映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)

テーマ:

銃規制強化法案の成立が危ぶまれ、ジェシカ・チャステイン扮するロビイストとその上司が深夜の会議室で議論する。

その会議室はガラス張りで、吹き抜けのロビーに面した中二階にあり、暖色系のペンダントライトが机を照らしている。そのすぐ外側にはロビーへ降りる階段があり、椅子と小さなテーブルが配され、そこにも同系色の明かりが灯っている。ロビーは灯りが落とされているものの弱く蛍光灯が点いており、さらにロビー外では街路灯が青く光っている。

 

会議室をガラス張りにし、チャステインや上司の背後に二重、三重に光源をおき空間に奥行きを与える。二人はその感情に応じて、立ち位置を変え、カットが変わり、平面的な照明から奥行きのある照明へと異なる背景に身を置くだろう、またガラス外に配されたカメラは時にくぐもった二人の声を拾うだろう。

 

決して美しい絵を撮ろうというのではなく、あくまでも物語の推移に従って設計されたカメラ、照明。プロの技だと思う。

この映画にはそんな瞬間がいくつもある。そしてそんな登場人物の感情や物語に寄り添ったカメラは、野心的で利己的なジェシカ・チャステインの行動を観客に納得させていく。

 

彼女は大手ロビイスト会社(?)を辞め、銃規制強化法案を成立させるために小さな会社に雇われるのだが、例えば、自分の父親が銃で殺された、とかそういうわかりやすい動機があれば納得もするのだろうが、映画は彼女の過去などにまるで頓着せず、ただ彼女のエネルギッシュな行動を見つめる。観客にはそう容易に受容できないピカレスク的な展開をプロの技が納得せしめるのだ。

 

お話自体はオーソドックスなハリウッドの政治もの、裁判ものなのだから、好みから言えばもう少しユーモアや余裕が欲しいし、彼女の演出は生硬だと思うのだが、ここまでやってくれれば文句はない。久々にプロが作る、贅沢な映画を観た。

 

関係ないが、「贅沢」について、もうひとエピソードを語る。

 

最近とみにお気に入り監督と化してきたデヴィッド・フィンチャーの「ゴーン・ガール」。

殺されたように見せかけ身を隠していたロザムンド・パイクが翻意し、夫のベン・アフレックに電話をかける。

居場所を知られぬようにか、州道沿い(?)のガソリンスタンドの電話ボックスで彼女は電話をかけるのだが、その時、彼女の背後をタンクローリーが通り、ガソリンスタンドに入っていく。

 

はっきりいや、どうでもいいシーンだし、2カットしかないし、舞台設定などどうだってよかろう、と思うのだが、自動車の通行量がやや多い都市近郊の道路であること、さらにタンクローリー(!)を通し、大クレーンでビューんとロングにすることで、彼女の何らかの感情を「贅沢」に演出するのだ。これってアメリカ映画の底力だと思わないすか。

AD
コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

マキノ正博は傑作「やくざ囃子」の中で、前のシーンでは被っていたはずの笠が、次のシーンでは被っていないことに撮影中に気づく。マキノはその笠が草むらの中に置かれているショットを急遽撮り、シーンの繋ぎに使う。そのショットは単につなぎのショット、間に合わせのショットであると同時に、枕詞的なショットとして、次のシーンの情感を高めることとなる。

 

あるいはかの黒澤も、かの「七人の侍」で撮影されたあるショットが前後のショットと動線が逆であったため、現像処理で左右逆にし、それを挿入したという。

 

あるいはかの、つなぎの達人、成瀬巳喜男でさえこのような間に合わせのショットを撮っている。

「浮雲」で高峰秀子が金を持ち逃げし、旅館で森雅之と会話するシーン。

庭先にいる高峰と室内にいる森雅之の切り返しから、高峰が室内に上がり会話を続けるのだが、高峰が室内に上がるショットがない。撮り忘れたのか、あるいは成瀬流の視線演出でそのショットを見せなくてもつながると判断したのかはわからないが、成瀬はつなぎのショットとして、高峰の主観風に室内の森にトラックアップする、全く成瀬らしからぬショットを挿入している。

「山の音」でも、これで大丈夫と判断したのだろうか、まるで清順のような奇妙なカットつなぎを目にすることがある。

 

あるショットは映画の中のどの位置に挿入されるかがあらかじめ決まっている。その想定に従って撮影されるわけだが、時に、その想定が予期せぬ事情で変更されたり、間違っている場合もあり、その都度、監督なり編集者は修正案を撮り、編集するわけだ。

 

しかし、全てのシーンが様々な角度から撮られ、様々な素材に事欠かぬハリウッド流の撮影では、このような「間に合わせのショット」はありえぬ事態だろう。つまり、ハリウッド流の撮影においては、すべてのシーンが一続きに撮影されており(あるいはそうなるように撮影されており)「つなぎ」という概念がないとさえ言えるかもしれない。

「ノーランは決定的なショットが撮れない」と言うのは、ハリウッドにあって実は奇妙な事態なのだ。

 

だから逆説的にはなるが、そのような「間に合わせのショット」とは、厳密に編集を想定した撮影が生み出すものである。自由度に欠ける撮影が生み出す、柔軟で融通無下なショット。

 

「ノーランは決定的なショットが撮れない」が褒め言葉となるのは、だから「ダンケルク」が厳密に編集を想定した撮影を行っているからだ。

しかしノーランの才能は「決定的なショット」を「間に合わせのショット」「柔軟で融通無下なショット」にせざるをえないのではあるが。

 

それがCGを排した実物主義、70mmカメラによるフィルム撮影がもたらしたものであるかどうかはわからないのだが、少なくとも、これまでのノーランにはない厳密さが「ダンケルク」にはある。

「このカットを撮る」のであって、「このシーンの素材を撮る」のではないと言う意思。

 

またこれまでのノーランは登場人物にあれこれかれこれ言い訳や行動理由やメッセージをグダグダと言わせ、さらにその主張を映像上でも演出し、だからもぉ面倒臭い映画ばっかりだったのだが、今回は、そういうウダグダがない。

兵士や民間人の行動をただ捉えるのみといった演出が、そのような「事態を撮る」ための最適な方法として、厳密に撮ることを選択させたのかもしれない。

 

ドイツに包囲されたダンケルクの街で用を足そうとする兵士が銃声を聞き、走り出す。

次のショットは、数人の兵士が銃弾を避けようと壁に向かって走る、そのトラックアップである。このショットはいかにも、このシークエンスのここにしか挿入されえないショットであった。アップショットなどもノーランは撮っているとは思うのだが、それを挿入することを許さず、主役の兵士以外が次々と銃弾に倒れていく、その様を捉えたこのトラックアップは素晴らしいと思う。

 

あるいは桟橋に並ぶ多くの兵士が、飛行機の音を聞きつけ空を見上げる。次のショットはその俯瞰ショットとなる、この繋ぎの鮮烈さ。

 

あるいは沈没しようとする駆逐艦が、その船体を桟橋に傾けていき、海に飛び込んだ兵士達が船体に挾まれていくシーン。ここでもノーランは船体に挟まれるショットを撮影していないのか、救助する兵士のみを捉えるのだが、ここでの船の質感、鉄の塊の質感が素晴らしく、ようやくノーランの実物主義の効果が発揮されたと思う。

海が青いのも素晴らしい、そしてその海に飲み込まれる兵士達の姿が素晴らしい。

 

また、燃料がなくなりグライダーのように滑空するスピットファイヤの姿。飛行士は車輪が出る出ないのサスペンスを演じるのだが、それ以上に、ガチャガチャとレバーをひねり、ようやく動き出す車輪、そのメカニカルな操作、鉄の塊が滑空する無重力感が素晴らしい。

そういえばノーランはこの無重力感というキーワードで語られもしてきたのだ。

 

そっか、ノーランは頭が悪いのではなく、愚直な人なのだ。

愚直に史実にこだわる、CGを排し実物にこだわる、そのこだわりは遂に「ダンケルク」に結実した。素晴らしいと思う。

しかし、真面目な人は時にバカに見えるし、愚直な人というのは時にポカをかます。だから決定的なショットを撮れずごまかしに走るわけだが、そのポカは貴重だと「ダンケルク」を観た私は思う。

一日数10件の閲覧者を誇る極東の1ブロガーはノーランにこれまでの言を謝罪する。すまぬノーラン

AD
コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

私はクリストファー・ノーランが嫌いだ。「アクション映画の面白さを見せかけのスペクタルで糊塗し、面倒くさい言い訳で作家然とふるま」う糞野郎だと思っている。

 

だが本作でちょっと見方を変えた。

 

一日数10件の閲覧者を誇る極東の1ブロガーが、大ハリウッドの大監督に言うにはあまりにおこがましいのだが、

クリストファー・ノーランは頭が悪い。しかし、これは褒め言葉であることを、今回と次回で証していく。

 

まず第一に頭が悪いのが「時制を交錯」させること。

 

この映画は「イギリスに退却しようと図る兵士」「退却を助けようとする民間人」「退却に資すために、敵機を撃墜しようとする飛行士」の3つの話が交錯するのだが、面倒なのは、兵士の話は1週間かかり、それ以外の話は半日くらいしかかからない点だ。

だからなのかどうなのかノーランはこの3つの話の時制を交錯させて展開するわけだが、そもそも映画は時間を収縮することができる稀有な芸術である。時制を交錯しようが、時間軸に沿って語ろうが、映画はそれを許容する。

 

史実では一週間かかったわけだし、とノーランは言うのだが、そんなものは映画には関係がない。

一日の話にしたって何の問題もないし、また1週間の話に、1日の話や3時間の話を挿入したっていい。

ある話は夜になったり朝になったりしてはいるものの、それに目をつぶれば、一続きの話として成立しているし、事実、私は時制が交錯していることに全く頓着しなかった。

 

さらに、飛行機が不時着するか否かというサスペンスを二度繰り返したり、結果があらかじめわかってしまっていたり、時制を交錯させることによる弊害の方がはるかに多い。

あ、この瞬間はこの瞬間につながったのね、といった時間を交錯させる映画にありがちな楽しさもない。

なぜならノーランは「この瞬間」をちゃんと撮っていないからだ。

 

それは本作に限ったことではなく、ノーラン作品全てに言えることなのだが、決定的なショットをノーランは撮れない。

 

私の見過ごしであればいいのだが、飛行士が爆撃機を撃ち落とすショットがこの映画にはあったか?

私が見たのは、民間船が兵士を救おうと頑張っていると、あ撃墜した!とか何とかのセリフが入って、次のショットで爆撃機が煙を上げて墜落していくカットだけであった。

 

爆撃機を撃墜できるか否か、撃墜できなければ多数の兵士が乗る駆逐艦は沈められてしまう、そのサスペンスは時制を交錯させることで減じられ、さらにトム・ハーディーらしき飛行士の奮闘努力、それが実を結ぶ瞬間を私たちは決して見ることができない。

「プロデューサーなり編集マンは「え?これしか撮ってないの?」と映画監督が多分最も恥とする言葉を思わず呟いたらしいが」、ああ不幸なことにプロデューサーはノーランその人であった。

 

あるいは例えば、ケネス・ブラナー扮する将軍が遠くの海を見やる。その主観のロングショットが入り、将軍が双眼鏡を覗くアップ、「何が見える」との問いに「故郷だ」と感動的なセリフをつぶやくと、再び主観の(やや寄った)ロングショットに繋がれるのだが、このショットの貧しさ。

 

監督!たまたま撮ってたフッテージにありました!と編集マンは言ったらしいが、どう考えても、このシークエンスの連なりを想定して撮影されたとは思えぬショットが、堂々と、しかも決定的なシーンの決定的なショットとして挿入されるのだ。

だからいつものノーラン同様、まるで盛り上がらない。まるで感動しない。フラストレーションだけ溜まる。

馬鹿ですか。

 

何だ、いつものノーランの悪口で全然褒めていないじゃないかと思われただろうが、次回で褒める。

AD
コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

「パターソン」というのは、アダム・ドライバー扮する主人公の名前であり、彼が住む街の名前でもある。このような「2」とか「対(つい)」とか「繰り返し」とかがこの映画のキーワードとなっているようで、やけに双子が登場するし、主人公が愛する詩人の名もウィリアム・カーロス・ウィリアムズだったりする。うろ覚えだが、永瀬正敏の二本の指にはなぜかテープが巻かれていたようにも思う。

 

また、例えば月曜日に妻がパンケーキをバザーで売ることを思いつき、日曜日にそのパンケーキがずらりと並べられた瞬間のワクワク感。フラれた黒人青年とアダム・ドライバーが何度目かに会い、去っていく、その黒人青年の後ろ姿。それらは単なる日常のスケッチに何らかの物語を見出すだろう。

 

そのようなあれこれを読み解くこと、緩やかな物語に身を浸すことも映画を楽しむ一つの方法であることに間違いはない。しかし、この映画の素晴らしさは決して、そのような、いわばジャームッシュ流の「仕掛け」によるものではない。

 

夫婦が眠る俯瞰ショットではじまり、寝室内の雑多な情景が重なる。バスのおもちゃ、主人公の軍隊時代の写真、椅子に重ねられた着替え。やがてアダム・ドライバーは何の前触れもなく(目覚し時計が鳴るなんて無粋は止めとこう)目覚め、腕時計を見る。

 

それら一つ一つのショットの何と美しいことか。

美学的に凝っているわけでは決してない。ジャームッシュはそれらがそこにあるがままにただ撮っているように思える。様々な調度がそれなりに配され、朝の光が差している。ただそれだけの情景がなぜこれほどまでに美しく、愛おしいのか。

またそれらは極めて静的なショットであるにもかかわらず、動いている。何百というカットから構成される映画の、この場所にこの長さで挿入されることで、これらのカットは動的な、映画的なリズムを擁している。

小津の「晩春」のあの有名な壺のショット、「麦秋」のあの有名な鯉のぼりが、映画史上最強の「麦秋」の原節子と淡島千景のトラックバックに匹敵するように。

 

それはもうジャームッシュの才能、と呼ぶしかない何かだと思う。知性でも、アイデアでも、努力でもない、どこか人知を超えた「才能」。

あるいはジャームッシュが映画に呼び込む僥倖。

 

ジャームッシュはそれら調度や小道具を吟味に吟味を重ね、丁寧に配したのかもしれないし、ただ美術さんが持ってきたものをすらすらと配しただけかもしれない。それは知らない。

しかし、ここにはそれらが紡ぎ出す、これしかないという絶対的な美しさがある。1mmでも崩れればすべてがだいなしになるような危うさがある。偶然、召喚されたかのような、映画の中に舞い込んできたかのような、ほんのわずかな、しかし絶対的な美しさ。

 

それはこの映画のすべてがそうであって、このカットのこの光、このカットのこの情景、このカットをどのタイミングでどれだけの長さ挿入するのか、その全てがギリギリのところで収まり、比類なき美しさを発揮しているように思える。

 

観ている私たちについてもそうかもしれない。

明日この映画を見たら、私は違うシーンに感動するのかもしれない。もしかしたら、昨日この映画を見ていたら、全く面白くなかったかもしれない。そんな危うさ。あるいは一回こっきりの体験。

映画を経験すること。

 

日曜日、パターソンはどこか寂しげな日本人(永瀬正敏が素晴らしい!)と出会う。彼と座るベンチ、その背景の木々。風に揺れる木々。この日のこの時間でしか出会えない木々のあり様。

そして、そんな一瞬一瞬が私たちの人生を作っているんだと気づく。実はずっと前から気づいていたのだ。

 

「かけがえのない毎日を描く」、是枝裕和だの荻上直子だの、あるいはつい最近では「マンチェスター・バイ・ザ・シー」なんてのが言いそうな凡庸を、ジャームッシュはなんて美しく、愛おしく、そしてスリリングに描いたのかと思う。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

備忘録的に夏休みに見た映画。10年ぶりくらいにツタヤでDVDを借りた。

よかったものから。

 

「エンド・オブ・トンネル」

「マダムと泥棒」というよりは、ウォシャウスキーの大傑作「バウンド」を彷彿とさせる、これは嬉しき、あの手この手のサスペンス。少々説明不足のところもあるのだが、ここまで見せてくれれば文句はない。コトが終わり、その後に畳み掛けるツイストもいい。

 

「コンサルタント」

これは面白い。映画館で見逃したことを後悔した。

表の顔は会計士で裏の顔は殺し屋という設定は、ま、よくあるのだが、彼が巻き込まれる事件、彼の正体を探る女性捜査官、そして彼の過去という3つのストーリーの絡み方が上手くて、凡百のアクションものの域を超えている。

 

「月に囚われた男」

「ミッション: 8ミニッツ」のような1アイデアもの、結末ありきのものだと思い、そう期待はしていなかったのだが、途中でネタを割り、その後の展開をサスペンスフルに描くのがいい。アイデアを発展させるつうのはこういうことね、と。微妙に流れるユーモアもいい。

 

そのあとはぐんと落ちて

 

「シークレット・アイズ」

ビリー・レイの未公開作ってんで観たのだが、アルゼンチンの映画「瞳の奥の秘密」のハリウッドリメイクであった。知らないで観て損した気分。しかも、結末までリメイクだとわからなかったと言う。

ま、リメイク元自体そう面白いわけではなく、というか全くつまらない映画であったわけで、こういう結末でいろんなことが明瞭になる手の映画ってのはダメだね。シナリオでは面白いかもしれぬが、そこまで見させられる退屈。

ビリー・レイの演出はさすがに堅実だし、ニコール・キッドマンは出てるだけで素晴らしいし、リメイク元を凌駕する作であることは間違いないのだが、ビリー・レイにはリメイクなんかで寡作なキャリアを潰してほしくはないと思う。

 

もっとぐんと落ちて

 

「インビテーション」

不安感を煽るだけの具体のない映画で、これはつまらぬ。ラストも予想でき、予想できるとこを、ただ不安感を煽るだけで切り抜けようとしている志の低さ。しかもそのネタ、ラストもつまらず、全く駄目な糞映画。

 

 

「ダークレイン」

不安感を煽るだけの具体と頭のない映画で、これはつまらぬ。頭の良い中学生程度が考える大ネタを繰り出すのだが、本気なのかギャグなのかわからぬし、ギャーギャー喚くだけの展開にひたすらイライラする、全く駄目な糞映画。

ファンタスティック映画祭で時折やってた見知らぬ外国映画、みたいな感じの懐かしさはあったが。

 

「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」

これは映画館で。敵地潜入、暗殺、籠城と心踊り血が騒ぐ題材に、相当期待してたんだが、久々に怒髪天つく糞映画であった。しかもそれなりに評判がいいというのも解せぬ、腹たつ。本作については後日。

 

というわけで妻は実家から戻り、私の日常は続く。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

ちょっと前「ライフ」を評するにあたって、アメリカンホラーについてハリウッド映画人の想いを忖度し、つまり勝手なことを書いたのだが、その続き。

というか、最近(でもないが)見たホラー、サスペンスを列挙する。

 

「死霊館 エンフィールド事件」。

それなりに面白かった「死霊館」のシリーズ2作目。

怖くて楽しいアメリカンホラー。これは見事にその試行錯誤が結実した作で、つまり、怖くて楽しくて面白い。

怖い表現はJホラーから、そこにミステリー風味を入れて、活劇の味わいも入れて。うむ、これでよし。

 

「ザ・ギフト」「サプライズ」

あるいは、途中から話が変わるってのはどうか。つまりネタのミックスをするとどうか。

それが「ザ・ギフト」で、ストーカーによるサスペンスだと思わせといて実は、という。この監督アダム・ウィンガードの前作「サプライズ」も同様。しかし「ザ・ギフト」はそれが妙な人間ドラマになるのが気になった。

 

「ドント・ブリーズ」

こちらはある家に強盗に入った若者がそこの主人からひどい目にあい、しかもその主人にはある秘密があった、というもので、こちらは面白かった。

アイデア自体は意外と単調だが、そのバリエーションと空間の工夫で飽きさせないし、敵方の造形も素晴らしい。

 

「コップカー」

さらに少年ロードムービーにタランティーノ風のギャングネタを投入したのが「コップカー」。こちらも悪徳警官ケヴィン・ベーコンのあの手この手が楽しい。

 

「グルーンルーム」「ブルー・リベンジ」

「グルーンルーム」はイモージェン・プーツ目当てで見たら、結構な尺の後に出てくるのでがっかりした。それはともかく、ネオナチ集団のリアルさが面白いのだが、脱出サスペンスのあの手この手のアイデアに欠ける。

この監督の前作「ブルー・リベンジ」も同様で、なんだかリアルな復讐劇。

 

「スピリット」

巨匠シャマランの「スピリット」は、これは監禁ホラーにある大ネタをぶっこんでくるのだが、そもそもの監禁ホラーとして全然ダメで全く乗れなかった。

 

と、ここまで羅列して思うのは、これらの作品のキーワードは「ネタのミックス」であり「リアル」ということ。

 

つまり、ホラーやサスペンスのある定石が「現実」と遭遇したらどうなるか、ということだ。

 

現実世界ではなんでも起こりうる。強盗に入った先がやたら強く変な人だった場合もありうるし、家出した少年たちがたまたま悪徳警官に出会うこともある。

あるいは主人公たちが超常現象に遭遇する、これまでのホラーは超常現象ありきの主人公たちであったが、「イット・フォローズ」や「ドント・ブリーズ」で超常現象に遭遇するのは現実にそこらへんにいそうな少年少女なわけだ。

 

しかし程度の差こそあれ、これらの作品がどうもパッとしないのは、それが現実の解明に終わっており、ホラーやサスペンスの定石を昇華させることに寄与していないからだ。

リアルってだけじゃハラハラドキドキしないわけでさ。「死霊館 エンフィールド事件」はちょっと別として。

 

というわけで鬱々としていたら、そこに現れたのががアンドレ・ウーヴレダルの「ジェーン・ドゥの解剖」とロバート・エガースの「ウィッチ」なのであった。

前者は素晴らしく、後者は糞つまんない。しかし前者は好事家の評価のみに止まり、後者は多くの方々から好評価を受けているようだ。

しかし、もう一度言うが、「ジェーン・ドゥの解剖」は素晴らしく、「ウィッチ」は糞つまんない。困った。詳しくは次回。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

「借りぐらしのアリエッティ」で最も楽しかったのは、アリエッティが父親と一緒に「借り」に行くシーンだった。

父親は腰につけた粘着テープをナイフで切り分け、自分の靴に貼り、テーブルを登る。

少し力を込めてナイフの刃先を粘着テープに刺し、すいっと切り込みを入れ、一気に切る。粘着テープの厚さ、質感が心地よく、テーブルを登った時の足の感じさえ伝わる。

 

このシーンで素晴らしいのは、粘着テープを登攀に用いる、そのアイデアの面白さであるとともに、この粘着テープの扱いと父親の手慣れた手つきによるものであって、決して「粘着テープ」というアイデアやガジェットの面白さに尽きるものではない。テープを切るという些細な動きが繊細に映像化されているからだ。

 

これはスタジオジブリの優秀なスタッフの手によるもので、ジブリを離れた米林宏昌に望むべきことではないのかどうか、アニメ制作事情はよくわからないが、「メアリと魔女の花」の米林はこのような「演出」をまるで意に介していないように思える。

 

魔女の花「夜間飛行」をメアリが初めて見つけるシーン。

二匹の猫を追って森の奥へ迷い込んだメアリ。猫が何かを見て興奮しているアップ、メアリのアップ、ついで猫から素早くパンすると「夜間飛行」が咲いている。そのアップへのポン寄り。メアリのアップとなりメアリは「わぁキレイ」と言う。

 

まず「わぁキレイ」はなかろうと思う。確かに「夜間飛行」は美しいデザイン、美しい色をしているのだが、それは観客が思えばいいのだし、メアリが思っていることを、セリフではなく観客に伝わらせるのが演出の役目である。メアリが思っていることをそのまま言う悪癖(としか思えぬ)、観客に再確認させるようなセリフのあれこれはシナリオの拙さをまず示す。

 

何より最悪なのは、件のパンショットが説明ショットでしかないことだ。

猫というスタート地点から「夜間飛行」という目的地までのパン。このパンはあらかじめそこに「夜間飛行」があることを前提にしており、私たち観客はこの花を見つけて驚くわけでも、美しいと感じるわけでもなく、ただパンの先に花がある、という説明しか与えられない。ここには「夜間飛行」という架空の花の造形のみがあり、それを殊更にどうこうしようという「演出」がない。

 

このような「演出」の欠如はこの映画の全編にわたる。

霧深い森に入るシーンでは、日常と異界をつなぐ橋を設けておきながら、少年とのやりとりは説明セリフだらけで、またカッティングも官僚的なものでしかない。メアリが足を踏み入れる前に、異界の先にカメラを据えるなんて最低だ。

 

初めて魔法大学を目にするシーンでは、メアリのアップに続いて、魔法大学へと飛行するメアリを捉えたロングショットをつないでしまい、魔法大学の異形はただの説明ショットに堕してしまう。

 

魔法大学のあれこれを見て回るシークエンスは、「借りぐらしのアリエッティ」の「借り」のシーンに相当するのだろうか。しかし、単に様々なアイデアやガジェットをただ見せるだけで、そこに描写はない。米林はそれらの造形を見せることで満足している。

 

アニメの技法に詳しくないのだが、背景が全く動かない絵でしかないことも気になった。

風も吹かない、木々が揺れない、太陽の光が感じられない、ただの絵の中でメアリや動物や悪い魔女たちが、官僚的に、紋切り型の演出で右往左往する辛さ。

 

クライマックスでメアリは「魔法なんかいらない」と叫ぶ。

おいおいそれはないだろう。私たちは魔法のない日常を離れ、魔法を観るために映画館に行くのだ。

アニメーションとは世界の中に魔法を発見し、セルの上にそれを再構築する作業ではないのか。

宮崎駿が引退してしまった後の絶望。米林は宮崎駿から何を学んだのか。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

「女優霊」「リング」で一般的となり、あるいはそれ以前の「「邪願霊」あたりから提唱されてきたJホラーが目指したのは、あくまでも「怖い」ホラーであり、例えばエルム街シリーズや13金シリーズ等は確実に馬鹿にされていた。少なくとも「別のもの」とされていた。つまり、楽しいホラーなどありえぬ、と。

 

アメリカの人々だってJホラーに驚いたに違いなく、あ、これは怖い、と。亡霊たちが人々を襲うのに理由もないし、ナイフで襲ってくるわけでもない、また撃退する術もない。これは怖い。

しかし、影響された人々がいつつも、そこはそれ、所詮はアメリカ人。アメリカナイズしてしまう凄さ。つまり、ようするに撃退しちゃうのだ。

 

結構前ではあるが、タランティーノが誉めたと言う「イットフォローズ」という青春ホラーを観た。

Jホラーに影響されたのか、「IT」はわけもなく人々を襲うし、その撃退方法もなさそうだし、そもそも「IT」が何なのかが最後まで分からない。Jホラーである。

しかし、どう考えても、高橋洋や黒沢清は普通のおっさん、おばさんが化け物化し襲ってくるのを、透明人間として提示したりは絶対にしないと思う。だって、怖くないもん。そこにいるじゃん、と。見えないけど、物理的にそこにいるものは怖くないでしょ、と。

 

それに、青少年がスラム化した街で倦怠中とか恋愛中みたいな絵をいちいち入れてくるのも煩わしい。え、そこがいいんすか。

 

それはともかく、要するにアメリカンホラーも困ってるんだと思うんだ。Jホラーはできぬ。なんかうちらアメリカンには無理な気がする、とアメリカの映画人は言ったと思うのだ。

じゃ、どうする。今更、楽しいホラーってのもどうかと思うし…。

 

中田秀夫の「リング」を見直した。

あまりに貧乏くさい絵作りに驚いた。貧相で狭い日本の家で女子高生二人が呪いのビデオを観て、もうすぐ祟りがやってくるわ、そんなの嘘よとかなんとか言いつつ、結局は「貞子」に襲われる、というシーン。

 

例えば「スクリーム」の何作目かの冒頭、ゴージャスなアメリカの邸宅で女子高生がわーきゃーするシーンを思い出す。まず家が違う。女優が違う。(ちなみに「リング」はブレイク前の竹内結子で「スクリーム」はアンナ・パキンなのだが、この竹内結子の素人臭いタヌキ顔はなんだ、と思う)何より、1階と2階を縦横に移動し、サスペンスを盛り上げる演出がゴージャスだった。

 

黒沢清はどういうわけか貧乏くさい日本家屋になぜかゴージャスな地下空間を設けるのだし、貧乏くさい警察署をどこだかよくわかんないオフィスに設える。黒沢清に頻出する廃墟が、怪奇映画の亡霊屋敷の代替であることは一目瞭然だ。つまり、やればできるのだが、総じてJホラーの絵作りは貧乏くさい。

 

中田秀夫の演出力というようりは日本の風土がそれを許していない気がする。アメリカンは「こういう絵」を前提として作っている、その前提が違う気がするのだ。日本の映画人にそういう感覚がない気がするのだ。

 

そこだ!とアメリカンホラーは考えた。

怖い絵を作ろう。怖い作劇はJホラーに任せて、怖い絵を作ろう、と。

 

ここでようやく「ライフ」に行き着くのだが、正直、この映画、そう面白いわけではない。

そもそもが何百回目の「エイリアン」なのだし、タコの化け物を駆逐するアイデアにも乏しく、そのせいかどうか、愁嘆場に尺を取るのも煩わしい。タコ型エイリアンが悪魔みたいな顔つきを見せるのも、いかにも(シャレではない)でしかない。狭くリアルな宇宙船、宇宙ステーション内をふわふわ遊泳するだけの、縦構図とアップショットでしか成立しない絵作りは単調だ。

 

ところがラスト数ショットでこの映画のすべてが変わる。

以下、ネタバレ。

 

 

凶悪なエイリアンを乗せた救命ポッドと、女性飛行士だけを乗せた救命ポッドがそれぞれ宇宙ステーションから発進する。女性飛行士は地球を目指し、一方は宇宙の彼方に飛びエイリアンを地球に入れまいと図るのだが、どういうわけか地球に不時着したのはエイリアンを乗せた救命ポッドであった、というオチ。このシーンが素晴らしい。

 

このどんでん返しが意表をついていて面白いわけでも、ああこれで地球が破壊されるというオチが面白いわけでもない。

素晴らしいのは、タコ型エイリアンにまとわりつかれた宇宙飛行士が窓越しに見えるショットであり、暗黒の宇宙の彼方に飛んでいく救命ポッドとその絵に重なる絶叫こそが素晴らしいのだ。

 

つまり、一つの絵が映画全編をホラーの絶望に染め上げる。

蛇女の造形であり、幼女ゴーゴンであり、「マタンゴ」のラストショットであり、レザーフェイス登場シーンの唐突に他ならぬ。「怖い絵」一つがホラーを成立させる。そして絶叫は怖い。

禍々しい絵、やなもの見ちゃったなという絵。これだ。怖いアメリカンホラーとはこれだ。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

蓮實センセーが毛嫌いしてたのが一番の理由で、ウッディ・アレンをそう観ているわけではなく、しかし近年「マッチポイント」以降の作品、中でも「ブルージャスミン」が素晴らしく、それはたまさか(「ハンナとその姉妹」などと同様に)いい作品を撮ったというよりも、イーストウッドのように何だか一歩抜けた感が強いからで、本作もヴィットリオ・ストラーロと初めて組むという、いかにも作家さん的な振る舞いを見せながら、その「一歩抜けた」感が相変わらず素晴らしい。

 

ヴィットリオ・ストラーロのカメラはファーストショットからまさに息を呑む凄さなのだが、だからといってストラーロが丹念にライティングしたショットを美学的なイメージショットに祭り上げることはなく、それを軽くあしらい、何事もなかったかのようにアレンはカットを重ねる。

 

安モーテルの一室で、主人公と彼が呼んだデリヘル嬢の会話。

主人公はデリヘル嬢が今夜初めての仕事であると聞き逡巡し、しかし彼女の言に面倒臭くなって、やっぱりやると言い出し、結局はやらないで帰す、というはっきり言ってどーでもいいシーンを、ストラーロは安モーテルにはありえないほどランプシェードを乱立させ、ベージュ色の光をあっちこっちに間接照明する。

 

「ヴィットさぁ(と呼んだかどうかは知らぬが)もうそろそろ回さないすか」と絶対にアレンは言ったと思うのだが(絶対に言ったと思う)ウエストサイズで人物の動きをパンし続け、人物の動きが決まんなくなったらショットを変える、みたいなラフなつなぎの中で交わされる、どーでもいい会話の楽しさ、愛しさ。

主人公の人となりに何となく共感し、デリヘル嬢のこれからに愛惜を覚えたのは、ヴィットの手によるものではなく、あくまでもアレンの確かな演出によるものだ。

 

恋した女性を初めて自室に招くシーンも素晴らしい。

テーブルをメイクし、レコードをプレイヤーにセットすると電話が鳴る。その長い間で、観客はその電話が彼女が来れないことを示すものであると予感するだろう。ブラジャー姿の彼女を挟んで、また同じショット、電話を切り、ため息をつき彼はテーブルに座る。

 

パンで人物の動きを捉える長い1ショットという、最近のアレンの投げやり感満載ショットが、やはり決まる。

電話する彼女の姿を一瞬挟むことで、適度に制度に迎合しているとでもいうような、長回しを強調しない品の良さがあるし、何よりその最初と最後で彼の立ち位置を変え、彼の孤独や悲しさをほのかに伝える。ザッツ演出である。

 

その後、ロウソクだけでライティングされたショットが続くのだが、ストラーロがこうした方がいいに違いあるまいと言い出し、ヴィットが(と呼んだかどうかは知らぬが)そう言うならいいけどさぁ、と不承不承承知したような、この映画のトーンにどうも合わない審美的なショットであったのが、逆に痛快でさえあった。

 

こうして、「アパートの鍵貸します」を換骨奪胎したような話を、いつものアレン、作家的風情を拭った、一歩抜けたアレン演出が続き、しかし最後、私たちが思い出すのはあのデリヘル嬢の今、なのだった。

 

主人公は成功したし、元カノも幸せになった。兄貴は困ったことになったが、ま、それも人生だよね、と言う述懐からこぼれ落ちたデリヘル嬢。彼女の人生と今が心に残る。彼女はどうしているんだろう。

はいっ整いました。上手い。ウッディ・アレン。上手い。昔はそれが嫌味だったのだが、今は、もうひたすらため息をつくよ、上手い。

コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

甥の恋人の母親から食事の誘いを受けるのだが、主人公はその誘いを断る。断る理由を考えているのだろうか、彼の逡巡をカメラは捉え続ける。その長い間。

 

街角で離婚した元妻と偶然再会するシーンでは、その偶然に驚きながら、しかし、彼に何事かを伝えなければならないとの思い、そしてそれを伝えた後の双方の感情を、そこで起こり得たことをそのままカメラは捉える。

 

このような物語の流れに設けられた時間の余白はこの映画の美徳なのだろうと思う。確かに前述したシーンは感動的であった。

リアルな人間の感情に寄り添うこと。

感動的だし、なんかゲージュツ的だが、どうもつまらん。

 

この映画がどうも好きになれないのは、これらのシーンがあくまでも登場人物の感情や心理、思惑をつぶさに捉えることのみを目的としているからで、演者は登場人物をリアルに演じることのみを求められ、演出はリアルを表出することに専しているからだ。

 

映画的な演出など必要あるまい、という向きもあるだろう。そのような「演出」の払拭こそがこの映画の演出であり、美徳なのだと。

 

一方、この映画はやけに風景ショットを挿入する。海沿いの風景、カモメが飛ぶ町の全景に趣のある音楽が流れ、この映画を妙に盛り上げる。

つまり、ある物語に沿って取捨選択された人間のリアルと、それを補間するイメージショットの羅列。

なんだか胡散臭い。

 

そういえば、主人公の境遇は悲しく、身につまされもするのだが、彼の二人の子供は、主人公の孤独や罪悪感やコミュニケーションの断絶を生み出すアリバイみたいだった。子供が登場する夢のシーンは最悪だった。子供たちは彼の罪を責めたてる、そのマクガフィンとしての子供たち。

 

ラストカットは、冒頭シーンがそうであったように、この映画全体を象徴するような釣りのシーンである。主人公とその甥がじっと釣り糸を垂れるショット。なんだ小津じゃん、そっか小津をしたかったのね、と思う。

 

しかし、ケネス・ロナーガンは小津を履き違えている。小津の風景はただのイメージではないし、何より、小津は素晴らしく面白く、映画を演出する。

コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。