境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

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 実は昨日、「あれは、まだ?」コールにかこつけて緊急追加オーダーもあり、今朝はその対応をやったが、最近霊感が冴えまくっているので、あっという間に終わった。せっかく労働気分が盛り上がっているのに、遊びにかまけるのも惜しいから、とりあえず爽やかな空気の中を金策に走った。今朝はだいぶ空気が緩んできたかなと思い、いつも着ていくインナーを省いたら、まだ空気は冷たく厳しいライディングになった。しかし、冷たい空気を切り裂いて走る爽快は何物にも代えがたく、金策をすませるとついでに晩ご飯の仕入れに向かい、さらについでにポンコに餌を与えるべくガソリンスタンドに寄ったのだった。まだタンクがスカスカではないが、せっかくだから入れておこうとセルフスタンドに。レギュラー満タンの指定で入れると、一・八五リットル入った。ポンコはうっとりしていた。「ああ、旦那さん、こんなに入れて貰って、たっ、溜まりませんぜ」と。精算用レシートを手に会計に行くと、税込み二百二十四円だった。
 晩ご飯は夫婦二人きりなので、なにも作らず大型スーパーの総菜コーナーで超激安大推奨の春野菜の天ぷら詰め合わせッしかもちゃんとしたエビ天付きッ!というものにした。ほぼ二人分で四百五十八円。妻は夜ほとんど食べないが、私はこれをえぐい野菜は塩で食べ、他は天丼にした。天丼のタレは昨年の今頃仕込んだものがまだ冷蔵庫にあったのでタラタラと垂らした。ああいうタレとかかえしはちゃんと仕込んでおけば、何年でも保つようでありがたいものだ。
 満腹して考えた。
 おれたち夫婦の一人分のおかずの価格は、二百二十九円だな、と。
 ということは、ポンコのおかずより五円高いだけなんだな、と。
 もっともポンコはそれで一週間くらい腹が保つのでリーズナブルだが、なんとなく、五円高かぁと言い表しがたい感慨に耽ったのだった。
 

 午後はもちろん、ギターの型稽古。
 一昨日身体が勝手に思いだした一曲にBlind Boy Fullerのラグタイムのようなものがあり、また忘れてしまわないように何度も繰り返した。これが、ン、チャチャッチャア、チッチッチッィー、テットテトォトーンというやつで、小学校で無理強いされたフォークダンスをちょっと思わせる。多くはロシア民謡みたいな感じで私はコサックダンスなどやって先生から怒られた記憶があるが、アメリカのフォークロアもあったような気もする。といっても、純アメリカ産かはわからないが。歴史の浅い国なので、元はやはり黒人が地元から運んできたものなのだろう。
 

 

 小学生の頃、なぜフォークダンスというのかわからないので友だちに訊いたが、誰も知らなかった。某友人の家に集まり会議を開き検討したが、なかなかこれという答えが出せなかった。中でもっとも有力で説得力があったのは、こんな説だった。
 「フォークで地面をツクツク突っついたり、クリクリ回したりすると、あんな感じの踊りになるからじゃないか」
 オオーッと場が湧いた。採決をとると満場一致で、フォークダンスの名は食器のフォークが踊る由来説が採用となった。もちろん、その説を提唱したのは私である。
 いつだったか、先生にも数人と一緒に訊いたことがあった。「なぜフォークダンスというのですか?」と、すると先生は首を傾げた。
 「んー、詳しくは知らないけどな。そうだなぁ、あれじゃないか。ほら給食でたまにフォークを使うだろ。あれをツンツンしたりする感じで踊るからじゃないかな」
 私の説はついに先生によって学術的に裏付けられたのであった。
 

 今どき知らない人はいないと思うが、あの頃はフォークロアという言葉を知っている日本人の方が少なかったことだろう。当然、われわれにはフォークソングのフォークは、肉とかをツクッと刺すフォークであるという認識であり、なぜフォークソングというのかなんて理由は知らなかった。きっと肉をツクッと刺して食いたい人が歌うものなんだろう、寂しそうな曲が多いから、と思っていた。神田川なんて、風呂上がりにキャベツばかり食っていたと言うから、やっぱ肉が食いたいんだろうなぁと。
 気持ちは良くわかっていた。私も肉が食べたかったから。
 わが家の晩ご飯はたいてい父が夜の仕事に行く前になにか作っておき、子ども三人でそれを食べた。姉たちが高校にもなると姉たちが作ったが、父が作っておいたのは鶏レバーの甘煮か目玉焼き、そこらで買ったコロッケ、マルシンのハンバーグ、得体の知れないごった煮などがほとんどで、毎週それのローテーションだった。それに姉たちは家庭科で習ったらしい粉ふき芋とか野菜炒めなどを追加した。
 が、追加無用のメニューがひとつだけあり、それが食卓に置かれているとわれわれは興奮した。
 なにかというと、豚肉のバター焼きである。
 おッ、肉だぁ、とアングロサクソンみたいに興奮した。
 われわれは天にも舞い上がる心地で台所へフォークを取りに走った。
 そして、ン、チャチャッチャア、チッチッチッィー、テットテトォトーンと、豚ロース肉をツクツクして踊りながら食べたのである。
 やっぱ、フォークダンスしちゃうよなぁと思いつつ。

 

 若干脚色してあるが、実話にかなり近いので嘘ではない。
 ギターでやりたくなるものはフォークロアに近いものばかりで、だいたい一九三〇年代あたりのラグタイム、ブルース、ジャズばかり。他はあまり弾きたいと思わない。アメリカの後期高齢者さんなどが耳にしたらお喜びになりそうな曲ばかりである。
 小学生の頃からアメリカの音楽ばかり聴いていたので私の原点がそこにあるわけで、アメリカの後期高齢者さん方と似たような音の故郷を共有しているのだろうと思う。
 音楽も他の科学技術とか文章も同じように感じるが、やはり進化進歩というのは、かなり逆行している面があるのではないかと。最近のデザインの流れもまったく良いと思わないし、なにもかもほんとうに進んでいるといえるのだろうか?と小首が傾げる。デザインセンスは良くなったという意見も小耳に挟むが、まったくそう感じない。特に目にして違和感があるのは車などだけど、どんどんダサくなっている気がしてならない。
 ギターとか楽器は、その点あまり変化がない。エレキものは奇妙な姿のものもあるが、アコースティックものは、歴史に鍛え上げられた形状や構造があるせいか、あまり変化がない。オベーションやローデンなどは実験的な試みをやって成功したけど、基本的な形状は歴史に培われてきたものと差はあまりないだろう。
 ギターを手にして股に載せると、とても穏やかな気分になる。
 歴史を抱いている安堵というか、なんの不安もなく肉弾ける喜びを感じる。
 奴隷たちが生み為したアメリカのフォークロア的なブルースに上辺は陽気そうな曲が多いのには、ギターに限って言えば、ギターという楽器が有していた穏やかさがミュージシャンたちを安堵させ陽気にさせたせいなのかもしれないな。
 とか、今日も肉弾きつつ夢想したのであった。


 

 

 

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 もう二月も二十三日になっていて、いい加減に深刻なことに着手しないとマズいな、と朝思っていたが、ギター稽古を始めたら忘れてしまった。オマケに仕事依頼まで忘れ果てていて、催促メールまで来てしまった。これは慌てた。さすがに無視はできず、ギターを手放し労働の虫となってやり遂げたのだった。危ないところだった。気の優しい親切な顧客担当さんなのでほんとうに助かる。私が忘却魔であることをとうに見抜いていて、仕上がりが遅いといつもさりげなく「あれは、まだ?」と愛撫するように思いださせてくださる。ありがたいことだ。

 忘却案件は簡単な一部修正だけだったので、小一時間でギター稽古に復帰した。昔の六割くらいまで記憶が再生されたようで、また二曲、カントリー系の入門者がきっとやりそうな素朴な二曲を、指が勝手に弾いた。あのいかにもフォークっぽいカントリーの、トテチンチンー、テトトントーン、テトトトォントテントントンという曲と、フォークダンスなどでも聴かれそうな、ン、チャチャッチャア、チッチッチッィー、テットテトォトーン、テッテコテンテンテコテン、ド、テテコテントットコトントー、ツテテンテトォートテチテトンみたいなやつ。スタンプリングベースの練習用にしつこく弾いていたから体細胞が憶えていたらしい。
 実は体細胞と脳というとヘンで、脳味噌は肉体であり、当然、それを組成しているのも体細胞に他ならないわけだから正確な言い方とはいえない。が、やはり、体細胞が記憶してる、としか思われない。なにしろ、私は頭の中にはほとんど記憶がないような生きものなので。

 

 

 合気道や居合の稽古をしているとはっきり感じるが、型は、脳に記憶されるのではなく、体細胞が記憶するのだと。たぶん型を脳に記憶させても、ほとんど役には立たないだろうと思う。合気道では、型ばかりでは退屈するだろうから、たまに「約束も予告もなく、いきなり掴みかかる」というような稽古もやるが、対処できる人はなかなかいない。全体を想像しても、うちの支部にいる数名程度が対処可能というくらいだろう。
 段位は同じで型も同等にやるけれど、そういう違いが出たりする。その理由は簡単なことで、脳で記憶した型をやる場合、演武的にきちんとやることはできるが、約束なしの場合まったく応用が利かず、お手上げになるということ。
 一方、身体が記憶しているものは、それなりに対応でき、とりあえず逃げる程度のことはできる。
 逃げるなんて武術をやる意味がないじゃないか、などと思うのは大間違いで、パニック状態に陥り身動きすらできなくなるより何万倍も役に立つし、危機脱出の最善の方策は、近寄らないことだが、遭遇してしまったらまず逃れ得ると言うことになる。動きの自由を封じられてしまえば反撃も不可なわけで。

 

 道場にはいろんな人がいるが、けっこう理屈っぽく考える人が多い。こうやるとこうなるはずだからこうで、えーと、こうこうでぇ、とか延々と考えたりして微笑ましいが、あまり役には立たないことだろう。
 といっても、思索しつつ型をなぞるということはなによりも重要で、とにかく常に考えつつ、正確に型をなぞるべきといって良いかな。よく言われるが、型とは書道の楷書の手本なわけで、絶対に曲げてはならないし、正確になぞらなければならない。これは兎に角、圧倒的に重要なことで、考えることを忘れてついボーッとしてやったとしても、ていねいに正確にやりさえすれば良いのである。なぜならば、ていねいに正確に繰り返しやり続ければ、脳味噌はボーッとしていても、身体の細胞が勝手に動作の意味を記憶してくれるから。
 これはかなりややこしい話になるが、型の動作を体細胞が記憶するというわけではなく、どう考えても、型に含まれている技を体細胞が勝手に理解し、そのために必要な反応のバリエーションを経験の中で蓄積し、臨機応変を実現しようとしてくれるらしい、とでも言おうか。
 たまに稽古している人が、「こういう場合は、どうしたら良いんでしょう」と問うと、「どうもこうもメェーーッ、どうしようもないから体細胞に身を預ければ良いのぢゃッ」とかいうが、それがどういうことかサンプルを見ていただくために、予告なく適当にどこからか掴みかかってみてねとかやる。私の場合これだけは自信満々で、殴る蹴るの場合は一撃食らう必要があるが、掴みかかられる分にはほぼ百パーセントに近く浮かせるのでやって見せて自慢しいい気になるのである。
 こういう状況の場合、身体に掴まれた刺激が感知され脳に送り届けられ筋肉に指令が発されて、なんてやっていたら間に合うわけがない。身体が瞬時に反応し対処しない限り無理というもので、身体統治の中枢たる内閣みたいな脳味噌の司令を待っていたのでは夜が明けてしまう。
 

 身体に滲みこませるべきはコラーゲンではないのである。本物の学びは身体にある。
 型稽古に限っていえば、脳の役割は、体細胞の解釈を容易にしてあげるための補足的なヒントを提供するくらいのことだろう。が、これがないと体細胞も判断を誤らないとは限らないわけで、型稽古にとって重要なのは正確に型をなぞりつつ常に考え続けること、と言うことになる。
 もっとも皆さん考え続けていると思うけど、方法を考えていることが多いようで、それでは体細胞の補助にはならない。方法は体細胞が勝手に習得するから、それが必要となる意味の解釈をサポートすることを考えないといけない。となると必要なのは、型の中に秘められている技を解析し、その意義と物理的メカニズムを繙くことといえるかな。こういう知的作業は体細胞は苦手なはずだから、経験を繰り返す中で脳からそういう情報がもたらされることで、体細胞は型が要求している技を身につけていくのだろう。
 現代の生活は鈍感で頭でっかちなので、体細胞もだいぶ潜在能力を衰退させてきたと思うが、これは取り戻そうと思えばいつでも、どんな時代でも可能だろう。二千五百年の時代でも可能だろうし、三千年でも可能だろう。人類が無事に生き存えてさえいられれば。
 

 ギターの場合、細々した動作が多いので大ざっぱきわまりない私は苦手だが、それでも、身体は驚異的とも思える記憶能力を平然と示す。おー、こんないい加減なおれなのに、この身体はまだ憶えていやがったかッ、と心底感動する。
 夕刻、さすがに指の痛みが限界になったので、焼酎を舐めながら、本棚を眺め、かつて愛用していたカントリー・ブルースの入門書が残っていないか、つぶさに点検した。一時、ギターをすべて処分しようと思い、その時、譜面のようなものもほとんど捨ててしまったから、もしかすると資源ゴミとして再生紙になっているのかもしれない。実に間抜けなことだが、であったならば、もはや取り返しはつかない。
 しかし、この身体は譜面なしに、いくつかの記憶を蘇らせた。
 たいへんな記憶容量だと驚く。情緒的細部まで再現するのだから、もしかして、千二百ギガバイトくらい容量があるのではないかと思う。いや、もっとあるかな?
 今年はどうも、こればかりになりそうで、あまり日記に変化がなくなる気もする。その日なんとなく印象に残ったことについて書くのが基本だから、当分同じようなことだらけになってしまうかも。一応、バリエーションは意識してインプロビゼーションするけど、型稽古の意味を考えるだけでも十年くらい似たような日記になって当たり前という気もするから、まあ、良いかな。


 

 

 

 

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 ギターを抱いてやさしく肉弾きつつ、ふと思いだした。
 ギター侍はどこへ行ったのだろうか?と。なぜ売れたのか、ということの方が謎という気もするが、一度は全国区に名が売れたからどこかで呑気に生きているのかな。
 と思っていると、最近ピコ太郎というのも見えなくなってきたな、と思いだした。ま、こちらは全世界に名が売れたから、途上国をどさ回りすれば大富豪も不可能ではないだろうか。頑張ってYouTube成金になって欲しいものだ。儲かりさえすれば、どんな能なしでも成功者なのだから。
 などとうっとり思いつつ、せっせとお稽古していた。

 

 貧しい私だけれど富裕層の知人は少なからずあり、金銭感覚やモラル感覚の他は善良な魂の人々だらけだと知っている。ドケチだけれど優しい人柄で、儲かりそうなことには目がなく行動が速いが、戦略発想というものがないので走り回っていたりする。戦略家というのはあまり走り回ったりせず、カモが土産を運んでくるように仕向けてのんびり待っていたりするはずだから、やはり戦略的頭の持ち主はほとんどいなかったと思う。あえて仕掛けるということも当然戦術としてありだけど、基本的にそのリスクは最小であり、犠牲も極微にできて初めて戦略といえるが、社員を走り回らせスキル向上の機会は極微にして、なんでも良いから客先に行ってへいこらしろっと叫んでいた人もあったかな。
 いや、そういう話をしたいのではなかった。
 また、ギターのことだった。近頃はそれしかやってないので。

 

 この数日は、Martinを床に俯せにして百科事典の布団を載せて就寝していたが、なぜかというと、重みでネックの反りが少しは修正されるのではないかと考えたからだけど、もうひとつ大きな理由があり、ギターにはたいていネックに金属の芯のようなものが通されていて、それを六角レンチで回すとネックの調整ができる構造になっている。で、Martinもレンチでやってみたが、もう限界近いらしいと感じるところまで回してもネックの状態は回復しなかったから、湿気などで反ったのだろうと考えたからだった。
 しかし、三日三晩、百科事典を載せて寝かしても反りは改善されなかった。んー、と悩んだ。
 で、今日決意して行動することにした。
 芯をもうヤバいくらいまで、六角レンチをプライヤーで挟み、ギリギリやってしまおう、と。

 

 すると、驚いたことに、かなりの改善がみられた。百科事典を載せていたのは一ミリくらい弦高が下がればと願ったからだったが、なんと、一・一ミリくらいも弦高が低くなった感じで、テンションも少し柔らかくなったのだった。凄く弾きやすくなって驚いた。こんなに捻って大丈夫かいな、もうそろそろバキッとか叫んでネックがベニョーンと拉げちゃうんじゃないか、と怖々やったが、大正解。四の五の言わずに行動あるのみである。やッ、そうか、おれは走り回ったりしないから貧困まっしぐらなのかッと改めて自覚した次第。ドタバタ走るなんて面倒臭いこと、する気はないけど。このギターの事例のようにたまには、迷うことなく行動に移した方が良いこともある、くらいのことは当然知っている。

 

 ギターばかりではなんだから、過去の仕事のことなど思いだしてみると、根回しはかなり速い方だったろう。根回しというのも闇雲にやれば良いわけではなく、ちゃんと環境整備にならないと無意味なので、達成目的のために最適な環境作りのためにやることになる。そのためには、もちろん、アセスメントが欠かせない。客先ならそこの組織体系を調べ上げ、力関係を割りだし、最高権力者に最短距離のルート作りを目指す。こういうことはけっこう狡賢くないとできないだろう。
 私は場末のフリーとしてやって来て、いまも一応現役のふりをしていられるのは、その手の手口に長けていたからといっても良いかもしれない。通知表は一や二だらけだったくせに、なぜか狡賢いのである。というかプランニングなどやるやつは狡賢くないとできないわけで、ただ生真面目一直線では生き残れないのがこの世界でもある。幸い私は不真面目で狡賢かったのでとりあえず生き残れたのだろうと思う。業界を去った人も多く見てきたが、制作者に限っていえば、みな善良で真面目な人たちだった。が、どこかで通用しなくなり、退場していった。雇われ人の場合、だいたい五十歳くらいがターニングポイントになるらしく、その辺で管理職にならないと、ちょっと寂しい状況になるようだった。それでも勤め人ならクビになりにくいので定年までなにかこそこそやって過ごせるだろうけど、フリーだとそうはいかない。やはり、五十歳あたりから消えていくフリーが急増したなという実感がある。私はたいした実績などなく、若い頃はオシャレ系のことをやって派手目だったけど、独立後は地味系を好み、どちらかというとプランニング先行でやって来たので、それがたまたま幸いしたような気もする。
 今日、昔使っていたタブ譜を探そうと、書籍や書類などを調べていたら、企画書の多さに我ながら驚いたのだった。タブ譜は見つからなかったが、懐かしい企画書についつい見入ってしまい無駄な時間を過ごした。中でも面白かったのは、競合とか仲間企業が作った企画書だった。

 

 企画というのは多種多彩で何でもありだが、驚くのはちっこい代理店とか印刷屋さんの企画書には裏付けがなにもないことが多かったことだった。故にこの企画を推奨するという「故に」が皆無で、なぜかいきなりお奨め案があり見積もりがある。んむー、どこに企画があるんだろう?ビックリしたことが何度もあった。おかげでわれわれにも仕事のお零れが来たけれど、こういう認識レベルで生きているという感覚がどうにも理解しがたい。企画というからには、なにかしら企みがあり、それを実現するための画が描かれていなくては意味がないが、そういうものが一切ない企画書だらけだったり。
 そもそもリサーチがないものが多く、唖然とする。いや、また逆に、リサーチだらけなのに、企画がないというもの凄いサンプルも今日目にしたが、ほとんど詐欺行為で、リサーチ結果は見込み客の瀕死に陥りつつありそうなデータだらけで、今すぐ電話しないと損しますッ的なことが書かれてあったり。最高に笑ったのは二十数年前にほとんどの媒体を手がけていたでっかいところが衰退していたところに、某代理店が勝手に市場調査して企画しましたと売りこみに行ったという企画書で、そのプレゼンを受けた宣伝部長さんから私に電話があり、見て欲しいというので見に行ったやつだった。これが強烈で、五十ページくらいの冊子だったが、あらゆる角度からその企業が瀕死だというデータを抽出しこれでもかッと羅列してあり、最後に、今すぐお電話をッと締められていた。
 「アッハハハ、これ、舐めまくってますよね」と私が言うと、部長さんは「やっぱ、そう思う?」と不安げに問いかけたのだった。
 「そりゃそうでしょ。こんなものリサーチするまでもなくわかりきっていることだらけだし。ただアカウントをうちにもくれというだけのことでしょ」
 「やっぱそうだよな。でも、媒体部の方がさ、これに乗らないとダメだって騒いでいてね」
 「それは、あれでしょ。○○部長が接待かなんか受けているってことでしょ」
 「だから、そういうことは、社内で言っちゃマズいのよ。頼むよ」
 なんてことがあった。

 

 生き馬の目を抜くと広告業界は言われるけど、それ程ともいえず、他業界の方が過激だったりするところを目撃したこともある。
 そんな時、いつも思っていたことがあった。
 ふーん、それが仕事なのかぁ、と。
 仕事って違うんじゃないの、とも思ったり。
 そもそも仕事という言葉がいけないような気がする。仕る事なんて、受け身っぽくて。
 労働というのはやや情けない響きだけれど、労り働く、あるいは働き労るわけで、いくらか人間らしいような気もする。が、単純に、働くというだけの方がマシな気もする。人偏に動くから働くわけで。いや、それでは、なにも考えなくて良いから走り回れッになってしまうかな。
 そろそろ、その辺の労働意識から手入れしていかないと、いくら給金が上がっても、国力は上がることなどないだろう。ただ、金で雇われ消費を愉しみたがる生きものが増えるだけで、本質的な生存の安定とはどういうことかなんて考えたりしないようだし、もちろん答えなんて簡単に出ないから未だに新興宗教だのに嵌まってハリボテの安逸幸福に縋りたがるものもあるわけで、なにひとつ根本は改善などされようがない。救いの道の代表が宗教だったというのに、欲呆けによって滅茶苦茶になってしまったようで、お釈迦様でも草津の湯でも治せない病というか。
 えッ、ということは、人類は、恋をしているということかッ!

 

 かねて懸案のGeorgia On My Mindだが、驚いたことに、テーマ部分はほぼ記憶が蘇り、サビの部分も八割方取り戻せた。
 面白いことに、その間に、すっかり忘れていた他の曲まで、手が勝手に一部を肉弾いたりするようになった。身体の記憶というのは、やはりすばらしいものだ、と感動した。時間をかければタブ譜が見つからなくても、なんとか蘇らせることができるのかもしれないという希望が出てきた。
 型稽古って凄いものだな、と改めて思う。
 記憶は体細胞が受け持ち、脳はもっぱら模索のために働くということだろう。
 脳味噌主導の知的体系は、やがて崩れるのだろうと思う。いまはどうも感性が脳味噌の指令で操作されているような感じだけど、感性は脳味噌とは異なる、身体細胞自体が備えている自律体系に依って司られる存在のような気がする。人間が体細胞の自覚に目覚めたなら、だいぶ変わるような。
 ああ、だから、型稽古好きになってしまうのかな。

 

 

 

 

 

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