学即遊の彼岸から。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 全体経絡資料作りはようやく大詰めになり、後は肝経ひとつ残すばかり。けっこう大変な作業で、もううんざりだが、いくつか面白いことがある。漠然と考えると、人間にとって心臓というのは疎かにできない存在だから、心経はこってりしているだろうと思っていたけど、なんと意外にあっさりしている。肺だってかなり重要だから濃いだろうと思えるが、なんだかあっさりしていた。
 驚くのは、膀胱経の濃さである。このお小水の出口の経脈が、顔の全面から天辺へ登り詰め、それでも飽き足らず背中を駈け下り、足の小指の先っぽまで駈け巡る。なんと強欲な経だッと呆れた。当然経絡上に存在する経穴も数多あり、もうわけがわからなくなる。たかが膀胱と舐めてはならないと言うことか。
 胃経もなかなかの濃さだが、これはわかりやすい。なにしろ食わないと死んでしまうから、胃腸関係はこってりしている気がしていたが、腸はさほどではなく、胃ばかりがコテコテ。膀胱ほどではないが、けっこう資料分析に苦労した。
 それに比べると、大腸小腸は実に素っ気ない感じで、もっとツボを入れてやれよッと思う。胃だって膀胱だって大切だけど、胃から膀胱へ行くまでには小腸も大腸もないと駄目なんだから。小腸大腸あるが故の胃であり膀胱ではないか。胃に液体が流れこめば、ジャーッと膀胱に注ぐわけではないのだッ。と興奮すらしてくる。
 肝臓というのも重要な仕事をしていて、血液をきれいにしてあちこちへ流すわけだけど、これも思いがけず軽い感じで、胆の方がこってりしている。肝胆相照らすというが、経穴数では断然胆の方が優遇されていて意外である。肝ありきで胆は機能しているのかと思うが、なぜか、経絡的には肝より胆らしい。ここらで、簡単みたいな駄洒落を入れると予測されそうだが、入れないのである。肝胆過ぎるから。

 心臓や肺よりも、大腸や小腸の方がこってりしているが、それらよりも、胆嚢がこってりしていて、次いで大腸、小腸かな。腎臓、脾臓、肝臓はそれなりの扱いと感じるし、三焦とか心包というのはややこじつけ的なので軽い扱いで仕方ないと感じるけれど、なぜに、胃と膀胱が抱えこむ経穴が突出して多いのか、不思議な気がする。しかも、数えてないからわからないが、胃よりも膀胱の方が濃い感じがする。人体においてもっとも重視されるべきは、膀胱であるということなのだろうか。あるいは、たまたまその流れの中に、なんとなく使えそうなツボがあっただけなのだろうか。
 こういうことを考えだすと切りがないので突っこむ気はないが、疑問に感じないものだろうか?
 西洋的に見れば、胃や膀胱を取り外しても死にはしないはずだが、心臓や肺はヤバい気がするが、経絡はあっさりしている。あっさりしているけど、実は濃い経穴だらけだということだろうか。
 考えれば考えるほど、謎が深まり、面白い。
 もっとも、この他に奇経八脈なんてのがあり、それでなにかを調整するということらしいから、いろいろ経絡を繋いで不足を補うというのだろう。
 とか想像すると、経絡理論の成り立ちにもちょっと興味深い誤魔化しがあったような気がしてくる。口から出任せが罷り通ったとしても可笑しくないから、だいぶありそうだなと感じる。けれど、その効能はWHOが検証して報告するくらいのものなのだから、もっと詳細に研究されたいところではある。はっきりしているのは、要穴の類は筋肉の起始停止点とか筋から腱に変わる辺りとか、リンパ管や節の通路だったり、血管の流路だったりするわけで、根も葉もないものでないことは確かだろう。しかも、手足の骨格を考えれば、平素われわれが見落としている生体の真実にも着目していたことがわかるから、黄帝内経が成立するころの中国医学者たちは相当に研究熱心だったに違いなく、解剖学的にも生理学的にも西洋医学に劣らないほどの分析を行っていたのだろうと感じる。
 が、いつかの時点で、医学が単なる信仰に変質したのではないだろうか、なんて想像されてくる。
 という点では、やはり西洋医学の方が進歩しているといわざるを得ないか。

 しかし、中国医学の着眼のユニークさには目を瞠るほどのものがあり、人類の宝のひとつといって良い。陰陽五行論という縛りを外して単純化すれば、トリガーポイント万能療術へとブラッシュアップできないことも無い気がする。トリガーポイントというのはマッサージのやつでオーストラリアで言われだしたのだったか忘れたが、経穴というのも病症のトリガーポイントなのだから、数千年早く活用されていたということになる。しかも、中医学は単に筋肉問題とはとらえず、気・血・津液の流通障害と見てソリューション手法を考案した。この着眼は素晴らしいもので、実に理に適っている。人体を活かす存在を知りつくしていたということだろう。この辺りにはアーユルベーダの思想も影響していると思うけど、より科学的合理的に理論化しようとしたのが黄帝内経だったのではないか、と今は感じだした。
 けれど、そのための方法として編みだしたはずの、陰陽五行説に、落とし穴があったのではないか。というのは、それは合理的科学としての性質を有し得ないもので、どうしてもある種の嗅覚が突出した一種の超能力者的天才の存在なしには正確に機能し得ない理論だからではなかったか、なんて推理し出すと面白く横道に逸れていってしまい、ほとんど学習にならない。
 というわけで、本日も終日学習していたが、推理遊びに終始して、なんら身にならなかったのだった。

 でもねぇ、心臓より膀胱が優遇されて良いものか、と思うのだ。
 一生懸命全身に血液を送るためにがんばって労働している心臓よりも、ただ垂れ流すだけの膀胱ではないか。もちろん、その存在のおかげでわれわれはやたら失禁せずにいられるが、なんだか、この世の現実とダブる気がしなくもない。
 またまた国家は増額の予算編成だそうで、先日報道された個人預貯金額がさらに増大ということでドンと大盤振る舞いしたのだろうけど、政治屋の金じゃないのにそれを担保にして借金まみれを続けるというのは狂気としかいいようがない。デフォルトになったら、銀行閉鎖して個人の預貯金を収奪して凌げば良いということかな。安倍政権の凄まじさというか、それを支持する預貯金保有者たちの担保力の愚かしさというか。金というのはあるところにはあるけど、ないところにはないわけで、一部に億という単位が集まっていても、その他大勢のところにはないのだから、税の本旨である再分配をもっと厳密に議論しろよと思うが、できないのが自民党。
 溜まって凝り固まった血を、中医学では瘀血とかいうが、カタカナにするとオケツである。
 オケツとはお尻なわけで、施術的には重要な部位だから舐めてはいけないが、西洋的には鬱血というような財の流通障害があるから、貧富格差が拡大しているなんて当たり前だけど、安倍くんは理解できないのだろうか。今回の拡大予算には、官僚もさすがに苦笑いのような気がするが。選挙がない分、政治屋よりは合理的脳味噌を有しているだろうし、賢いだろうから。

 とか考えると、経絡にも政治的歪んだ力が作用していたのではなかったか、なんてことも思われてくる。
 つまらないミステリーや推理小説を読むより数万倍も面白い遊びができる。
 学ぶこととは、遊ぶことである。
 学習即遊戯。遊戯即生活。学遊即無常。色即是空。空即是色。故以、日々是最善之道場也、というわけである。