ノーカントリー その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「ノーカントリー」NO COUNTRY FOR OLD MEN(2007/122分)
監督・脚本/ジョエル&イーサン・コーエン、撮影/ロジャー・ディーキンス
(imdbによると引用されている映画は、「熱砂の大脱走」“FLIGHT TO TANGIER”(1953)

「まあだだよ」のメイキングで一番面白いのは、松村“おいちゃん”達雄に徹底的に駄目だしをする黒澤明の姿だ。
いなくなってしまった愛猫を求めて、半ばおかしくなった松村が、停車した列車の窓からホームにいる猫の姿を見るというシーンがある。松村は窓を開け、それが果たして愛猫なのかどうかを確認しようと必死になるのだが、それがいかんと黒澤は言う。

松村は窓の留め金をちらりと見て、それをつまんで列車の窓を開くのだが、猫に対し必死な人間が留め金に注意など払わぬ、なぜお前は留め金をちらりと見るんだよっ、と黒沢は怒鳴るのだ。
松村としては、留め金がどこにあるのかをちらりとでも確認しないと窓は開けられないわけなのだが、それはならぬ、と。

つまり黒沢は、「猫を求めて必死になっている」という物語に応じた行動以外は認めず、あるいは誇張すらし、すべての行動を物語に中心化しようと試みる。現実世界でこの物語を展開する際に、どうしても必要となるささやかなリアルをも排除しようとするのだ。

一方、コーエン兄弟は例えば「追ってくる犬を撃ち殺す」という物語において、黒沢とは真逆の演出を試みる。
川を泳ぎ逃げようとするジョシュ・ブローリンを犬が追う。ブローリンは岸に上がり、拳銃を取り出すのだが、拳銃が濡れているからかどうか、まず彼は弾倉を交換しスライドを引くと、薬室にふっと息を吹きかけてから、犬を撃つのだ。

ブローリンは銃器の扱いに長けており、さらに犬の攻撃に対しても動じない冷静な人物であることを演出する、あるいは、このような手順を踏むことで、サスペンスを増す効果を狙う。

このような物語の要請に従った演出、あるいは物語を現実世界に展開するための演出という、黒沢的演出、松村的演技以上に、このシーンでの銃の取り扱いはそれだけで突出している。

サム・ペキンパーの「ゲッタウェイ」でスティーブ・マックィーンは意識をなくしたアル・レッティエリにとどめを刺そうと、レッティエリの頭に銃を向け、左手をかざす仕草をする。これは脳漿が飛び散るのを避けるためらしいのだが、この映画にとどまらず、銃器に関するディティールを示す演出に映画は事欠かない。また、映画はこれらを微笑ましい細部として、トリヴィアとして受容してきた。

しかし、コーエン兄弟にあってはこのようなディティールの突出は銃器にとどまるものではなく、また「微笑ましい細部」以上の突出を見せ、物語に組み込まれる。

細部が形作る物語。
事実、これらのディティールの多くは伏線として機能し、何らかの物語を形作っている。
しかし、言い換えれば、ここには細部しかない。