金明姫=金永姫=金明熙 の息子喜進

文教祖の6人の妻(8)金永姫をなぜ日本に密航?自殺レイプ殺されたの捏造はなぜ必要?真実はどこに

(緑、ナツミカンが入れました。)

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中和新聞 平成4年(1992年)9月12日

金明姫(Kim Yon Hi)

 文先生は釜山で伝道活動を再開、崔女史とも再会しましたが、最も愛する妻を犠牲にして弟子たちを愛していかれた文先生の心情 (女を食べすぎて刑務所行く心情なんて、理解する方がおかしいです) を崔女史は理解することができず、自ら「真の母」の立場を放棄し離婚という最悪の結果なったのです。 (人妻との最中に逮捕されて興南刑務所でその後も妾が妊娠。乳飲み子3カ月で失踪した夫をやっと捜しあてた妻は、また女狂いしてる夫を見て最大限努力したでしょう。なのに、そのけなげな妻を顧みることが無かったのが、文鮮明教祖です。胸倉掴まれてお説教されても、女食べ放題で、金集めしてくれる信者の方が良かったということでしょうかね?)

しかし、文先生は「メシヤは真の母でなければならない」ということを熱知されていましたので、1954年金明姫女史と再婚(1957年に先妻と離婚なので、再婚はできません。不倫・妾だったということになります)しました。しかし外国に滞在中不幸な事件に巻き込まれ、金女史自ら身を引かれました。 (文教祖の指示で妊娠中にも関わらず日本に密航させました。なぜ妊娠中の妾を日本に送ったのでしょう。中和新聞も捏造だらけです)このように、文先生は一度も自ら望んで離婚されたことはありません。やむを得ない理由によりこのような結果になったのです。二度の離婚(先妻の崔女史と後妻の鶴子さんのみ籍に入った女性です)という背景には「真の母」を立てるためのご苦労があり、救済の道を開拓することの難しさを物語るものです。 (ご苦労?女食べ放題の男の苦労と言えば・・・貴重な種を漏らさず植え付けることだけだったのではないでしょうかね?だから、女が常時何人もいたのでしょう。呆れるわ~)

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1953年12月24日 金明熙が釜山影島の修練会に参加し、その日に文教祖と肉体関係をもつ
1954年5月 1日 統一教会創設
1955年5月11日 梨花女子大生14名が統一教会への信仰を理由に退学させられる
1955年6月24日 金明熙妊娠9ヶ月。姦通罪を恐れて釜山港・長崎経由で日本に密入国させる
1955年7月 4日 梨花女子大事件で文教祖が逮捕される
1955年8月17日 金明煕が日本で文教祖の息子の喜進出産
1957年1月 8日 崔先吉夫人との離婚成立

http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11928947674.html

文喜進の死因は事故?

http://ameblo.jp/chanu1/entry-10753257777.html

文喜進の死因は事故?(1)

http://ameblo.jp/chanu1/entry-11930622973.html

文喜進の死因は事故?(2)


上記の記事を、繋ぎ合わせて見ることにしました。


文喜進の死因は事故?他殺?


文教祖は喜進は事故で亡くなったと言っていますが・・・。


(文教祖と息子の喜進)

『二番目、私たち喜進も16歳のティーンエージャーの時に伝道を出て行って・・・。本当にありがたいのです。自分たちの家に再臨主が来たと言って、何も知らずにご父母様に対して信じられずに(心が)行ったり来たりする立場で、原理のみ言葉を知って、伝道に私が最初に先頭に立って出かけるんだと言って出かけた途中、汽車に乗って行くとき、汽車の乗車階段の一番下に立って、(汽車が)カーブを回るのに顎を突き出して、このようにして、そこのライトに当たって客死しませんでしたか?
(「文鮮明先生み言葉選集」477巻より)

顎を突き出しているのを誰がみたのでしょうか。
弟子は危ないと言って止めなかったのでしょうか。
どれだけ顔を外に突き出せば、ライト(多分電信柱)にぶつかるのでしょうか。

(文教祖の話は、息子を事故で亡くした親の言葉には聞こえません。やはり、サイコパスなので良心は持ち合わせていないのではないでしょうかね。汽車が来たら避けて待つのが当然です。顎を突き出して?見ていたような表現です。誰に報告受けたのでしょうか?養育係李貞玉の証とは随分違うことも気になります。)


『喜進もそうですよね? 惨死ですよね? 喜進が「私たちの家は、再臨主の家庭だから、再臨主の血筋を持って生まれた息子として私は伝道していく上で先頭に立つ」と言って伝道に出掛けたのですが、車(汽車)に乗って行く途中で惨事にあったのです。私は涙は流しませんでした。竿のような息子が折れていく、露のように浮いてしまうことを見て父という人(文教祖)は涙を流しませんでした。何のために? 祭物(神への供え物)です、祭物。きれいに未練なく天に捧げる心を持たなければなりません。祭物です。』
(「文鮮明先生み言葉選集」363巻より)

祭物(神への供え物)といえば聞こえはいいですが、これは生け贄のことです。
(文教祖はよく「生きた祭物」という言葉を使っていましたが)
人間を死を持って神に捧げたということです。
文教祖は、亡くなった喜進には「殉教者第一号」だという称号を与えていますが、中学生の子供を1人で開拓伝道に行かせたのです。正妻、後妻の息子たちには決してさせなかったことを、妾の息子にはさせるのですから、疑問だけが残ります。 (同意です)


(祭物にしたと言える背景には、そうすると決意で差し出したということがなければ言えないことだと思います。でなきゃ~動機もないのに、後付けで祭物だなんて認定できないのではないでしょうか。

ということは、刺客を送ったとも考えられ、その刺客から報告を受けたということも考えられるのです。妊婦を日本に死んでもいいというような心境で送ったのでしょう・・・。余程教祖にとっては妾親子、特に息子喜進がいるということは、都合が悪かったと見えるのです。実子たちにはさせないことをなぜ妾の子にはさせたのでしょうね?開拓伝道に行ったというような子供の話は聞いたことがありません。


善進なんてヒルズに住んでお犬様を飼えるなら、万物復帰してその金でヒルズに住めばいいのに、信者には興南刑務所より狭いマイクロで餃子寝させるのに、娘は何の稼ぎが無くともヒルズ?餃子寝した信者達からの献金で、教育も受けたんだろう。

ハーバードの寄付と費用で信者の献金をいくら使った?すべて、信者の献金でデッカクさせてもらってるのに、尚も日本で吸血するヒルのように生きるのは止めてくれ!ヒルズで犬抱いてる写真見ただけで、吐き気がしてくる。朝鮮宗教ってヒエラルキーの上下関係の待遇が全く違う。信者は多数の自己破産者で、子供たちは大学へ行くこともできない家庭が多くあるのに、呑気にヒルズで犬飼えるなんて、そんな金食い虫日本にいる必要ないだろ!その費用を信者に返金しなさい!

それに・・・善進霊の子いるのかしら?伝道したことある?なんだか猫の飼い方も解らないおバ○さんというのが解ったから、たぶん霊の子もいないんじゃないかしら)

(それに・・・

驚きました!>竿のような息子が折れていく、露のように浮いてしまうことを見て父という人(文教祖)は涙を流しませんでした。<

文教祖は見ていたのでしょうか?詳しく説明を聞いたのかもしれませんが、息子の亡くなる様子を語ったのは・・・文教祖の失敗と言えるかもしれません。そこから冷静に読み取れる姿は、「鬼畜」という表現が相応しい。信者達は死ぬことを昇華(聖和)として、喜びにするのが統一教会の教義というすり込みを徹底的に受けて来ました。元信者になって見るとこの弊害が非常に大きいと感じています。

洗脳されてる信者にとっては、涙を流さないということは、「悲しみに耐え神の為に涙を流さない教祖さま」と転換するのです。が・・・「実は良心のかけらもないサイコパスだから涙を流さない」と、一般人なら見えるのであり、喜々?として息子の死んだ様子を語り涙を流さない事が凄いだろう的に語る・・・。

その姿は、鬼畜」という表現が非常に的確だと思えるのです。)



喜進の世話係だった李貞玉は、てっきりお供付きだと思っていたのが1人で開拓伝道に出発したことに対しておかしいと感じていたようです。

『朝食を取ってから、真のご父母様にごあいさつに伺うと、伝道に出発するということで、お金も下さいました。そのとき、私は、“特別にお供するかたがいるはずだ。”と思っていたのですが、喜進様は、お独りで出発されたのです。喜進様が乗られた汽車は、普通列車でした。駅ごとに止まる列車です。その列車の中は、人でいっぱいで、空席も満足にありませんでした。そのような列車に、修練生全員が乗ったのです。喜進様は、暑いので、汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで、風に当たっていたのです。風が吹いてきて、どれほど涼しかったことでしょうか。そのようにしていたところ、電信柱にぶつかって、事故が起きたのです。午後に、その悲報が届きました。私は、少しけがをした程度だと思っていました。昇華されるとは思いもしませんでした。』
(李貞玉の証(喜進様を追慕して)より)
(※李貞玉は1956年に統一教会に入教。1998年6月13日文鮮明教祖からマホメットの妻として霊界祝福されている)

何か変ですよね。
「喜進様は、お独りで出発された」と言いながら、「修練生全員が乗った」と言い直しています。
夏季開拓伝道は、当時、統一教会では毎年恒例だったため、信者がソウルの本部から団体で出発するはずです。
それを「独り(単独)で」ということは、信者とは別に意図的に出発させたという風にも取れます。
列車には「信者が全員乗った」と言いながら、喜進だけは独りですか? どうもおかしな表現です。単に「ペアを組まないで」「単独」で任地開拓だという意味で書いたとは思うのですが、「修練生全員で出発」したはずですなのですが・・・。 (同意)もし、修錬性が乗ったのなら窓側の風の当たる一番いい席を、喜進に空けるはずなのに・・・考えられないような状況です。


このときの様子は次のようです。

『一九六九年夏、中学生だった喜進様は、成和学生(中高生)の原理修練会を受けて、ご自身が人類の真の父母様の真の子女であることに感激された。込み上げる孝心と沸き立つみ旨に対する情熱を抑えきれず、弱冠十五歳(数え)にして自ら志願し、任地である慶尚北道の金泉へと、開拓伝道の道を出発された。ところがその日、八月一日、忠清北道の梅浦駅近隣で思いがけない列車事故に遭われ、殉教の供え物になられたのである。実に哀切なる、崇高なアベルの犠牲の道であったと言わざるを得ない。』
(実録・洪順愛大母様の生涯と信仰)

『真の御父母様家庭の二番目の御子息である喜進様が、ソウル市にある中東中学校二年の時の一九六九年八月一日(陰暦六月十九日)、夏季伝道中に昇華された。喜進様は、四十日伝道の意義を強調なさる真の御父母様のみ言を重んじて、ソウル市地域の成和学生たちと共に四十日伝道の先頭に立ち、八月一日、慶尚北道金泉を伝道地として列車に乗っていく途中、忠清北道梅浦駅付近で不慮の事故に遭われた。
(真の御父母様の生涯路程10)

実は文教祖の妾の息子の喜進の死について、教会ではこのような噂が流れていたようです。
幹部なら誰でも知っているでしょう。

6. 日本できいてた話と
米国できいた話が違った。
日本の講義できいたのはき車から頭を出したためぶつかってなくなった、、。ですが
米国でのうわさでは

喜ジンがでるときに誰もみおくるな といわれたらしいがひとりだけ心配してこっそり影からついていった人がいたといいます。
その人の話では前列にたって待っていた喜ジンは

後ろからおされたと。
いうなとは言われたらしいがそこは米国。
そういう噂になっています。

それに興ジンの墓は大きくあるのにすぐ上にある喜ジンの墓は信者には特に説明がありません。すぐ目の上なのです。変でしよ。
喜ジンの母親も日本人のせいで自殺したといいながら隠れていきるようにさせられてた訳でしよ。
それでソクラテスと結婚させるとかで表にだしたのだから

嘘がアキラカ。
あつかい、、ひどすぎない?

サボテンのはな 2014-09-23 23:03:02
http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11928947674.html

なんと殺されたというのです。
これと同様の事を日本の古参信者も話しています。
昔のシックは喜進は殺されたんだという話しを聞いていたようです。

見送るなと断言しているところをみると、計画を立てていた可能性が高いです。電車が、入って来る時を狙って押したということなのかもしれません? 

(喜進の墓)

<草創期からの古参教会員の文喜進の死因について言及>
[334]題名:Re: 詳しい方に質問 投稿者:itiro
・・・
戦後まもなく崔先吉という女性と婚姻届を出すこの女に生まれたのが文聖進この方は日本在住という話だが昔お目にかかったことはあるがもの静かな方という印象ただ実の妹と結婚させられた、次に婚姻届を出したのがツルコ(韓鶴子)である他はどのようなことかよく知らないが文鮮明と金明煕との間の子が文喜進この子は14歳で列車から突き落とされて殺された、
ツルコとの結婚の時はすでに大勢の女と関係を持っていた、
ご本人曰く16歳の生娘から80歳の老婆までと豪語している、ツルコとの世界路程とやらで海外旅行並びに日本洗脳をおこなった、どういうことかというと西川先生の下独特の雰囲気中性的というか新約的聖家族主義を作り上げていた日本の教会の空気をブンセンメー流な(性)行為中心の気風に作り替えた、そのご一行とは三人でホテルの一室を借りて楽しみにふけりながらの世界路程であった、その三人とはブンセンメー、ツルコ、と崔元福先生であった、崔元福を先生というのはこの世では梨花女子大の教授であったからである、この崔先生はなかなか如才ない方ですっぴんのブスくれた教会の女性ばかりみていた私には全く異質の女性であった、化粧はばっちりしているし高価なイヤリングや首輪をしてきているものも一流品ばかりと見えたまたお話が好きで、三人の性生活まで話してくれた私とするときはもうすでにツルコとは終えて長丁場でいろいろ話しながら楽しみますが、脇ですっかり疲れはててぐっすり寝ているツルコをみながら「私も悪い男だよなあ」などとおしゃるのですよ。などという話を半分わからず聞いていました。・・・

(ブログ「統一教会 最下層信者」の再開を願う掲示板より)
http://co.koroweb.com/b/r.cgi?nan=90&log=threadobserver

そして文教祖は私生児として生まれた息子の喜進も「死んでよかった。死ななかったら後で(妾の母のこと等で)問題がおこるから死んでよかった」という父親です。
自分でその種を作って置いて、いいかげんな無責任な父親ですよね。「鬼畜」です。

あとあと問題になるような人間、義母(洪順愛)もなにか文教祖の弱みを握っていたので、早く死ぬことを望んだのでしょう。

あのことでしょう~。ボケて来ると本当の事を、本人の口からしゃべりだされたら困るってことだったのではないでしょうか。

36家庭で原理講論の著者の劉孝元氏も無理やり手術を受けさせて死に至らしめていますし。
手術が命取りになって、死期を早めたということでしょうね・・・。



(文喜進と劉孝元)

私は喜進が(霊界に)行ったことに対して感謝しています。彼の性格は、何か問題が起こると、その性格がねじれ易いのです。息子なのに性格がねじれ易い?ねじれても責任持つのが親だろ!そうなると、サタンがすべてを引っ掛けてくるのです。

血分けで女食べすぎてサタンに狙われたのは自分だろう。というか本人がサタンだ!子供もバラバラで、妻と金イタコもどきから呼吸器止められもした情けない状況は、本人が築いてしまった悪なる家庭だということじゃないのか?

イエスさま、聖書から解るのは民衆の前で亡くなったのに対して、(自称)メシヤは、隠れて息を引き取ることになったとは恥ずかしい限りだ。本来メシヤなら信者が映像ですべて見守る中で亡くなるのが当然だ!まさか呼吸器止めてたなんてね・・・。映像に出せないはずだね!彼の性格からみると、喜進はとても活発な子供だったのです。勘がとてもよく利くし、また男性的でした。そのような立場で相当心配したのです。心配した?ならお伴でも付けたら良かったのに・・・お伴付けたらこ○せないからね。見送るなとまで言って、やる時を狙ったのだろう。都合が悪いのはすべて無きものか?(想像でしかないけど・・・)

皆さんは、どのように想うのでしょうか?
先生の家庭を見ても、二番目は分かれるのです。そのようになりやすくなっているのです。それが復帰の原則であるからです。そのようなことを見ると、一面には、ああ、その子が行ってしまったことは、とてもかわいそうなことですが、地においては損にならなかったと考えているのです。これからは、聖進がよくやって、伝統さえ立てておけば、弟達はそのままついていくようになっているのです。』

(我が家庭のいく道 1971年8月28日 清平修練所)

『私は、食口たちに、「歴史時代で一度しかないこの神聖な時代に、神様の前に最初の祭物となる個人や家庭や氏族は福を受ける」と話しました。喜進が逝った時、このようなことを回想しながら、「神様、家庭でそのようなことがあるのは、私個人の悲しみではなく、私の家庭の喜びです」と祈祷したのです。』

しらじらしい祈りだこと!
(真の御父母様の生涯路程10)

『それで、六三年度から狩りに高い山に行って、鹿一組を捕らえて、刃物で心臓を裂きました。なぜこのようなことをしなければなりませんか? 復帰です。それで、狩りが必要なのです。』
(第三十九回「真の父母の日」敬礼式後のみ言葉 1998年3月28日 漢南国際研修院)

復帰するのに、猟をして心臓を裂く?ただ単に猟が好きで、心臓を裂いてみるのが好きなだけじゃないのかしら?釣り好き、ギャンブル好き・・・女好き・・・。

日本人の普通の男性は、銃持つなんてこともないのに、真のご家庭は銃も大好きなのです!銃って命を奪う道具、自覚あるのでしょうか?
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<養育係 李貞玉の証> 

略)

 しかし、喜進様は、すでに伝道に出掛けることに決定されていたのです。私が、その時になって、そのようなことを申し上げたので、真のお父様も、お母様も何もおっしゃらず、崔先生(※崔元福)が私に、「そのようなことは、言ってはいけない。」と言われました。
 不思議にも、その土曜日の晩は、一睡もできませんでした。眠気が来ないのです。翌朝、食事をするときに、喜進様が何と言われたかというと、「おばさん。きのうの晩、一睡もできなかったのですか?」と、聞かれるのです。「えっ、何で知っているのですか?」と聞くと、私が寝床で、ごそごそしていたと言われるのです。喜進様も、眠ることができなかったのです。そのような話をして、朝食を取ってから、真のご父母様にごあいさつに伺うと、伝道に出発するということで、お金も下さいました。そのとき、私は、“特別にお供するかたがいるはずだ。”と思っていたのですが、喜進様は、お独りで出発されたのです。喜進様が乗られた汽車は、普通列車でした。駅ごとに止まる列車です。その列車の中は、人でいっぱいで、空席も満足にありませんでした。そのような列車に、修練生全員が乗ったのです。喜進様は、暑いので、汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで、風に当たっていたのです。風が吹いてきて、どれほど涼しかったことでしょうか。そのようにしていたところ、電信柱にぶつかって、事故が起きたのです。午後に、その悲報が届きました。私は、少しけがをした程度だと思っていました。昇華されるとは思いもしませんでした。

 そのころ、真のお父様は、毎日のように、水澤里の工場に行かれていました。真のお父様に連絡をすると、戻って来られました。真のお父様は、うわべは泰然としていらっしゃり、涙一つ流されませんでした。み旨から見て、“涙を流してはいけない”と考えられるので、ぐっと我慢していらっしゃるのです。真のお父様は、み旨であれば、絶対的です。お父様は、恐ろしいものがありません。真のお父様は、そのように大胆で、勇敢なおかたですが、“ひょっとして、み旨に支障があるのではないか、み旨が延長されるのではないか。”ということに対するお父様の恐れは、言葉で言うことができないほどです。ですから、み旨から外れることは、みじんもありません。ですから、子女も天にゆだねられ、何事も天にゆだねられ、“カインを先に伝道してから、アベルを伝道しなさい。”というみ言を、真のお父様ご自身が実践していらっしゃったのです。真のお父様が、私たちに下さる一つひとつのみ言は、すべてお父様が、あらかじめ実践されたものです。必ず実践されてから、私たちに語られるのです。ですから、真のお父様は、偉大であられるのです。

略)

私が、喜進様のお姿を、すべて完全に紹介できたかどうか分かりませんが、そのように元気で、常に明朗で、美しい容貌を持っておられたのです。そして、幼くても、真のお父様に似て、体格がどれほどりっぱであったか分かりません。その骨格は、本当にお父様に似ていらっしゃいました。それで、小学校でも、ひときわりっぱに見えたのです。そのような喜進様でした。
略)

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私が教会にいたころ「喜進様は列車事故で亡くなった」と聞かされていました。私はてっきり話の内容から「電車に轢かれて亡くなった」と思っていましたが、養育係の李貞玉さんの証を読むと、「汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで風に当たっていたら電信柱にぶつかって死亡した」とあります。状況からいって「無理がある説明」に感じます。私は、古参教会員itiroさんの証言(教会内の噂だったとしても)の「列車から突き落とされて殺された」という内容のほうが説明がしっくりくるように思うのです。養育係の李貞玉さんの証の中に「喜進様は頭脳明晰で性格もよく文鮮明教祖によく似ていながら美男子で、どこに連れて行っても「大人物になる」と言われるくらいすばらしい」と褒め称えています。まあ、このことが崔元福先生や(韓鶴子)真のお母様の危機感を抱かせてことが、文喜進の死亡につながったかは教会側としては真相は闇の中に葬り去るでしょう。 (同意)

養育係の李さんの証は、違和感が非常にある。もしかしたら、誰かが創作した内容を聞いて証ししたのかもしれません。

ところが、文教祖の証しの内容とサボテンのはなさんが証言してくれた内容を繋ぎ合わせると、妙に合致すると思いませんか。完全な犯罪計画が、そこにあったように感ずるのは私だけでしょうか?

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