「自分の信念を貫く」?・・・う〜ん | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 「ああ、アナタは、自分の信念を貫かれているのですね」と、いろいろ話した後、そう言われることがあります。そういうとき、私は「う~ん、俺は、まだまだ全然、自分の考えていることを伝えられていないのかも・・・」と、ちょっと考えてしまいます。
 
 自分自身は、「自分の信念を貫いている」という意識はほぼないからなあ。ただただ、当たり前のこと、やるべきことを出来るだけやろうとしているだけ、だから、です。

 それなのに「自分の信念を貫いているのですね」と、まとめられるのは、(まあ、この人が言っていることも『一理』あるよな、私は、どっちもでいいけどね)と思っている場合に、テキトーに相づちをうつ「おあいそ」の言葉でしょう。つまり、相対主義というか、その人にとっては、例えば、戦争も、放射能も、消費税も、まあ、どっちもあり、というかよくわからない、というところから、抜け出していない(抜け出すつもりもない)ときに、ああこういう人もいるんだ、と「整理」されてしまうだけ、ということだと感じるのです。

 まさに、どっちもアリの状況下において、自分はこっち、って選ぶ場合は実際あるとは思います。私にも沢山あります。レモンサワーでも、グレープフルーツサワーでもいいけど、この店では「レモンサワーで!」というような♪  (信念かっ?)

 今、私の、そして、ほとんどの人の実感としては、「選択の余地」がある事柄が少なくなってきているのではないでしょうか。ともかく、生きる、生き残る、そっちを選んでいくしかなく、自分の信念なんて言ってられない、というのが実感です。

 なんでもかんでも、「そう言う考え方もあるよね、人それぞれだから」という「非・決定主義」というか「決定逃走主義」に教育されている子ども達が増えているような気がしますが、大人も変わらないなあ、と思うときはあります。考え、決定することは、たしかに、「抵抗」です。しかし、生きるためには、そんな「抵抗」が必要な時代になってきたと思います。
 そうしないと「世界」の「お客さん」のように眺めているうち、どこかに連れて行かれそう・・・。

 ・・・なことを言うので、あんたと話していると「居心地が悪い」と褒められ(!)がちですが、なんとか世界に「主体」として関わらないと、ともがいているのです。