ノーカントリー その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

通風口に隠された鞄を取り出そうとする執拗な描写、リノリウムの床に描かれた靴の跡、流れる血を避ける殺し屋、ドライバー代わりとして利用されるコイン、探知機がたてる音、車をいかに爆発させるか。

またこれらの細部は、極めて現実に依拠しているがゆえに、現実とは異なる感触を持つ「過剰なリアル」とでも言うべきものだ。

現実はいかにもそうなのだろう。
犬に襲われても人は冷静に銃器を確認するのだろうし、殺し屋だって交通事故に見舞われる、ふとした気まぐれで、行ってはならない場所に人は赴いてしまうのだ。

確かにそれらを見ることは面白い。細部だけで成立した殺し屋の姿に喝采を叫ぶ、世界で最も有名な映画賞さえ与えてしまう。
それは、それら突出した細部が、目新しく刺激的な「情報」だからだし、そして映画が排除してきた「情報」を映画の中で見ることが面白いからだ。

そしてそれらの「情報」は例えばトミー・リー・ジョーンズが語る屠殺場の話や、夢の話や、あるいはコインが語る物語によって、もっともらしくつながれていく。
もっともらしい、なんだかコーエン兄弟の「言いたいこと」みたいな、しかし、それは単に「情報」をつなぐ思わせぶりで、ええかっこしいなラインでしかない。

現実に依拠した「情報」は、もっともらしい理屈でつながれながら、決して一つの物語を語ろうとはしない。
私が見たいのは「愛と暴力の国」であって、「愛と暴力」についての情報ではないのだ。

私が見たいのは、メキシコへと逃れる若夫婦の物語だ、初老の銀行強盗と殺し屋との戦いだ、生首を抱え、愛する者を失った者の復讐の物語だ。
いや、すべての映画がペキンパーであれ、シーゲルであれ、アルドリッチであれ、と言いたいのではない。

現実との激しい闘争の末に生み出された様々な細部が、それゆえ「情報」としてではなく私たちの前に立ち上がり、それらは衝突しながら、自身の力によって一つの大きな物語を語りはじめる。
もっともらしい理屈は後からでいい。それはその過程を通じて、自然に語られてくるだろう。

いや、穿った見方をしてるのでもなく、天の邪鬼でもなく、ほんとにつまんなくって、つうか、そこそこ面白いのが実にいやぁな感じでさ、気取りやがってこのへなちょこ野郎が、これがアメリカ産かよ、オスカーかよ、と心底思う。

リメイクを華麗なるディティール(時にはスタイル)だけで描く兄弟、コーエンブラザース。
「ブラッドシンプル」の昔っから、まったく同じ。

兄弟、こんな女の腐ったような映画なんて撮ってんじゃねぇぞ、と。
ちんこがついてるなら思い出せ、あの力強い「ミラーズクロッシング」を。
マシンガンをバリバリいわせて殺し屋たちを力づくで追い出し、逆襲し、物語をぐいとねじ曲げたあのアルバート・フィニーを。どうする兄弟、このままほめ殺しか?