どくとるマンボウ医局記の「便だらけになる女性」 | kyupinの日記 気が向けば更新

どくとるマンボウ医局記の「便だらけになる女性」

昨日、「保護室で便だらけになる人」という記事をアップしている。

書きながら、北杜夫氏の「どくとるマンボウ医局記」に出てくる女性患者を思い出した。過去ログで、高校生の頃、北杜夫氏のほぼ全ての作品を読んだと記載しているが、それは大学2年くらいまでである。

彼は極めて作品が少ないこともあり、読者が新しい作品をいつも待っているような作家だったと思う。(僕も待ちました。笑)

この「どくとるマンボウ医局記」は1992年に中央公論文芸特集で初めて上梓され、その後、1993年に中央公論社から発行されている。1990年代と言えば既に平成の時代。この作品は後年、書店で見つけ買った本である。だから今でも手元にある。

同じ専門でありながら、その分、自分にはインパクトが少ない。読むと結構面白いんだけど。

この医局記には地方の精神病院に飛ばされた時の話が出てくる。その中で「便だらけになる女性」が紹介されている。

「全身便だらけになる人」は、薬も碌にない時代にもいたし、今でもごく一部の人に同じ精神所見がみられる。つまり現代社会では、薬物療法で極端に重い症状は抑制できていると言える。

以下は「どくとるマンボウ医局記」の抜粋。一部あまり関係のない部分は省いている。

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それから、私の孤独な生活が始まった。先輩の医師は多分奥さんと一緒にちょっとした官舎に住み、私は4畳ほどの宿直室で万年宿直を勤めた。ところが、その先輩まですぐに結核となり入院してしまったのである。 

こうなると私1人で70~80人の患者の世話をしなければならない。私がまず患者たちのカルテを調べると、慶応病院の綿密なカルテと違い、1~2週間おきくらいに「スタチオネール(変化なし)」と記されている。これにはあきれかえってしまった。つまりほとんどが末期の分裂病患者であったから、前任の医者たちがろくすっぽ診察もしなかったのであろう。

大部分の患者たちが、施療患者であった。山梨県は貧乏であったから、予算もごく少ない。大学病院ではいくら沢山薬を与えても何とも言われなかったが、個人病院ではあまり高い薬を与えると、健康保険の審査の際にけずられることもあった。兄の病院でもそうであった。

前任の医者たちは病棟を見まわるだけで、ほとんどカルテもつけていなかったようなので、私は憤慨し、まず看護部屋に1人ずつ呼び出してその話を聞くことにした。すると、ほとんどの患者は幻聴もなく妄想もない。こんな患者は入院させておく必要はないと思ったので、私は数名の患者を仮退院させることにした。仮退院とは、いったん家に帰して様子をみるということである。ところが1週間もすると、家族がその患者を連れてきて、

「先生、どうもまだ癒っておりません。やはりずっと入院させておいてください」

と言う。
つまり、病院にいると大人しくしているが、家に帰ると我儘になったり乱暴を働いたりするのだろう。迷惑な患者は永久に入院させておいた方が、自分たちは安心できると思っているのであろう。これにはほとほと私も弱りきってしまった。

クロールプロマジンなどの高い薬を与えようとすると、事務長に、

「こんなに沢山ですか。そんな予算はありません」
と断られてしまう。

それで致し方なく、ほんの1錠くらいを20~30人に飲ませることにした。これでは大海に砂糖をまいて海の水をあまくさせようとするようなものである。癒える者も癒らない。あの時ほど悲しくなったことは私の生涯にあまりない。

それでも医局時代には味わえなかった嬉しいことがかなりあった。

女性病棟の看護婦たちは大変に親切であった。1人の女はまっぱだかになって、自分の尿やら糞やらを身体にぬりたくる。それを叱りもせずに、

「またやりましたね。そんなことをしちゃいけないって、もう何十回となく教えてあげたのに」と言って、2人がかりで水をかけて洗ってやっていた。(中略)

私はこの女性患者のヌードを見ても少しもコーフンはしなかった。あまりにもその顔立ちが醜悪であったからである。しかし、今となってみれば、彼女が哀れでならない。おそらく、一生を糞を塗りたくって過ごしたのではあるまいか。私は彼女に何もしてあげられなかった。全てを優しい看護婦にまかせきりであった。あの糞を舐めておわびしたいが。今更どうしようもないことだ。

仙台のインターンの頃、よく近くの精神病院へ見学に行かされた。1つは脊髄液をとる注射をする練習で、進行性麻痺患者の痴呆化した者はいくら下手糞に針を刺しても痛がらないという理由からである。

その病院には鉄格子の檻のような一室があった。中は藁屑で一杯である。その中から、或いは首、或いは手、或いは足だけ出している患者が十幾人もいたものだ。私はこれではまだピネルが鎖から精神病者を解放する前と同じことだと憤慨し、東京に戻ってから松沢病院に勤めていた祖父紀一の実子の叔父に訴えたところ、

「あれがいちばんいい方法なのだよ。糞やら何やらたれ流す患者には看護人も手がまわらないからね。松沢でもそうしている」

と言われた。今ではさすがにそういうこともなくなっていることだろう。 
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解説
この北杜夫氏の記述は、まだろくに抗精神病薬がなかった頃の、地方の大規模の精神科病院の様子がよくわかる。あの時代、クロルプロマジンすら満足に投薬できず、長く患っていた統合失調症の患者さんたちは、荒廃するがままだったのである。(クロルプロマジンはコントミン、ウインタミンの商品名で今でも使われている)

僕のブログの過去ログでも、理事長から、「セレネースが高価で当時1瓶15万円以上し大切に少量ずつ使ったため、全然効かなかったという話を聞いた」とある。投与量が少なすぎて話にならなかったのである。このようなことは、北杜夫氏も、

これでは大海に砂糖をまいて海の水をあまくさせようとするようなものである。癒える者も癒らない。

と記載している。現代は、統合失調症が軽症化しているので、ここまで荒廃する人は稀だと思われるが、断片的に「過去の精神症状」が垣間見えるといったところかもしれない。

また上の記載で、幻覚も妄想もないが、いざ仮退院させてみると悪く、家族が困って再入院を頼みに来ると言う話も出てくる。

きっと、精神科病院の閉鎖病棟や保護室は、統合失調症の精神を守る面があるのである。まして薬が碌にない時代では閉鎖的施設の意味は大きい。意外だろうが、統合失調症の人は、体調が悪いと自ら保護室入室を希望する人もいるほどである。昨日の、

閉鎖病棟と開放病棟は雲泥の差がある。

とはそういう意味である。本質的に病状が重い人は、精神病院内ではある程度落ち着いているが、家に帰ると忽ち悪化するケースも結構ある。それは家だけではなく、グループホームや老人ホームなどでもそうである。

あとちょっと思ったのだが、僕がこのブログで北杜夫氏の小説風に記載したら、怒り出す読者も結構いるのではないかと。

今はユーモアがユーモアとして伝わりにくく、選べる言葉の範囲も狭くなっている。言葉の検閲の強い時代だからである。実際、昔の「あしたのジョー」のテレビアニメは、禁止用語が多すぎて、そのまま放映できないらしい。

上の記載の中では例えば、

あまりにもその顔立ちが醜悪であったからである。しかし、今となってみれば、彼女が哀れでならない。おそらく、一生を糞を塗りたくって過ごしたのではあるまいか。私は彼女に何もしてあげられなかった。全てを優しい看護婦にまかせきりであった。あの糞を舐めておわびしたいが。今更どうしようもないことだ。

のくだりなどである。特に糞を舐める話などは、「できもしないくせに、そんなことを書くな」と言われそう。また、松沢病院内の叔父とのやりとりも同様である。

この「どくとるマンボウ医局記」は、今から20年前、1990年代の始め頃の作品であり、今よりもこのタイプの批判が出ない時代だったと思う。

参考
畳部屋
座敷牢
盆、正月、ゴールデンウイーク
クラーク勧告
デパスは統合失調症に効くのか?
強烈な印象の夢(2009年1月31日)