今年の武系総括? | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 来週も稽古可と勘違いしていたが、いきなり稽古納めになってしまったため、今夜は今年の武系総括にしよう。
 はっきりわかるのは、感覚がさらに洗練されたということだけ。
 この感覚というのはとてもわかりにくいものだけど、この数年は、他人の身体の中に達する一体感覚の到達距離で判断している。十年くらい前までは肩の辺りで停滞していたが、徐々に到達距離が伸びてきて、関節がかなり軟らかい人でなければ、足まで達した。
 昨日、後輩だけど段位は四段の人と二カ条遊びをやったとき、「肘をこうしてロックして、今肩にいったでしょ。これから後背部におれの体重を乗せて、腰を前に圧すよ」みたいなことをブツブツしつつやったが、その通りになった。
 だいたい、手が離せない現象が発生すると、相手の体重の在処をこの体が完全に把握しているわけで、でない限り、手が離せないという現象は起こりえない。が、この程度は重さの感覚だけでわかるから難しいことではないと思うけど、手が接しているだけの状態で、相手の膝関節の状態や足首関節まで感覚し、操作できるようになりつつあると感じる。
 普通、武系の人たちは自分の身体の操作を一生懸命練るものだけど、私はあまりそういうことをやらない。感覚に任せて動作するだけで、自意識で動くことはほとんどない。感覚が指令すると、ハイハイと動く感じといって良いだろうか。
 相手の身体の中の状態を手の感覚で知るのは、合気という技に不可欠で、それなしには絶対にできない。と断言して良いと思う。が、肘肩まではさして難しいことではなく、きっと誰でもできると思うが、肩を越えて腰や股関節、膝、足首、足底まで行くのはかなり難儀な旅程になるだろうと思う。二十年くらいかかって私はようやく目的地の近くまで来られたようで、今では平然と、これが合気でしょと言いふらしている。ただし、解釈が人それぞれで、触れれば吹っ飛ぶものだと思いこんでいる人もいるし、何人もの敵を一瞬で倒して纏めて積み重ね、指一本で制圧するみたいなことを想像している人もいるらしい。ま、出来なくはなさそうだけど、合気はそういうものとは違うだろう。関節ロックの感覚が進化すれば、数人の相手の関節を固着させて一点に体重を集中させれば、そこを指でツンと抑えるだけで身動き不可にすることはできるはずだけど、実戦ではあまり役に立たなそうではある。触れれば吹っ飛ぶというのもたぶん無くはないと思うが、合気というよりも、発勁だろう。恐らく塩田先生や佐川師が体現していたのがその手の技だと思うけど、合気とはまた別物だろうと思う。私が考えている合気は、あくまでも武田惣角師がやられたと想像される合気であって、他のものではない。憧れたのは武田惣角の合気であり、基本は、誰が掴んでもスルスルと手を上げてしまうという武的トリックである。強さには興味ないので、相手を吹っ飛ばしたいなんて思わないし、敵を次々絡め倒し指一本で制圧してかっかと哄笑したいとも思わない。掴まれても相手を無力化してスルスルと腕を上げてしまう技だけに興味があるので、もうほぼ解明したといって良いだろう。その余録として手が離せないとか、相手の足まで状態を身体で感覚できるということがもたらされただけであり、要は固着体の謎を繙き続けていれば自ずとそうなっていくと言うだけのことに過ぎない。

 この感覚が、自分を新しい生き方へと衝き動かしている面が大きく、他人の身体の中の状態を身体で感覚できると、いろんなことが、相手が無自覚でいることまで、感覚されてくるので、一応無意味ではない特技だから町の人々の役に立てたいなと思うわけだ。そもそも手業の世界というのは体感覚ありきで、資格ありきではないから。知識などいくらあったところで、感覚なしにはなんの役にも立たないと断言しておこう。黄帝内経だの易経を勘違いせずに読めばわかることだろう。陰陽の尺度というのも、要は感覚なわけで、理屈ではない。統計データが揃っていれば理として判断するだろうけど、現世の存在はなにもかも刻々と変化しているのである。データだけに頼って判断していれば誤るわけで、リアルタイムでデータを更新していかない限り正確な判断は不可能になるといえる。気象庁の予測が当たりにくいのもそのせいではないか。黒潮の大蛇行とか騒いでいるけど、そんなことは一・二年前にアホな私でも触れたはずで、予測内の出来事に過ぎない。気候変化を思えばあって当然なわけで、一年前にでも予測を公表していれば今みたいな野菜高騰なんてことも回避できたのかも知れない。あーた、レタスが一玉三百円近くもするってどういうことなのよッ。なにもかも、気象庁のせいじゃないのッと主婦と主夫は憤慨すべきである。ま、私は面倒臭いから憤慨などしないけど、青物野菜がお高くてホント困っちゃうのよねぇ。このままでは、日本人の便秘人口が増えてしまうから、スルスル系の医薬品や健康補助食品の売り上げが上がってしまうかな。株を買っておくと良いかもにぇ。私はもう面倒なので撤退しようと考えているけど。来年は便秘銘柄だッということで。

 いや、武的総括だった。
 もっとも、私的には武という感覚が無く、すべては生存活動という括りで把握してしまうので、武も業も遊も境目がなく、なにもかも一緒くたである。遊びが労働であり、労働がまた武であり、武が遊びである。学びも遊びであり、怠けもまた学びである。
 一途にとりとめもない生活のすべてがある核心の周縁を巡る連関として存在し、行われている、というような状態が私的生活といえるだろうか。なにもかも同質で、遊びであり生業であり学びであり武であり怠惰であり刻苦であり精励である。
 そして、核心にあるのは、愉悦のような感覚だけである。
 愉悦に奉仕しそうにないことは、排除してやらない。
 そのようにして、自覚して以降だけでもかれこれ三十数年生き続けてきたわけで、そういう生活を続けてきた故に、合気にもアクセスできたのではないか、と最近思っている。どう考えても、非常識なくらいの発想の転換ができない限り、理解不可能な技術のようだから。私は非常識なので、おトクだったらしい。常識に縛られて頑張っている人たちは可哀相に。

 もっとも非常識故に生活苦とはいつでも背中合わせだから、悪行に魅入られないための戦いが必要になるが、私は怠けものなのでそういう心配も無い。金に困って強盗するくらいなら生活保護を選択した方がおトクだし。詐欺だけは好きなので、ちょっと惹かれるけど、富豪というのはほぼケチだから、余程確かな裏付けでもない限りドンと大枚はたかないだろう。そのせいで貧富格差が固定してしまったなんて誰でもわかっていることだけど、富に執着するものは絶対に大放出などしない。ドケチだから富んだので、絶対にあり得ないだろう。なんの能も無くても成金というやつらはほぼそうだから。
 いや、武的総括だったか。
 が、これも、私的には武的研究の中で思索し模索し、与作になったことである。こうして与作として木を切りヘイヘイホーといい続けてきたからキタサンブラックは優勝したのである。あ、関係ないかな。

 武術は、この後、さらに自由度を深めていくと思う。これも自分の思考回路と同じで、こうであるべしということを一切設定しないから、いくらでも変化していく。変化が即成長ではあり得ないが、ヘマもまた貴重な経験。ヘマという経験を栄養にするのは、自由な思考のみである。そもそも人間なんて不完全な生きものはヘマだらけで当然なのだから、ヘマをいかに栄養にし得るかということでも学校で教えた方がマシだろう。ヘマしたって挫けるなッなんて励ましたって無意味なんだから、ヘマしてもさ、こう見りゃ笑えるじゃん、笑えるうちはイケるんじゃね、なんて教える教師でも量産すれば、いくらか文科行政がマシになる気がする。少なくとも自殺する若者が大幅減少するんじゃね、と思う。
 政治屋や官僚って自分がやることで庶民の生命を奪いかねないという緊張感なんか無いようだから、いつまで経っても世の中が良くならないなんてあたりまえだろう。おれが社会を変えてやるッなんてヤツにはろくなものはなく、不足しているのは底辺で苦しんでいる人々の思いに意を寄せ、なんとか生存を保とうと願う心意気だろう。我も人、彼も人だと。
 他人の心や身体の中に己の感覚を通し、足の底まで己の身体で感覚すれば、そうそう歪な政治行政などになるわけがない。

 なんて、感じで無理やり武的総括に落としてしまったが、真相だろうと思う。
 他人の身体に接して手業を施すようなものには、そういう感覚が不可欠といって良いだろうと思うが、如何程存在しているだろうか。
 新年からは某地域の整体グループのメンバーになることになり、私は整体ではなく○○○体だけど、ほぼ公的に認知される一員になる。すでに接骨院からも皆伝を得ているので、向かうところ敵なしになっている。問題は、この怪しげなインチキおじさんっぽいやつに体調をなんとかしてもらおうと思う生きものがこの世に存在しているかどうか、ということだけとなった。
 昨夜のプチライブの反響を思うと、音楽による○○○体は成功が約束されているが、なにしろシテが梅太郎という怪しいお爺さんなので、微妙ではある。
 ま、春までは模索を重ねて与作になり、キタサンブラックを目指したい。
 いや、競馬ではなかったか。