昇りきった梯子は捨てよ 語り得ぬものには沈黙せよ


この言語を理解する時 それは あなたが この世の仕組みを

理解した時に訪れる


梯子とは知識 意識 自我の世界での最高峰です


その頂上に至った時 梯子 自我を捨てることを選択してゆきます


精神世界では あらゆる修行やら資格をマスターしてゆくことが梯子に

似ているかもしれませんね  茶道でも華道でも この道に繋がります

芸術家でも建築家でも もちろ何者でもないものでも・・・


梯子の先の世界を 私も言語にしようと自我的に思っておりましたが

それは 無理なようです


自我は どこまでも どこまでも しつこく 存在しますが 梯子を捨て去りし世界には

自我は介入できません


その先を 言語にすることは 鏡の世界においては 真逆の反応が起きてしまうため

過去の偉人は 神話や芸術に 痕跡を残してくれました


私が 最もヒントになると思った神話は イシス オシリス ホルスです

破壊神でもあるイシス そして 肉体を切り刻まれたオシリス それを再構築するイシス

破壊 分断 再構築 そしてホルスはウジャドの眼をもつ神


この三つの示す者は かなり重要なヒントです


自我は ある一定の知識に辿り着きますと自ら自我を破壊 そして分断します


しかし 目覚めに近づいたと思う瞬間と同時に 自我は また復活 つまり再構築を

何度も繰り返します


自我は 何かしら他者に報告したくなります

そして 反応し歓喜したり落胆したり それは 目覚めを遠ざけます

沈黙は ここでも重要です


神話では イシスは最後は再構築できず オシリスは冥界の王となります


真我と自我の闘い(クロノスとの闘いも同じですね)は いつしか 完成します

その時 ウジャドの眼が重要な鍵となります


ウジャドの眼は 中庸そのものです


眼の位置が重要なのです



我々が 二元的に世界を見る仕組みは 二つの穴 二つの眼を通して世界を見ているからです


エジプトも フリーメイソンも ケルトも あらゆるところで 3という数字が登場します


GOD 創造 破壊 維持も3 三種の神器 3の意味とは?


第三の眼とは?


ある地点まで 内観をできた者は 努力せず到達するという境地を見るでしょう


涅槃のポーズがまさにそうですね


最初はお経やマントラ 座禅が必要でしょうが 段々 どこにいても瞑想しているという

感覚ができ 世界の眼差しも変化します


中庸というもので世界を見ることが重要だと知ります


何事にも判断しないこと これは思考の話ですね


では 中庸に世界を見るとは?


それは 簡単です


少しだけ ずらす ピカソの絵のように



ここからが とても重要


鏡の世界では 観る者は 観られているという法則があります


つまり 世界を観ている人は(多くの人間は) 世界を本当には観ていないのです

観られている世界に住んでいるのです


本当に観る世界に移行するには 自らが観られるもの

つまりは 観られる者は観るものと化すことです


そうするには 3という数字 3つの穴を どう使用するか


第三の眼は内側にあります


肉体の眼と第三の眼は 三角形です


二つの穴で観る世界は判断の世界 ということは?

一つの穴で観る世界が 判断の無い世界です

中庸な世界です


この眼は チャクラを活性化するとか クンダリーニ瞑想やらマカヴァやら

そのようなことは 必要ありません


この世に存在する 瞑想も幻想です チャクラを観たいと思い修行すると観ることが

いつかできます


しかし それは もう古い次元の話です


第三の眼は そんなことせず ただ ずらすだけで開眼します



世界を観る時に 鼻の上を視野に入れるのです


常に鼻を意識すると 世界が自分を観る視線を感じると同時に

このラインでのみ 第三の眼に意識が自然と向かうことになるのです


二つの眼で世界を観つつも 鼻を視界に入れることで 第三の眼に意識が向かい

観る者から観られる者へ変換します


この視線で世界を観ると 内側に光りが 流れだします


内側に光が流れ あふれ出すと それは 鏡世界にもあふれ出します


繋がっていますから



ここで 沈黙という言語がいかされます


第三の眼により 何かしら 個人的な出来事が内側で起きますが それを言語にして

しまうと エネルギーは外に流れだし 内側が枯渇します


世界が鏡であるということは そういうことです



モーツアルトの魔笛は そのままですね



太陽の王と月の女王が登場し 世界が反転 そして 水の試練(自我消し)

火の試練(第三の眼開眼) そして沈黙の試練 この試練をクリアし 神殿の門を

通過する


ルイスキャロル(数学者)の鏡の国のアリスも ヒントがたくさんありますね


鏡の国では 世界は反対 お花は観るものではなく アリスが観られる世界


虫はアリスよりも大きい(ミクロとマクロの反転)


時間は逆再生 アリスの世界は この世からの目覚めるヒントがありますね



まぁ 日本の神話でも インドの神話でも どの世界も 同じことを 違うイマージュで

伝えているというだけですが 気づくか 気づかないか はたまた 気づいたふりをするのかは

本人の意識次第なのでしょう









超えた者に 届く詩がある



田村隆一 恐怖の研究より


10

針一本
床に落ちてもひびくような
夕暮がある

卓上のウィスキーグラスが割れ
おびただしい過去の
引出しから
見知らぬカード
不可解な記号

行方不明になってしまった心の
ノートがあらわれてくる
これは
光りと影の世界
写真のネガの世界

K大外科病棟のカルテのファイル
蘭の葉脈のような血管が
灰白色の河流をつくり
皮膚と皮下脂肪は暗黒の世界を
いだく

ゴムの手袋でさわるのにふさわしい
だるい感触
合金のナイフとピンセットで
さぐるのにふさわしい

燗熟した肉
それが死せる心をいだいている肉なら
どんなパンが想像できるか
きみの好きな詩人にたずねてみたまえ
乳色の血のながれから

どんな葡萄酒が眼に見えてくるか
きみの好きな絵描きにきいてごらん
ああ
意味がほんのすこし入ってきただけで
いかなる近代都市も粉砕されてしまう

光りがごくわずか入っただけで
ネガの世界は崩壊する
床からピンがはねあがる
乳色の河流は血の色にかわり
なめらかな皮膚の下に
死んだふりをしていた心があらわれる


窓がひらく

乱暴な音をたててドアがあき
だれかが出て行く
あるいは
だれかが入ってくる

9

心が死んでしまったものなら
いくらよみがえらせようとしたって
無駄なことだ
かれを復活させるために

どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切り者が
どんな教義が
どんな空が
どんな地平線があるというのか

たぶんブリューゲルだったら
重力よりも重い色感で
大きな橄欖樹を黙々と描いたかもしれない
空白をつくるためだ
空白によってしか答えられないからだ
空白の遠近感がどうしても欲しいからだ
空白のリズムをききたいからだ

ところで
行方不明になってしまった心なら
あっさり埋葬するわけにはいかない
死亡認定書も
火葬許可書も
偽造するのにぞうさはないが
心を偽造するわけにはいかない

たぶんモーツァルトなら
一本のフリュートがいるだろう
一本のフリュートで
巻毛の少年は旅に出るだろう
一本のフリュートで
あらゆる生きものの国々をさまようだろう
あらゆる渇きから

少年は単一な夢をさがし出すだろう

たぶんミロなら
単一な夢に
単一な色彩をあたえるにちがいない
単一な色彩から奔放な線がうまれ
やがて線と線とが交叉し
点と点とが共鳴し
ある中心にむかって
豊饒な領土を描き出してくれるにちがいない

あらゆる生物が生れ
あらゆる生物が死んでいった
黒い土
黒い土はおもいきり翼をひろげ
空と地平線を分割するにちがいない
ときには
驟雨がくるだろう
あるいは雷鳴もともなうだろう
稲妻が空間をつらぬき
無数の海豚は交接し
巨大な鯨は紅色の潮を吹くだろう

しばしば
象牙海岸に貿易風がおくりこまれ
アンリ・ルッソーの
暗緑色の樹木が繁茂するだろう
東方にはまだ名づけられない星がきらめき
その光りが地上に達するまでに
ヨハネの
ジョン・ダンの
ボードレールの
マラルメの暗喩がうみだされるだろう

これらの暗喩によって
数億の日と夜はわかれ
数万の日と夜は調和と秩序をもち
おお
ぼくの心のなかでは
四千の日と夜が戦うのだ

8

日と夜のわかれるところ
日と夜の調和と秩序のあるところ
日と夜の戦いのあるところ
それは
一本の針の尖端
無名の星の光りにひかる針の尖端
歴史の火の槍
ふるえる槍の穂先

7

塔へ
城塞へ
館へ

かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは掠奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する

白熱のリズムを
増殖するイメジを
独創的な暗喩を
危険な直喩を
露悪的なマニフェストを
偽善を弾圧するもっとも偽善的な芸術運動を

6

ほんとうにものが見たいなら眼をえぐりたまえ
ほんとうにリズムがききたいなら耳を切れ
イメジとイメジをむすぶものは王の権力
イメジからイメジをうみだすものは天使の栄光

服従は奴隷の歓び
享受は被支配者のひそかな愉しみ
それゆえに
王は民衆より偉大でなければならぬ
それゆえに
頭上の天使はあらゆる王より強大でなければならぬ
地上の全批評家は消え失せよ
歴代の王の眼を見るがいい
彼らの眼は数千年まえからえぐられている

眼は石のなかにある
天使の耳を見てみたまえ もし
きみにきみ白身の天使が見えるなら
耳は翼のなかにある

5

ふるえる翼
ふるえる舌
K大病院の裏庭で
ぼくは野鳩の桃色の脚を見た
ふるえる舌
裂ける舌
信州上川路の開善寺の境内で
ぼくは一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌
秋風の六里ヶ原で
ばくは桜岩観音は出会った

4

針一本
おちているところ
光りはどこからでもくる
闇は野鳩の声のなかに
蛇の華麗なデザインのなかに
桜岩観音の手のなかに
ある

3

角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ
楽器の歴史は光りと闇のもの
行方不明になってしまった心の
空白ヘ
モーツァルトからドビュシーへ
角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ

2

光りはリズムヘ
闇は器楽的形態へ
心を追いつめるのだ
猟師が獲物を追うように
飢餓が野獣を追うように

1

針一本あるところ
沈黙がある
頭上の天使のさえぎるところ
ふるえる舌がある

搭が見える
罪を犯すにはわれらの人生は長すぎる

城が見える
罪を償うにはわれらの人生は短かすぎる

魂は形式
角笛から
ホルンヘ
ブロックフレーテから
フリュートヘ

0



ALONE 一人という言の葉の語源は ALL ONEと

きいたことがあります


全て一つで一人という意味


鏡 影見 カガミ 我を消し 神となる


自分の意識が上昇するにつれ 二次元 三次元 四次元 五次元

これらは 全て 今ここに存在しているのだと気づいてゆくと共に

世界は本当に一人であり 言の葉の流出が大きな壁となっていることを

最近感じております


ことわざにもあるように沈黙が金というのは 確かなことなようです


世界は鏡であり 自らの内面であるのなら 内側で起きる変化を

外に言語にて伝えるという行為は よく考えると 正しい行動ではない


虚無の世界 宇宙卵への回帰に至っては この連鎖は 間違っているのであろう


外は内の排泄(創造した後)であり その過去に対して 今という時間枠 時間軸が

混入することは やはり 無限世界ではなく 夢幻世界になるのではと思う


私自身 この空間に 体験を書いてきたが その後 内側のエネルギーが外側に流出したのを

感じた


昔から大事なこと 叶えたいことなどは 人にいうと失敗すると言われていたが

同じことだと思う


結局 一人世界であるのに 外側に向け 発信し続けることは 内側のエネルギーが枯渇する

結果にしかならないし 目的地 神への道を自我が 遠ざけている手段にほかならない


我々は666獣であり 今 999になろうとしているが  自我を捉えた真我が目覚めた状態は

半覚醒でしかなく 自我は いつでも 復活する


それを うまく見つめてゆくことが この先 とても重要である


6と9を重ねると 8の数字になる 8を横にすると∞無限マークになる


二極の世界は この二つの○である 善と悪 光と闇 ○ ○ この空間をいったりきたり

それは自我世界 自我は世界を他者を分けて思考している 


意識が世界を創造する夢幻ループ


真我の目覚めた半覚醒とは9の状態である 無限の8 ここに亀裂が生じ9になる

しかし 自我が復活すると 9にまた線(物質世界)が繋がり8になる


9の線を 完全に(自我を完全)離脱できると 0になる ここで 初めて 虚無

原初の海 何もない永遠の豊饒の海となる これが 神 超人であろう


今 少ない気付きの人間は 半覚醒999の状態である


ここには まだまだ自我のトリックが存在している 私自身も 何度も罠にはまった


000 生命の樹では 無限光を意味する


666獣 その中間 888人間 999半覚醒 そして 000 神 無限光


以下OSHOの言の葉を


あなたは独り、完全に独りきりだ。
これは極めて明確に理解されなくてはならない。
人は意識するようになるや、独りになる。
意識が大きいほど、自分が独りであるという気づきは大きくなる。

だから社会、友人、会合、群衆によって、
この事実から逃避してはならない。
それから逃げてはいけない!
それは大いなる現象だ。

進化の過程全体は、それに向かって少しずつ進み続けている。
意識は今や、自分は独りなのだということを知る地点にまでやって来た。
そして「独りで在ること」(アロンネス)においてのみ、
あなたは光明を得ることが出来る。

私は「孤独」(ロンリネス)と言っているのではない。
孤独の感覚は、人が独りで在ることから逃げようとしている時、
それを受け容れる用意の出来ていない時に生じる感覚だ。

独りで在るという事実を受け容れないなら、その時には寂しく感じる。
あなたは自分自身を忘れる為の群衆や、
あるいは何か酔っぱらえるものを見つけるだろう。
孤独は、それ特有の忘却という魔術を生み出す。

もしあなたが、ほんの一瞬でさえ独りでいられるなら、
全面的に独りでいられるなら、自我(エゴ)は死ぬ。
「私」は死ぬ。
あなたは爆発し、もういない。

自我は独りの状態で生き残ることは出来ない。
それは他者との関係においてしか存在出来ない。

いつでもあなたが独りの時は、奇跡が起こる。
自我は弱くなる。
それはもう長くは存在出来ない。

だから独りでいられるほどの勇気があるなら、
次第に自我がなくなってゆく。
独りで在ることは、極めて意識的で思慮深い行為だ。
自殺よりも思慮深い。

自我はひとりの状態では存在出来ないが、
自殺においては存在することが出来るからだ。
エゴイスティックな人はより自殺しやすい。
自殺はいつも他者との関係の中にある。

それは決して独りで在ることの行為ではない。
自殺においては自我は痛手を受けない。
むしろそれは一層顕示される。
それはより大きな力をもって新しい誕生へと入ってゆく。

独りで在ることによって、自我は打ち砕かれる。
関係するものを何も持たない為に、それは存在出来ない。
だから、もし独りで在る用意が出来ているなら、
揺らぐことなく独りで在るなら・・逃げることも後退することもなく、
独りで在ることの事実をありのままにただ受け容れるなら・・
それは大いなる機会になる。
その時あなたは、内に多くの可能性を秘めた種子のようになる。

だが覚えておきなさい。
植物が成長する為には、種子は自らを破壊しなければならない。
自我は種子、可能性だ。

もしそれが打ち砕かれれば、神性が誕生する。
その神性は「我」でも「汝」でもない。
それはひとつだ。
       
独りで在ることを通して、
あなたはこの「ワンネス(全一性)」に達する。

このワンネスの偽りの代用品を作ることも出来る。
ヒンドゥ教徒はひとつになる。
キリスト教徒はひとつになる。
イスラム教徒はひとつになる。
インドはひとつだ。
中国はひとつだ。
こういったものはワンネスの単なる代用品だ。

ワンネスは全面的な独りで在ること(アロンネス)を通してのみ訪れる。

群衆は、自分達をひとつだと呼ぶことは出来る。
だがその一体感は、いつも何か他のものとの対立の中にある。

群衆はあなたと共にある為、あなたは安心する。
今やあなたには責任がない。
あなたはひとりではモスクを燃やしはしないだろう。
ひとりでは寺院を破壊しはしないだろう。
だが群衆の一部としてのあなたには、それが出来る。

もうあなたには個人的な責任がないからだ。
全ての人に責任があるのだから、特定の誰かに責任がある訳ではない。
個人の意識はどこにもなく、ただ集団意識だけがある。
あなたは群衆の中に後退し、動物のようになる。

群衆はワンネスの感覚に対する偽りの代用品だ。
その状況に気づいている人、人間としての責任に気づいている人、
人間である為に生じる困難で骨の折れる仕事に気づいている人は、
どんな偽りの代用品も選ぶことはない。
彼は、ありのままの事実と共に生きる。
どんな虚構も作り出したりしない。

宗教や政治的イデオロギーは、
ワンネスの幻想を作り出す虚構に過ぎない。
ワンネスは、自我のない状態になる時にしか生まれない。

そして自我は、全面的に独りで在る時、初めて死ぬことが出来る。
完全に独りの時、あなたはいない。
その瞬間こそ爆発の時だ。
あなたは無限なるものへと爆発する。
これが、そしてこれだけが進化だ。

私がそれをレボルーション(変革)と呼ぶのは、
それが無意識的ではないからだ。
あなたは自我のない状態になるかもしれないし、ならないかもしれない。
それはあなた次第だ。

独りで在ることこそ、唯一の真の変革だ。
それには大きな勇気が必要とされる。

仏陀のような人だけが独りなのだ。
イエスやマハヴィーラのような人だけが独りなのだ。
それは、彼らが家族から、世間から離れて行ったということではない。
そのように見えるが、そうではない。
彼らは消極的に何かから離れようとしたのではない。
その行為は積極的なものだった。
それは独りへと向かう動きだった。

彼らは離れて行こうとしたのではない。
全面的に独りで在ることを探し求めていたのだ。

探究の全ては、独りで在る時に起こる、爆発の瞬間へと向かうものだ。
独りで在ることの内に至福がある。
そしてその時、初めて光明が達成される。

私達は独りではいられない。
他の人々もまた独りでいられない。
だから私達は集団を、家族を、社会を、国家を作る。
全ての国家、全ての家族、全ての集団は群衆で成り立っている。
独りで在れるほどの勇気のない人々で成り立っている。

真の勇気とは、独りで在る勇気だ。
それは自分は独りなのだという事実、
その他には在りようがないという事実の、意識的な理解を意味する。

あなたは自分自身を欺くことになるか、それとも、
この事実と共に生きることが出来るかのどちらかだ。
あなたは何生にもわたって自分自身を欺き続けることも出来る。
だがそれは、悪循環に陥るだけだ。
独りで在るというこの事実と共に生きることが出来さえすれば、
その循環は断ち切られ、あなたは中心へと至る。
その中心は神性の、全体の、聖なるものの中心だ。

私には、あらゆる人間が生得の権利として、
これを実現し得る時など想像出来ない。
それは不可能だ。

意識は個人的だ。
無意識だけが集合的だ。
人間は、自分達が個人となる意識の地点にまで到着した。

人類というようなものは存在しない。
ただ個としての人間だけが存在する。
それぞれの人間が、自分自身の個人性と、
それに対する責任を悟らなければならない。

私達がしなければならない第一のことは、独りで在るということを
根本的事実として受け容れ、それと共に生きることを学ぶということだ。

どんな虚構も作り出してはならない。
虚構を作り出せば、あなたは決して真理を知ることは出来ない。
虚構とは、事実を知ることが出来ないように考案され、
創作され、でっち上げられた真理のことだ。

独りで在るという事実と共に生きなさい。
もしこの事実と共に生きることが出来るなら、
あなたとこの事実との間にどんな虚構も存在しないなら、
真理はあなたに明かされる。

あらゆる事実は、もしそれを深く究めるなら、真理を明らかにする。
だから自分に責任があるという事実、
自分は独りなのだという事実と共に生きなさい。
この事実と共に生きることが出来れば、爆発が起こるだろう。

それは骨が折れる。
だが、それこそが唯一の道だ。
困難を通して、この真理を受け容れることによって、
あなたは爆発の起こる地点に達する。

その時初めて至福がある。
それが既製品として与えられるようなら、それは価値を失う。
あなたはそれを働いて得た訳ではないからだ。

あなたは至福を感じ取れる受容性を持っていない。
この受容性は修練からのみ生じる。
自分自身に対する責任と共に生きることが出来るなら、
修練が自動的に訪れる。

自分自身に全面的に責任を持つことで、
あなたは修練されたものになるしかない。
だがこの修練は、外側からあなたに押し付けられたものではない。
それは内側からやって来る。

あなたが自分に対して取る全面的な責任ゆえに、
あなたの取る一歩一歩は修練となる。
あなたはひとつの言葉さえ無責任に口にすることは出来ない。

自分自身の「独りで在ること」に気づくなら、
他人の苦しみにも気づくようになる。
すると、ただひとつの無責任な行為もおかせない。

なぜなら、あなたは自分自身に対してだけでなく、
他人に対しても責任を感じるからだ。

「独りで在る」という事実と共に生きることが出来れば、
あなたはあらゆる人が孤独であることを知る。
その時、息子は父親が孤独なのを知る。
妻は夫が孤独なのを知る。
夫は妻が孤独なのを知る。
ひとたびこれを知れば、慈悲深くあるしかない。

事実と共に生きることが、唯一のヨーガ、唯一の修練だ。
ひとたび人間の状況に全面的に気づいたなら、あなたは宗教的になる。
自分自身のマスター(主人)になる。

だが、それがもたらす簡素さは、苦行者の簡素さではない。
それは押し付けられたものではない。
醜くはない。
その簡素さは美的だ。

あなたはそれが唯一可能なことであり、他にはやりようがないと感じる。
こうしてものごとを放棄し、非所有となる。
所有したいという衝動は、独りではいられないという衝動だ。

人は独りではいられない。
だから彼は仲間を求めるのだ。
だが他人である仲間は頼りにならない。
そこで彼は、その代りに物の仲間を求める。

妻と一緒に生活することは大変だが、自動車と一緒に生活することは、
それほど大変ではない。
だから最終的に、所有は物へと向かうのだ。
あなたは人を物に変えようとさえするかもしれない。
彼らが人格や個性を失うやり方で、型にはめようとする。

妻とは人ではなく物だ。
夫とは人ではなく物だ。
自分が「独りで在ること」に気づくようになれば、
あなたは他の人達も「独りで在ること」に気づくようになる。

そうすると、他者を所有しようとすることは、
侵害することだということが分かる。

あなたは決して積極的に放棄するのではない。
放棄は、独りで在ることの副次的な影になる。
あなたは非所有になる。
その時には夫でも妻でもなく、愛する人になることが出来る。
この非所有と共に、慈悲と簡素さが生じる。

無垢があなたに訪れる。
生の事実を否定する時、あなたは無垢ではあり得ない。
あなたはずる賢くなる。
自分自身と他の人々を欺く。

だが、 在りのままの事実と共に生きるほどの勇気があるなら、
あなたは無垢になる。
この無垢は作り上げられたものではない。
あなたがそれだ。無垢そのものなのだ。