お得な記録。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 今日、妻を入院させてきた。けれど、まだなにもわからない。おまけに妻は先日、交通事故にも遭い、過失は相手側が大だけれど、百パーセントとは言えそうになく、その辺で保険屋との折衝などもせざるを得なくなり、気分が忙しない。そういうことと孫悦びは別ごとなので半分はめでたいが、半分はめでたくない。内心はわれわれ夫婦揃って、かなり複雑な状況と言って良いだろう。こういう話しはいくらでも感動的に書けると思うが、そういうことはしないのが境界線型録の主旨なのでやらない。タイトロープのような危うい線上でフラフラしながら笑う。右へ偏っても左へ偏っても奈落の底。引きつった笑いだけが、唯一の救いであり故郷である。なにもかも偏らずにいられない現実にあって、平行均衡垂直を保つ、それが私的ひとつの手段であり、窮極の稽古とも言えるかも知れない。
 なので入院についても記そうかと思っていたけど、これは止めた。それはわれわれ家族だけのことだから、こういう空間にそぐわないから。けれど頭はそういうことで占められているから、別に書きたいこともない。では、しばらく書かずにいようともさっき考えた。けれど、それも止めた。自分とって書くことは食べることのようなことであり、五体六感の健全のためにも可能な限り書く方が良いはずだから。
 アメバで知り合った人たちもずいぶん消えていき寂しいが、私はちょっと書く動機が異なっているようなので平然と続けている。心理分析をする気はないが、あえて記すと、この隔日記は自己表現でも自己主張でもなく、あくまでも記録に過ぎないからだろうと思う。といって、出来事だの考えだのを記すものでもなく、記すという作業そのものが目的であり、内容も表現も評価も大した問題にはならない。記録ではあってもいつか過去の事実を確認するためのものでもなく、記しているそのときの全人格的動きの経験が重要で、記された文が重要なのでもない。書いている自分の中を眺めるためとでも言おうか。そういう意味で比喩すれば、ここに記されている文章は、かなり歪んだ鏡である。至る所凸凹でグチャグチャの画像しか写せないが、マクロの点を見ればくっきりと実像を写す鏡であり、事実よりも事実に近いと言えなくもない。なぜならば、人間はほぼ誰しもが、虚構の世界を自ずと生きているから。故に虚実の境界線上に立って記す、境界線型録というわけだ。
 今日病院の展望室みたいなところで妻と話したが、われわれのこの十数年は不幸の連続だった。兆しがあったころ、育児中であり、娘たちは十代にも至らないころだった。私の仕事は忙しく、いくつかのブランド蘇生などをやっていた。多忙だったが、それは大企業からのオーダーで、ずっと一緒にやってきた小さな企業はちょっと傾きだしていた。まだみんな生きていたが、ポツポツと潰れていった。それは市場経済の必然なので仕方ないが、問題は身内たちもポツポツと消えていったことだった。初めは妻の家族たちが消えていった。世代交代して当然ではあるが、みんなちょっと早かった。一段落したころには、私の仲間的な客たちも全滅状態に近くなっていた。それでも私の仕事には問題なく、娘たちは成人し、就職し、人並みに生意気になった。次女が結婚することになったとき、私は自分の前半の仕事が終わったと思った。経済面の仕事はその辺から急速に傾いていたが、大した問題ではなかった。育児さえ終えれば、後は経済などどうでも良く、住宅ローンと税金を払って、普通にゴハンが食べられればそれで良いので、代筆屋を止めてもかまわないと考えていた。代筆屋は稼げるが、けっこう不快だから、当時は店が上手くいけばそれでいきたかったし、ダメなら庭屋さんか便利屋さんにでもなろうかと考えていた。職を変えるなら、体を使うのが良いなと思っていた。代筆屋というのは頭だけ使うもので、健康に良くない。血行不良で風邪をひきやすくなるから、血行促進できることをやりたいなと。けれど、代筆系というか企み系の依頼が切れずにあったので一昨年まで続けていたのだった。
 一昨年の暮れで代筆屋を止めたが、それは想定内であり私的には大した問題では無かったが、妻にとっては不幸な出来事だったらしく、今日の話の中ではそんな位置付けになっていた気がする。経済面を見れば不幸かも知れないけど、全人格的問題として眺めると、私は幸福なことなのかも知れないという気もする。これが五年後の出来事だったなら不幸としか言えないけど、今はなんでもできる自信も気力も体力も能力もあり、自惚れて言えば私はどんな仕事でも一流の域にいく自信がある。すでに車夫は一人前に近づき、この後は加速度的にスキルアップする。接客術やレトリック能力は断トツなので、たぶん簡単だと思う。難があるとすれば、車はただの道具であり人間の代わりに傷つくものだと考えているので、平気で車をぶつけそうなことをやる点だろうか。車夫元締めはそういうことにうるさくて厭になるが、私は少々凹んでいても気にならないので、深夜の狭隘な道で平気でバックしてボコッとかやり顰蹙を買うが、些末なことである。そんなもの、簡単に修復できるんだから、いくらでもぶつければ良い。生きものにさえぶつけなければ対物なんてどうでも良いのである。なんて考えだから、運転は雑かな。でも、生きものには慎重なので大丈夫。

 何のことを書いていたんだったかまた忘れたが、不幸のことだったかな。そうだ、確か。
 つまり、われわれ夫婦はとっても不幸で、妻は手術入院して、私はアル中の車夫だと言うことである。アル中と車夫という概念は両立しない気がするが、ここに両立している。両立していると言うことは、幸福なことである。ということは、まんざら不幸でもないじゃないか、ということを記そうと考えていたのだろうか。
 幸不幸というのも所詮人間が作りだす幻想で、あまりアテにはならない。私は今もの凄く不幸で、嫌いなことばかりやらざるを得ない。医療対応や税金問題、保険問題などやらざるを得ないことが山積していて気が狂いそうになっている。そういう中で、面白いのは、車夫仕事が一種の逃げ場になり、仕事が愉しい面もある。客を乗せて会話していると、その客を安全に送り届けなければならないという意識も湧き、執務に集中できる。どんなことでも専念できるとき、人間は幸福になる。
 妻もいない家に私は一人暮らしすることになったが、今夜も料理をした。クセで二人分やってしまったが、美味く、満腹し、幸福になった。もちろん焼酎もゴクゴクやり、幸福である。
 ギターも肉弾いた。スローバラードを、いつものように、のんびりやった。心地良かった。心地良いせいか、目にヘンな液体が滲んだ。液体を拭い、また焼酎をゴクゴクやり、日記しようか悩んだ。書きたくない気がしたが、書くことにした。
 そして、こうして書いている。
 こうして書けることは、幸福なことだから。書けなくなったなら、不幸だと私は思うかもしれない。が、まだ書ける。書ける限り、書きたいと思う。書けなくなれば、私というひとつの存在は死ぬ。書かないという選択をするならば死なないが、書けないとなると死である。書かないという選択をする可能性はあるが、まだまだ書けないということにはならない。今でも書きたい欲がムズムズしていて、けれど書く気になれず書かないことがあるが、その欲望は生命力の迸りである。
 いよいよ際どい境界線の上に立っている、と感じている。書きたいことが、無数にある。
 けれど、書けないことも数多ある。
 もしかすると、書けないことの数だけ、書きたい欲望があるのかも知れない。

 そんなことを考えた夜だった。
 書けないことの数だけ、書きたい欲望は増加していく。
 それは、幸か不幸かわからないが、たぶん、人間として不幸なことではないだろう。
 たまに、辛くて辛くて、そのことを語らずにいられない、という人があるが、語らずにいられないのは幸福なことではないか、と思う。語ればなにか悪くはないことが期待されるのだろうから。そんなことと似たようなことではある。

 幸から短い横棒を一本取れば、辛となる。
 漢字というのは、なかなか皮肉なものだけど、辛に一本横棒を突っ込めば幸である。
 横棒を突っ込むためには、思考停止してはダメである。
 書くことは、考えることである。考えることは、幸福なことである。ああ、美味しかったぁと思考停止すれば、横棒がするッと引っこ抜かれるかも知れない。弛みなく淀みなく考えるためには、書くことがいちばん良い刺激である。
 自分が記した文から、私は触発され、不整脈な表現をやるが、それは愉快なことであり、思いがけない自分の思考回路の一面とか横道に気づいたりする。書かなければ知れなかったことが知れると、お得な気分になる。スーパーで一割得するよりも、お得な気がする。
 よって、書く気がしなかった今夜も、得するために書いたのだった。