シンデレラ(2015) | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「シンデレラ」
高畑勳がいくらがんばろうと所詮は「かぐや姫」、クライマックスのスペクタクルには度肝を抜かれ、記憶を失ったかぐや姫に涙したとはいえ、これはつらかった。だって「かぐや姫」が「かぐや姫」のまんまのお話が丁寧に語られるわけで、これはつらかった。

というわけで、この映画にも何の期待もせず、どーせ最後は今どきのアクションシーンを無理くり用意しながら、所詮は「シンデレラ」でしょ、と。しかも監督はケネス・プラナー。だんご鼻の凡庸な二枚目顔も好きではないが、プラナー監督作品を面白いと思ったためしがなく、覚悟して観に行ったのだが、あにはからんや、これが相当に面白い。

一つは「シンデレラ」の現代流解釈のバランスが良いこと。
例えば継母の扱いなど、いくらでもサディスティックに下品にできることろをさらりと流す上、「せっかく結婚したと思ったら、亭主は死んじゃうし、お金もないし」とその継母なりの言い分が腑に落ちる。なるほど、あんたも大変だな、そりゃシンデレラをいじめても仕方あるまい、と。

一方で、「シンデレラ」の物語に余分な解釈を入れず、物語の核を勧善懲悪の古典的なお話においていること。ガラスの靴を履き、継母や悪辣な家老の鼻を明かすシーンの痛快さ。ハッピーエンドの楽しさ。

さらに王子に恋するシンデレラを高校生の初恋物語のように描いていること。これは普遍性がある。出会いのシーンの馬と馬が円を描く演出も素敵だ。舞踏会への階段を上る彼女をトラックバックで長く捉えるショットもいい。戸惑いながら、やがて期待と憧れで彼女は頬を染め、階段を上るのだ。