映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)

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ホークスのインタビューを無茶苦茶に訳して平然と構える某映画批評家が述べた数少ない正しい言葉の一つに「ミュージカルで最も素晴らしいのは歌いだす瞬間だ」というのがある。拙ブログでも何度かこの言を引用してきた。
つまり、歌やダンスは「体技」をそのまま捉えればよい、またそれらは物語とは独立して存しても一向に構わない。だから「ザッツ・エンターテインメント」はあるわけだ。
しかし歌う瞬間や踊るきっかけは「体技」ではなく、「物語」の中に組み込まれている「演出」の仕事によるものだ。

 

タップシューズに履き替え、素晴らしくロマンチックなタップを踊りはじめる瞬間(ちなみにこのベンチでのやりとりは「ジーグフェルド・フォリーズ」のアステアとジーン・ケリーを思い出す)、ローラ・ゴズリングがクラブの支配人の言に背いてジャズを弾き始めようと図る瞬間、結婚パーティーでゴズリングと再会したエマが不意に体を揺らしはじめる瞬間。星空にジャンプする瞬間。

 

あるいは、オーディションでエマが歌いはじめるまでの長い間。カメラはゆっくりと彼女にトラックアップし、彼女のアップで止まると、しばらく間があって、彼女は話しはじめ、それはやがて歌に変わる。
先に述べた移動ショットと同様の素晴らしさ。

 

そしてこの映画はエマ・ストーンの表情が素晴らしい。バイト先のカフェにやってきた有名女優を見つめる、羨望や憧れ、嫉妬が入り交じった表情。オーディションが決まった報をうけて震える目もと。ローラ・ゴズリングと初めて会い、その歌を聞く表情。走るエマ・ストーンの顔はシャーリー・マクレーンやテレサ・ライトに伍して素晴らしい。

 

女優にその表情が宿るまでじっくりと構え待っていること。そして現れたその瞬間を逃さず捉えること。

 

しかし、ミュージカルにこんなにアップ(しかも女優の)があってもいいものか。これは明らかに倒錯した事態であって、例えばエマのクラスメイトが踊るシーンでは、踊らない、歌わないエマのアップをカメラは捉え続けるのだし、彼女の部屋にはイングリッド・バーグマンのドアップのポスターが飾られている。先に述べた彼女へのトラックアップがいかに多いことか。

 

つまり、映画は彼女に淫したのだ。彼女に恋してしまったのだ。彼女の様々、何もしていない彼女をすら私は撮りたいと演出は言う。だって好きなんだもん、と言われたら、ああそれは仕方ないかと思う。


ミュージカル、いやそうではない、MGM、いやドミーだ、映画愛だ、いや偽もんだ、登場人物の行動に説得力がない、と賛否両論らしい。くだらぬ批評も目にした。(「スクリーンの前に立つな」とか「引用されてる映画がちがーう」とか)
しかし少なくとも、こんなに女優に恋している映画を嫌いにはなれない。そしてその想いに応える女優を素晴らしいと思う。それだけでいいではないか。

 

そして映画は彼女のアップに続いて、ライアン・ゴズリングの苦い笑顔で終わる。
だから私はいつも言っているのだ、アップで終わる映画に外れはない、と。

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評判の良い諸作(「沈黙」「マリアンヌ」「お嬢さん」などなどなど)にまるでノレず、俺は映画感性が鈍くなってきたのかと悩んでたところに観たら、これが素晴らしいのでほっとした。ああまだ俺はこういうのに感動できるんだ、と。

それはともかく。


パーティの帰り道、車をレッカー移動されたエマ・ストーンが一人夜道を歩く。そのロングショットを2カット重ね、やや寄り目のショットに続いて、ウエストショットで彼女が歩くのを横移動で捉える。


パーティー・シーンからのつなぎが駐禁を示す標識のアップという下品さはさておくとして、このロングから移動ショットへのつなぎがわるくない。

それは単なる私の好みかもしれないが、しかし、この移動ショットの長さ、そしてカメラが移動を終え、つまり彼女が立ち止まり、店から流れる音楽を聞き、店に入ろうと決めるまでの長い時間は、単なる好みを超えた「映画」の時間としか言いようのない何かだと思う。

 

例えば、エマが立ち止まった時にカットを割り、さらにアップにする、あるいはもっとロングにすることも考えられる。しかし、前者であれば、そこで捉えられるエマのアップは単なる「店に入るかどうかを迷う」説明的な表情でしかないだろう、後者であれば、その後に続くであろう店に入っていくという行動の前段階でしかない。そもそもロングショットでは彼女の迷いが伝わらない。
だから演出は、彼女の動きに応じて動き、止まるようカメラさんに命じる。その1ショットの中で、そのままエマ・ストーンを捉えようとする。
それは演出がもたらした時間、そしてその演出に耐えたエマ・ストーンの時間、つまりミュージカル「映画」ではない「映画」の時間である。


何も起こらない時間、何か行動を起すまでのきっかけとなる時間。

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映画好きはティム・バートンに優しい。
それは「必要なショットだけを撮り、つなぎのポイントも一点しかない」「仕立ての確かさ」(http://blogs.yahoo.co.jp/akibiyori0919/)だからだし、また畸形者や社会的弱者に対する共感性ゆえもあるだろう。

しかし前者に対しては、それは希有な才能かどうかが疑問だし、後者に対しては正直どうでもいい。
私がティム・バートンを面白く思うのは、絵本のような並列的なエピソードの羅列が楽しいからで、しかしそれがアウトサイダー・アートのような「畸形」への共感や偏愛ゆえであるかどうかはわからない。

ともかく、「マーズ・アタック」は異様な火星人たちの悪さがえんえんと羅列されるだけの映画だったし、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」は、サンタクロースに憧れるハロウィンの王が子供たちにプレゼントを配る件が最も面白かった。「チャーリーとチョコレート工場」も子供がいなくなるエピソードがただ羅列され、その理由が示されることはない。

一方、つまらないティム・バートンは(「確かな仕立て」ではあるけれど)ちゃんとした物語を語ろうとする。あるエピソードが語られ、次いでそれを発展させたエピソードが語られる、そしてそれらエピソードが一つの大きな物語を形づくる、といったような。

つまり、ティム・バートンは普通の話を撮るとつまらん。
(と言いつつ、かの傑作「バットマン・リターンズ」と「シザー・ハンズ」があるのだが、これはま、おいとく)

畸形者や社会的弱者や人間的なモンスターに誤摩化されてはいるが、それらが普通に物語を語りだすと、途端にティム・バートンはつまらなくなる。

本作も同様で、超能力を持った異形の者たちがその能力を発揮する、そのシーンのみが楽しい。
様々な力が悪者をこらしめていく、そのエピソードの羅列こそが本作の見どころで、最も面白いシーンではあるのだが、時既に遅し、そこまでに観客は約2時間我慢せねばならない。

異形の者同士の時空を超えた愛、悪者が登場した理由、異世界にまつわる様々なルール、それらを説明するだけの必死な2時間。その退屈。しかもエヴァ・グリーンは脱がぬ。これはつまらんティム・バートン。

ていうかティム・バートンってちょっと過大評価されてないすか。「バットマン・リターンズ」と「シザー・ハンズ」があるからすか。どうすか。
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「アイ・イン・ザ・スカイ」を観たからというわけではないのだが、Web配信でスピルバーグの「ミュンヘン」を再見。


公開時に観、その年のベストの一本に入れていたのだが(ちなみにその年のベスト1は黒沢清の「LOFT」)再見し、やはりその素晴らしさを確認した。もしかしたらスピルバーグの中で最も好きな作品かもしれない。

 

いろいろ問題はある。

 

「アイ・イン・ザ・スカイ」の面白さは、面倒くさいテーマをお話の中に見事に組み入れ、それをサスペンスとして提示していることなのだが、「ミュンヘン」も同様。
ところが、「ミュンヘン」はお話やサスペンスの面白さが明らかにテーマを凌駕しているように思う。

 

「ミュンヘン」は「黒い九月」によって殺されたミュンヘンオリンピックの選手たちに復讐しようと謀るモサド暗殺チームの実話を基にしているのだが、そのチームリーダーがいろいろ悩む。そりゃ悩む、つう話で、それがこの映画のテーマ、いいたいこと、観客への問題提起である。つまり「復讐の連鎖」を人は許せるか、つう話、つうか悩み。

 

ところが、スピルバーグはそれを言いたいのか、華麗なる殺し場面を演出したいのか、どっちかまるでわからぬ。
逆に言えば、華麗なる暗殺場面が滅茶苦茶に面白いつうのはいかがなものか、と。

ああスピルバーグは巧いなぁ、とつくづく思う。サスペンスの醸成はもとより、滅茶苦茶にかっこいいつうのはいかがなものか。

 

フランケンハイマーの「影なき狙撃者」を引用した最初の殺し。
雨上がりの濡れた歩道で、車を挟み互いに銃を向けるPLOの若者との闘い。
長い屋外階段を活かした集団戦。
そして女殺し屋マリ=ジョゼ・クローズが居場所を発見され、殺されるシーン。自転車の空気入れを擬した拳銃で彼女は殺されるのだが、体に空いた弾痕と流れる血の格好よさ、死ぬ間際まで色仕掛けを図る格好よさ。

 

しかし、この格好良さは果たしてこの映画にとってどうなの?と。

殺す、かっこいい、悩む、面倒くさい、その連続でこの映画はできているのだが、これがいいのかどうか、私は判断つかず

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「ドローン・オブ・ウォー」という同テーマの実につまらぬ先行作があった。

なぜなら、「ドローンによる攻撃」という題材がテーマをあらかじめ準備しているからで、そしてそれが映画表現に昇華していないからだ。


ドローンのパイロットは指揮官の判断どおりにミサイル発射のスイッチを押す。彼は殺傷マシーンでしかない。彼は悩む。とても悩む。映画は悩んでいる男の姿をあれこれ描き出すのだが、悩んでいる男をいくら捉えても、映画は全く面白くなってはいかない。
酒を飲む、議論する、ふらふらする、スイッチを押す手がためらう、時に喧嘩したり、走り出したりもするだろうが、そんなもんを観て面白いすか。

 

また「アイ・イン・ザ・スカイ」と並べて評されるのが「シン・ゴジラ」で、つまりドローン攻撃までの軍上層部や官僚の議論、そのシステムが似ているというわけだ。


例えばゴジラ第一形態への攻撃時、民間人がカメラに捉えられた瞬間、日本国総理大臣は攻撃中止を指示する。私たちは、人命第一という硬直した官僚的思考に嘆息するだろうし、あるいはこのような状況下で日本の官僚というのはこういう対応をするんだなぁ、と思う。


しかし、私たちはゴジラ第一形態への攻撃中止や、カメラに捉えられた民間人の姿にサスペンスを感じただろうか。「あ〜駄目じゃん」と思い、ハラハラドキドキしただろうか。

「シン・ゴジラ」が描くのは日本の官僚についてのリアルな情報でしかない。もちろん、その「情報」はとても面白い。巨大生物が現れた場合、行政はどう対処するかについてを見せられることはとても面白い。こういう怪獣映画を待っていた、とさえ思う。それはそれでよし。

 

しかし「アイ・イン・ザ・スカイ」が素晴らしいのは、「ドローン戦争」という題材があらかじめ準備するテーマを、映画表現として、サスペンス映画として純化させていること。さらに官僚システムについての情報ではなく、それら情報を形づくる人間を、物語の中で描こうとしているからだ。

 

おいおいまたぞろ「人間が描けてない」批判かよ、と思う向きもあるだろうが、違う。
ここで描かれる「人間」はあくまでもサスペンスの題材としての人間であり、映画として昇華された人間である。

 

この映画にはステレオタイプのタカ派将軍や無能な官僚が登場することはない。
彼らの多くが、少女の命と、少女の命を助けることで失われる多数の人命について、真剣に考えている。その真剣さが感動的だ。無慈悲なミサイル攻撃の背後に、人間の命や尊厳を真剣に考える人々がいること。

 

そして娘の父親は、これから先、かつて彼が「狂信者」と蔑んだグループに属そうとするのかもしれない。殺人は連鎖するのかもしれない。
しかし、映画は何一つ、そんなことを語らない。私たち観客は映画を観終わって、そのような問題意識を抱くだろう。しかし映画を観ている間はただ「パンの数を数える」だけだ。素晴らしい。

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正月早々、いい映画を観た。

 

パンを焼く母親、父親はフラフープに飾りの色テープを巻き、娘はそれをくるくると軽やかに回す。
ナイロビに住むある家族の朝の風景をカメラはただ写し取り、そしてまさにドローン撮影によって、彼らが住む家の俯瞰から街の全景がゆっくりと捉えられ、メインタイトルが入る。

 

登場人物たちが住む街の全景を冒頭に配する映画は数多い。このような全景ショットがつまらないのは、それが映画の冒頭を形づくるための官僚的なショットでしかないからだが、この映画のドローン撮影による街の全景、そしてこれら一連のオープニングシーンが優れているのは、それらが本編全体を予告し、まとめ、象徴しているショットの連なりであるからだ。

 

この街のこの一角はやがて映画の主要な舞台となるだろう。しかし、その舞台はドローン撮影が示すとおり、外部からの接触を許されてはいない。
このシーンに続いて、イギリス、アメリカ、中国の様々な場所を舞台に映画は展開されるわけだが、それらの場所から眺めるだけ、覗き見されるだけの場所が、このナイロビの小さな街の一角であること。
この場所に唯一、接触できるのは無慈悲なミサイル攻撃だけであり、その中に生きる少女も母親も父親も外からの影響によって生活を変えるものではない。
その厳然たる事実をこの全景ショットは予告している。

 

そして、あの素晴らしいパン。

 

少女は母親が焼いたパンを売りに出かける。道ばたに粗末なテーブルを出し、布を広げ、何枚かのパンを並べる。丸くまとめられ焼かれたパン生地の堅さ、その触感。
もしそれらを落っことしてしまったら、少女はその汚れを軽くはらって再びテーブルの上に並べ直すだろう。汚れがひどく売り物にならないパンは籠の中に捨ておかれるだろう。
それは「生活」としか言えない何かである。少女の「生活」を数枚のパンが示すこと。

 

この映画が素晴らしいのは、そのような生活の糧としてある「パン」がサスペンスの重要な小道具となることだ。


「こんなにパンの数を数えたことはなかった」というツイートを見かけたが、ヒッチコックの諸作、例えば「汚名」のワインや鍵、「見知らぬ乗客」のライター、「知りすぎた男」の楽譜、それらと同様に、単に気の利いたサスペンスの小道具ではなく、無機質な食物が登場人物の生死を左右する無慈悲な物質に昇華することが素晴らしい。昇華せしめることの恐ろしさ。

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122回は観ている映画だが、Web配信で映画初め。基本的に拙ブログは映画館で観た映画に絞って映画評を書くことにしていたのだが、昨今の私の映画事情を鑑みるに、そのルール下ではブログを続けることもままならぬ。
 

で、「大統領の陰謀」。当然の話ではあるが素晴らしい。

 

まず役者がいい。
レッドフォードはいつも、いつも、いつだって素晴らしいし、ジェイソン・ロバーズ、ハーバート・ロム(嘘)、マーティン・バルサム、ジャック・ウォーデン、ハル・ホルブリック、1シーンだけのネッド・ビーティ、彼らベテラン陣、はもちろんだが、あまりよく知らない役者たちのもっともらしい顔こそがこの映画の核であること。
マンションのベランダで不遜に語る悪徳弁護士の顔、ダスティン・ホフマンの執拗な質問に恐る恐る応える簿記係の女性の顔(調べたらジェーン・アレクサンダーというベテラン。私が知らなかっただけか)、妻の出産を控える政府高官の顔。ハリウッドの役者の厚さ。

 

そしてカメラがいい。ゴードン・ウィルス。特に補足なし。観ればわかる。

 

そして演出がいい。「コールガール」や「パララックス・ビュー」のような曖昧な映像が魅力のパクラだが、この映画ではそれを抑えつつ、時に混沌としたサスペンスが醸成される面白さ。

 

さらに脚本がいい、とは言えないあたりが、この映画の真の凄さだと思うがどうか。

つまり話がよくわからぬ。123回観てもまだわからん、というのは嘘で、87回あたりからわかるようになったのだが、86回目まではまるでわからなかった。
もしかしたら、当時のアメリカ社会では自明のコトだったからかもしれないが、ウィリアム・ゴールドマンとしては、わからんでもよか、という方針でシナリオを書いたとしか思えぬ。これを初回で理解せいというのは無理がある。

 

そして凄いのは、話が途中でぶった切れること。これから!つうとこで映画が終わる凄さ。潔し。
今の世なら「上の句」「下の句」の二部構成にすればよかろうが、この映画は138分しかない。だから、途中で話をぶつ切ったのだ、とゴールドマンは語る。それでよか、と。
まさか大幅にカットしたなんてこともあるまい。これは何なのか。

でも面白い。すごく面白い。それがよくわからぬ。

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今年の映画初めはWeb配信の「大統領の陰謀」、映画館初めは塩田明彦の「風に濡れた女」。ロマンポルノ・リブート企画の一篇。

 

私は塩田明彦の映画がとても好きな者で、特に自主映画時代「ファララ」「優しい娘」「星影のワルツ」が大好きだった。ロメールのような正確さと、役者たちの自由さ、ラフさが好きだった。「ギブス」も好きだった。
だから何だか申し訳なく、そして残念なことに、この映画はつまらなかった。

というより、全く理解できなかったに近い。

 

ゴミ置き場におかれている椅子をリヤカーをひく若者がそれを拾うショットが冒頭。
続いて、岸壁で本を読む彼のウエストショット。
続いて、女が自転車でやってきて男のすぐそばの海に突入し、女はずぶ濡れのまま海から上がり、服を脱ぎはじめる。男は変な女の登場に恐れをなしたのかフレームアウト。
次のショットは、リアカーをひく男の後ろから、先の女がつきまとってくるのをトラックバックで捉える長いワンショット。

 

よくわからぬ。

 

いやわかる。こういう奇矯な行動をそのまま捉える映画ってのは少なからず、ある。
例えば神代辰巳。例えば相米慎二。おおロマンポルノだ。

 

このような奇矯な行動を観客に容認させるには、まずその1カットの強さだったり、あるいはこれらの行動をする演者の身体だったり、ようするに物語や登場人物の心理とは離れたメタ映画的な魅力が必要で、だから観客は容認せずとも面白いと思うだろう。時に感動さえするだろう。

 

塩田明彦のこの映画に果たしてそのような魅力はあっただろうか、と思う。
私には神代辰巳や相米慎二をやってみました、という感じしかなかった。すべてが段取りでしかないように思えた。
この映画のすべてがそう思えた。


クライマックスの長いセックスシーン、様々な場で巻き起こるセックスバトルがやけに評判がいい。しかし、私は「この手」をうまくまとめた、としか思えなかった。

 

この映画と神代や相米と分つものは何だろうと思う。


AVでホントの(他人の)セックスをやたら観ているからだとも思うし、時代が違うからだとも思う。
よくわからぬ

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あけましておめでとうございます。

といっても昨年のネタ。
2016年ミステリーベスト。

 

「ジョイランド」スティーブン・キング
「このミス」や文春のミステリーベストでは「ミスター・メルセデス」が挙げられていたが、ミステリーとしてはかなり弱い。私はこちらの小品を挙げる。ミステリ色は「ミスター・メルセデス」以上に薄いのだが、ある夏の青春物語として素晴らしい。

 

「希望荘」宮部みゆき
宮部みゆきの杉村三郎シリーズに外れなし。今回は杉村が職業探偵となる初めての連作短編だが、特に表題作が素晴らしい。謎の不可思議性と解決に至る論理性、そして解決に向けてのサスペンス、つまりミステリーの素晴らしさが短い枚数に詰まっており、ラストは宮部らしい人情譚となる巧さ。

 

「失踪」ドン・ウィンズロウ
各種ベストでは「ザ・カルテル」が当然のベスト入りを果たしており、もちろんそれに異存はないものの、私はこちらを挙げる。子供の失踪事件を探る元刑事の執念が、アメリカを縦断する暗黒ロードノヴェルとして展開されるのが素晴らしい。元刑事の地獄巡り。

 

「世界の終わりの7日間」ベン・H・ウィンタース
ミステリ色は弱い。ミステリーとしては第1作の方が意外性に富み面白かったが、世界が終わる瞬間の余韻が素晴らしかった。

 

「証言拒否 リンカーン弁護士」マイケル・コナリー
今年のコナリーなら「転落の街」より断然こっち。詳しくはこちらを。

 

そしてベストは、全く評判にならなかったが、それだけにここで推しておきたいのが

 

「女麻薬捜査官ケイ・ハミルトン 奪還」M・A・ロースン
麻薬王の逮捕、その脱走、再びの逮捕に至るお話を、めちゃめちゃにクールな女捜査官と麻薬王、双方の視点から描く。刑事もの、ケイパーもの、そしてコンゲーム風と物語は様相を次々に変えていき、そしてそれはアイデアとサスペンスに満ちている。

 

マーク・グルーニーの「暗殺者の反撃」はスパイものの趣きも加え、大満足の一篇ではあったが、シリーズ初期にあった満身創痍感が乏しくなったのが残念。

 

「熊と踊れ」にしろルメートルにしろ、ミステリーではない部分が評価されている気がし、どうも納得のいかない昨今のミステリー事情。私がベストに挙げた「女麻薬捜査官ケイ・ハミルトン 奪還」は親子の相克も少数民族の情念も男女の愛憎もまるでない、ただただシンプルなミステリーだが、だからこそ、ミステリーだけが与えてくれる感動に満ちている。

 

ミステリー枠を取払い、昨年読んだ本全てのベストは、

 

「カウントダウン・メルトダウン」船橋洋一
というかここ10年で読んだ本で最も面白かったと言っていい。
福島第一原発のあの時の状況を克明に再現したノンフィクション。面白いに決まってる題材を、綿密に、正確に書いたら、そりゃめちゃくちゃ面白いでしょう、と。

 

というわけで今年もよろしくです。

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今年は忙しかった。本もあまり読めなかった。映画も観れなかった。
その中での5本。ブログで書かなかった映画には寸評つき。

 

溺れるナイフ/山戸結希
○キャロル/トッド・ヘインズ(現在の古典としての風格)
○ハドソン川の奇跡/クリント・イーストウッド(映画はこれでいい、という確固とした意志というか、経験)
ちはやふる(上の句下の句)/小泉徳宏
○ジョギング渡り鳥/鈴木卓爾(あからさまなメタ映画でありながら古典的なフォルムをもち、しかも自由で多彩な感情に満ちている)

 

もう一本あげるならジョナサン・デミの「幸せをつかむ歌」。

以上がベスト。今年はこれ!つうの。


他に「オデッセイ」「スポットライト」「アーロと少年」スピルバーグの2本の新作、好みではないがリンクレイターの新作、「スティーブ・ジョブズ」「ドント・ブリーズ」あたり。
「ダゲレオタイプ」他、多分、ヨーロッパ映画は1本も観ていない。

 

ワーストは「ヒッチコック/トリュフォー」(あ、フランス映画だ)。

やけに評判がいいのだが、インタビューされる監督たちは制度的、官僚的に選別されているようにしか思えないし、その賛辞は空疎にしか響かない。ヒッチコックやトリュフォーの新たな発見は皆無で、何より、当の映画が批判する「クライマックスだけ」のヒッチコック映画の名場面の羅列はヒッチコックへの冒涜だとさえ思える。ヒッチコックが形づくるエモーションは、決してそのショットのみ、そのシーンのみから生まれたものではないからだ。

 

そしてこれまた評判がいい「シング・ストリート」。お馴染みジョン・カーニーの能天気な歌えばハッピー映画。

 

「その世界の片隅に」「シン・ゴジラ」は共にえらく面白かったのだが、「映画」を観てる、という気がしなかった。


「その世界の片隅に」は、ある庶民の歴史の一こまをそのまま写し取った、そこに作為や演出がない。
というのは真っ赤な嘘で、作者はその世界を構築するために、どえらく演出しているのだろうが、何と言うか、その志がどうも映画には向いていない気がした。

 

「シン・ゴジラ」も同様で、あるリアルな情報をそのまま写し取ることに汲々とし、そこに演出が感じられない。その情報はえらく面白く楽しくわくわくもするのだが、例えば、石原さとみと長谷川博己がえんえんと話す長い1ショットは最低だし、美談として語られる「3時間の脚本を2時間におさめる」演出は果たして効果的だったのか。観客は情報の洪水に飲み込まれ、単に思考停止に陥っただけではないのか。

 

主演女優賞はのん(「その世界の片隅に」)でしょ。がんばれのん。負けるなのん。
助演女優賞は松岡茉優(「ちはやふる」)。

 

というわけで来年もよろしくお願いします。来年はちゃんとブログを更新します。仕事も頑張ります。

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