JAL123墜落から28年 NO1 | ヘミシンクピンポンパン

ヘミシンクピンポンパン

ヘミシンクと幽体離脱体験記

NO2105 

2013812日 月 PM4:405:05 25

CDはメディテーション


ミッション

1985812日の日航機墜落事故を

ヘミシンクで探索する。



またこの日、812日が巡って来ました。

あれから28年が経ちこの航空機史上、

最大最悪の事故を知らない人達も

出てきたようです。


《ウィキ日本航空123便墜落事故》


これはただの航空機事故ではありません。

真相が究明されないままに、安らかに眠れ

というのは酷い話です。

亡くなられた520人もの方々の無念は

決して晴れないでしょう。


闇に蓋がされ、真相が明らかにされず、真実の

犯人が出てこないなら、事件の首謀者には

呪いがかけられてしかるべきです。


過去記事《レトリーバル・JAL123便墜落事故NO1NO4

http://ameblo.jp/masato356/entry-11327047494.html - main

過去記事《JAL123高天原NO3

http://ameblo.jp/masato356/entry-11343830881.html


何度もJAL123のワークをやって来ました。

いつも、奇妙なものと人を見るのです。

それは、何度やっても変わりません。


太平洋戦争の真実も、広島長崎原爆投下の

真実も、我々は知らされてはいないのです。





――――――――――――――――

目を閉じスタートする。

銃を持った軍団の行進が押し寄せてくる。

よく見ればこれは自衛隊だ。


「レンジャー」という指揮官の叫びが聞こえる。

この「レンジャー」という、ただ一言の叫びは

私には強く印象に残った。


今、ウィキでレンジャーを検索してみると

訓練期間中、学生は教官からのあらゆる指示には

絶対服従であり、一切反論せず「レンジャー!」

とのみ応える、と出ていた。


実戦でもこの習慣が使われるのかもしれない。

これは暗い山中の行進であったが訓練ではなかった。

何故か、この指揮官は泣いているように見えた。

刀を抜き、涙を振り払うように指揮していた。


「何をやっているのですか?」

私は何処かにいるガイドに聞いてみた。

応えはなかった。


ヴィジョン変わる。

明るい陽光の下に、大きな邸宅が見えた。

和洋折衷の屋敷で、私は正面玄関の方から見ていた。

来客用の駐車場を兼ねているのか、家の前は大きく

端から端まで、空きスペースが設けられていた。


そのくせ、人を拒むかのような短い階段が、

端から端まで幅広くつけられ、長い高い塀に

開いた扉は、まるで裏の勝手口かと

見紛うほどの、小ささだった。


屋敷の中に入ってみた。

そこには、この航空機事故をよく知る

いつもの人物、N氏がいた。

この事故当時、政界の中枢にいた男だった。

この邸宅は、この男の家らしい。


Nさん、もういい加減に

白状しろ!」

「今に呪われるよ」

              「何を!!…‥‥」

「怖いですよ~」

              「むぅぅ…‥‥」


この人は、今何歳になったのだろう?

今も生きているのか?

死んだという話は聞いていないが。

長生きしすぎる。

これは天罰かもしれない。


私はN氏の頭に取り付き、鼻やら口やらを

押さえ込んで、暫く遊んでやった。

そのまま背中のチャクラから

この男の中にはいった。

(続く)

マサト








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