ソロモンの偽証・前後編 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

久々なブログを今年の春頃観た映画で再開するのもどうかとは思うが。

「ソロモンの偽証」

前篇が素晴らしかった。
まずいいのは冒頭から示される雪景色がちっとも美しくないこと。そもそも東京のごみごみした街並に降る雪は、車や通勤する人の足で汚れまくるのだが、映画はそれをことさら美しいものとして描き出そうとする。しかし、この映画で降る雪は決して美しくはない。
降り積もって何時間かを経、単に通勤通学の足を邪魔するものでしかない雪の中を少年少女が歩いて行き、学校の裏庭で死体を発見する。

雪の中に埋もれた何かを見つけ、足を止める少女。そのアップから、二人を横位置から捉えたフルショットへ。続いて、二人が埋もれた何かに近づく行程は省略し、二人が雪をかき分けるツーショットに転じ、二人は死体を発見するに至る。
ここでの雪は、死を美しく装うものでも「発見」を特権化するものでもなく、ただ冬のある日に起こった出来事であることを示す記号に過ぎない。

あるいは桜。
尾野真千子が久々に母校を訪れる。尾野は感慨深げに裏庭に入り、校舎を見上げる。桜はその光景を美しく盛り上げるのではないし、また尾野が何を見つめたのかが示されることはない。

物語に準じること。物語が示す事物以外をことさらに導入することなく、ただ物語を語ること。
蓮實重彦は増村の「大地の子守唄」を「海の不在」と評す。「海」が示す情緒を排し、視線を原田美枝子に据えること。

物語を的確に語りながら、物語をぐいと動かすものが心理や感情ではないのも素晴らしい。
子供たちの目、とりわけ主役を演じる藤野涼子の目が素晴らしい。彼女は事件の真相を探ろうと決意し、校内裁判を企画する。その唐突なアイデアを語る藤野の目。カメラはその目に吸い寄せられ、中学生の裁判劇という荒唐無稽が成立するのだ。
もちろん演出もシナリオもその荒唐無稽をなんとか映画にしようと必死で試みたのだ。しかし、藤野の目が彼らの試みを徒労に終わらせる。映画と藤野が演出に勝利したのだ、

しかし、後編はちょっとつらかった。前篇では美徳であったはずが、物語にのみ画が準じていくのが息苦しく、宮部みゆきの正論小僧感が強調される。お話の無理さ、ネタが最初から割れているとか、中学生の裁判なんてしょせんこんなものよなぁとか、宮部みゆきが力技で納得させているアレコレをすべて視覚化し、中心化しなければならない退屈。すごくがんばっているのだが、これはどうしようもないかと思う。