実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 | 映画、その支配の虚しい栄光

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または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(日/190分)
監督・脚本/若松孝二、脚本/掛川正幸、大友麻子、撮影/辻智彦、戸田義久

この映画の殊に前半部分を観て誰もが思い浮かべるであろう「仁義なき戦い」シリーズにおいて、登場人物たちにはすべて実在の名前を模した名がつけられている。
彼らは登場するたびに、その名前と彼が属する暴力組織の名などがテロップとして冠される。

しかし、彼らに付与された固有名詞は、それが「実録」であることをものものしく宣言する以上の意味を有してはおらず、「広能組組長・広能昌三」はあくまでも菅原文太でしかあり得ないし、「村岡組幹部・松永弘」は成田三樹夫でしかない。

一方、「連合赤軍」を「実録」として描くこの映画にあって、登場人物たちには、既に充分すぎる程の名前が冠されている。
「坂口弘」「永田洋子」「森恒夫」「重信房子」「坂東國男」と冠される人物を既に見聞きしているかどうかは問題ではない。
「連合赤軍」という固有名詞が付与する属性を彼らはあらかじめ受容しているのだ。
「連合赤軍」を映画として描くことの困難、半ば伝説化された「連赤」映画の困難の多くはここにあるのかもしれない。

若松孝二が行うのは、彼らにあらかじめ付与された文学的、政治的、あるいはワイドショー的な属性を剥奪し、固有名詞を持たない彼らの裸の姿、生を画面に定着させることだ。

無名の男女優たちが見せる顔の素晴らしさ。「総括」という意味のない言いがかりに、炬燵から顔だけをのぞかせ応える、その無表情の素晴らしさ。
「永田洋子」が見せる裸体の肉、逃げる女性兵士の無防備なロングショット。

そして遠山美枝子(坂井真紀)は自らの手で自らの顔を潰しはじめる。
それは、人間性を剥奪し、革命戦士という全体に個を一体化させようとする作業である。そして映画は、その作業とは真逆に、彼女から「遠山美恵子」という属性をはぎ取り、彼女の裸の生を露呈させる。この二重性を際立たせること、それは「連合赤軍」という固有名詞に対する「映画」の勝利であると思う。

最も素晴らしいのは、「あさま山荘管理人」として、この映画にあって唯一、何ら政治的な属性を与えられていない女性(奥貫薫)の存在だ。彼女は革命戦士に賛同するストックホルム症候群の一人としてはもちろん、社会のメタファー、第三者的なる者のシンボルとしても描かれてはいない。

彼女はただ怯え、恐怖し、無表情に革命戦士に対する。「あさま山荘」に「彼女」だけが存している。彼女はふらりと立ち上がり、坂東國男らの元にゆっくりと歩いていく。カメラはその無防備な生の有り様を、無造作に提出してみせるのだ。このショットは感動的であった。

「あさま山荘への道程」とは、彼らが「映画」の中で人間性を回復する道程に他ならない。
しかし、若松は無常にも、再び、彼らの名前をスクリーンに登場させる。「森恒夫・自殺」「坂口弘・死刑」「永田洋子・死刑」とテロップが流れる。歴史はそして国家は一個の生に名を与えることで、その生を剥奪する、全体に個を埋没させるのだ。