裸の苦しみ。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 もはやシワッスも残り八日。明日目覚めたら、なんと一週間しかないと言うことになってしまう。にわかに気忙しくなってきた。いや、一日間違えてるかな。
 というのは、あんちょこ作りがなかなか進まないためである。これがないといい加減なことしかできないから、きちんとした情報を整理して覗き見しやすい形態に整えておこうと考えているが、とにかく情報量が多く、しかも資料もまったく整理整頓されていないものだらけで、遅々として進まない。専門書からして整理が甘く、鵜呑みにできないから困る。まあ、新規参入日を遅らせれば良いだけだけど、あまり遅らせることもできない。生活苦に陥ってしまえば、非正規雇用に身を売らざるを得なくなるので、それはなんとか回避したい。資産形成と無縁で生きてきた自営業者の行きつく果てを正に体現しているみたいで鼻高々になりそうだが、なかなか厳しいものである。要はフリーターなわけで、根無し草だから仕方ないと言えばしかたないことではある。
 けれど、今のところ知恵と発想と感性はあるようなので、いくつかの老後ルートを想定し、検討した結果この道がもっとも将来的可能性を拓けそうだということで着手しだしたが、初動でヘマするとどうしようもなくなるので慎重にあんちょこ作りをしなければならないわけだ。

 しかし、晩酌しながら、ふと、合気稽古に現状を照らしてみると、合気の方はなんらあんちょこ的なものは作らず、いつの間にか技倆が上がっていた。私が二十年前にやっていたことと同等のことができる人はまだ皆無なので、その時期になにかしら飛躍的な錬成があったのだろうと思う。思うのはやはり二カ条による一カ条肘固着の発見だったと感じるが、これを意図的に教練しようとしても不可能だということも数年前にわかった。つまりは、感覚の飛躍がどこかで実現しない限り、肘固着という現実に気がつくことはあり得ないということらしい、と。
 先日も某大の客員教授さんとの対話で記したが、ここでいう感覚というのは、どうも、脊髄反射らしいと近年感じている。接した瞬間に肘固着させるというのは、そうでない限り不可能のはずだから。ということは、私は感覚錬磨という観点で稽古し続けてきたが、実は脊髄反射の錬磨だったのではないか、と思われてきた。
 これはかなり面白いことで、人間としてあり得ないような、脳との訣別を意味する。外界からもたらされた刺激について、脳へ伝達する以前に、脊髄が勝手に判断して反射指令を発するというショートカット反応を身体に養成するわけだ。われらが司令塔たる脳に対してあまりにも失礼ではないか、と思うが、でなければ瞬時に肘固着を作ることなど出来そうにない。
 私的型稽古とは、脳味噌の呪縛から解放されるためのものだったか、なんてことすら思われてくる。
 という点では、確かに、肉体性でも知性ではなく、感性の錬磨ではある。

 などと考えていると、あんちょこ作りも適当で良いかな、なんて気になってきた。なにしろ資料が滅茶苦茶で整理しようがないから。これほどいい加減な世界だったのか、と心底驚いている。いい加減さでは私も負けないが、とにかく人それぞれ過ぎてどうしようもない。
 結局のところ、手業というのは、手感覚の世界だから、この手の性能を信じ、脊髄反射に身をあずければ良いかな、なんて気になってきた。手というのは不思議なもので、他の感覚では感知できないことを瞬時に感覚できたりする。昔から手当てというように、手を当てるだけで身体のなにかが変化したりする。それも、たぶん、手当てするものは何気なくやっているのだと思うが、脊髄が適切な部位へと誘導する指令を発していたりするのではないかと思う。
 娘たちが幼いころ、妻も私も、腹が痛いといえば手を当てて、ポンポンポンポンとか呟くと、またたく間に痛みが消えたものだった。心理的な作用がかなりあると思うけれど、そればかりでもなさそうではある。

 獣などは脳味噌が小さいので、きっと脊髄反射にかなり頼っているのではないかと思われる。脳味噌というのは扱う情報量が多様にして複雑だから、どうしても愚図になる。その点、脊髄反射だと、知性が介在しない分情報分析が単純で、ストレートに指令を発せる。知覚が認識する前に、なにもかも終わっていたりすることだろう。トップアスリートの動作が、獣に近いのがそういうことだろうか。してみると、脳も万能ではないわけで、身体性能から見れば、ただの愚図だったりする。格闘技などでは、邪魔なだけの存在なのかも知れない。
 どんなことでも実のところそんなもので、準備段階は脳が絶対的司令塔だが、実践段階になると、脳は邪魔ものでしか無くなったりする。特に格闘とか武術の世界ではそうだろう。いかに速く脊髄が反射し得るか、だけが問題だったりするわけで。
 もっともこの手のことはもの凄く難解で、絶対速度と相対速度なんていうことや、筋の緊張と弛緩の随意的操作を実現するのはなにかなんてことも問題になるのであまり触れたくないから端折ろう。

 今日も新しいことをやる準備に追われ、朝から晩まで家に引きこもりあれこれやっていた。いくら時間があっても足りない。ずっとやりたかったことなので苦にはならず愉しいけれど、価値を高めるのはどんなことでも大変で、もの凄く疲れる。最近はおかげで午後四時ころには焼酎に手を出す重度のキッチンドランカーになってきた。施術室は禁煙にしたため、いつも台所で学習するから、ついつい焼酎に手がでてしまうのである。なにせ、煙草は現代では健康の最悪の大敵だから、元仕事部屋である施術室から煙草の臭気を一掃しなければならず、消臭力を振り撒き、臭い食いビーズをそこら中においているのである。壁も本棚もヤニ塗れだけど、拭き掃除は面倒臭いから臭いだけ消して誤魔化そうという魂胆ね。部屋では年中空気清浄機が回っているが、これも止めた。埃は吸い取れるが、フィルターを掃除していないので、回すほど煙草臭さが振り撒かれるから。
 できれば煙草好きだけを相手に○○○体をやって生活したいなあと思うが、そうもいかないことだろう。いけば最高で、終日ヤニ塗れでみなさまの健康回復に貢献し、夕暮れになれば焼酎を舐めつつ健康回復に寄与し、客に悪口三昧説教を垂れ、酔いどれて眠るだけ、なんて日常にしたいものである。
 ま、無理かな、現代社会では。どうせ癒しなど求めてくる、いやしない生きものだらけだろうから。真の癒しは苦にあったりするのに、苦から逃れることばかり望む。楽の道とは、苦の道でもあるが、楽とは、裸の苦なのである。裸とは、虚飾のない剥き身。剥き身の苦こそが、裸苦なのである。
 素っ裸の苦の彼岸にこそ、楽は在る。
 んー、なかなかわが合気修行を表すにふさわしいフレーズになったかも知れない。
 軽薄代筆的にやると、素っ裸で苦しもうッ的な感じかな。
 いや、そんなのは書けないか。