10月16日 父の命日にて | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 実家の掘りごたつに向かい合って座り、黙って本を読んでいる二人、それが父と私のよくある光景でした。父は、決して感情豊か、というタイプではなかったけど、身近の人に厳しい印象を与える人ではなかった。穏やかだし、ユーモアもあり、怒りっぽい老人だったことはありませんでした。

 しかし、選んでいた「仕事」は、憤りとエモーショナルな動機に基づくとしかいえない「課題」でした。それは、家永教科書検定訴訟であり、横田基地騒音公害訴訟であり、横浜事件再審請求事件など・・・。いずれも、いまや「歴史」だけど、始めるに際しては、「国の検定を争うなんて無理」「軍用飛行機の音が煩いからって争うなんて無理」「判決もないのに再審なんて無理」と言われていたもののようです。

 横浜事件の第1次の再審請求に際しては、司法試験浪人でヒマだった私が鞄持ちで横浜地裁に同行し、さらに、弁護士になった後も、横目で見ていたのですが「そんな戦前の治安維持法事件で、かつ判決もなくなっているような刑事事件の再審なんて無理だろう、運動的意味はあっても」と私は思っていました。

 父親には「自ら判決を焼却した裁判所が、再審を認めないなんてあり得ない」という確信と執念があったのだと思います。

 亡くなる年(2006年)の春、第3次再審請求としてようやく再審開始の重い扉をこじ開け、法廷に臨んだ父には、メディアのインタビューが多くありました。
 多くのメディアが父にぶつける「横浜事件に再審請求をするに当たっての想いは?」というような「ありきたり」の質問に対しては、もはや機転を利かせて答える余裕もなく、93歳の父は、メディア好みの回答は述べずに、淡々とやるべきことをやっている旨答えるだけだったと思います。

 若い頃は中国で暮らしていた時代もあり、50歳頃からフランス語、その後、ロシア語など学び、いつも本を読み、何かを書いていた父には、まだまだ足下にも及ばない、というコンプレックスはずっとあります。

 そして、諦めない、ということは継続であり、地味なことだけど、そういう積み重ねしかない、ということを身近で学べたことは誇りです。父は、こういう時代が再び来ることを恐れていました。かつて経験したからでしょう。諦めずに、頑張ります。