ある政治家の妻との秘話。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 昨日のことは忘れてしまっていたが、昼前、また老母から電話が来たので思いだした。昨日は、元日の墓参りの帰りは、どうするか?という問題提起だった。
 「おれは今それどころじゃなくてさ、来年から変身するために忙しいんだよ」
 「ああ、おまえがいつも忙しいのは知ってるけど、お正月だよ。みんなで食事しないとならないだろ」
 という具合に、話しが常に噛み合わない。もう長年付き合っているから慣れているので気にはならないが、ちょっと小腹が立つ。
 「飯なら、またおれんとこで喰えば良いよ。なんか適当に作って、寿司でも買って置くから」
 というと、母の声音が明るくなった。
 「良いのかい、また」
 「良いよ。別に家が減るわけじゃなし。とにかく、おれは忙しいから、正月のことを考えてるヒマなんて無いんだよ。最後の主客が内部分裂して、仕事はあるはずだけど、もううんざりだから職を変えるつもりなんだ。その準備でてんやわんやなんだよ。お染ブラザーズもいなくなって寂しいしな」
 「そうか。ホントだねぇ。お染さんがいなくなってねぇ」
 「そうだ。お染ブラザーズのいない正月なんてなんの価値もないだろ。もう、日本には正月なんて来ないんだッ」
 「えッ、ホントかいッ」
 なんてのは嘘だけど、まあ、われわれ母子の会話は、だいたいそんな感じになる。

 要は菩提寺でご本尊に詣で亡父と亡姉の墓参りの後、いつも血縁揃ってどこかで会食するが、来年はどうするという相談。今後はずっとうちで良いと言ってあるのに、しつこく相談してくる。で、私は邪剣に扱うが、そういう理由を付けないと電話しにくいから老母は常にどうでも良い相談を持ちかけるふりをして電話をかけてくる。なぜならば、私からは滅多に電話しないからだ。この十年の間に私からかけたことは一度くらいしかない気がする。電話嫌いなので、仕事でもプライベートでも、必要外の電話は一切しない。
 が、話し嫌いではなく、誰かと顔を合わせればペチャクチャする。むしろ話し好きだけど、どうも電話という方法、というか、通信という生身ではないコミュニケーションは好きになれず、メールも必要外は使わないし、FBだのにも近寄らない。ブログというのは単なる一方通行として使いやすいから夜毎日記しているが、双方向性はほとんど望まない。リアルでの対面以外のコミュニケーションは信用していないからと言って良いだろうか。なにせ、私ならどんな仮面でも被って人格を誤魔化せるから、こんな怪しいものはない。
 今のところ、老母はまだボケず、オレオレ詐欺にもあっていないが、それは私のおかげと言っても良いだろう。なぜならば、私は十年に一度くらいしか自分から電話しないし、金の無心もしたことがないし、なによりも、亡父と瓜二つの声なのですぐわかるはずだから。感謝してもらわなければならない。

 昨日の電話で年末の老母電話攻撃問題は解決したと安心していたが、なんと、今日昼前に、また奇襲攻撃をしかけてきた。
 「たッ、たいへんなんだよ。今し方北海道から電話があって、良い蟹が入ったからどうですかッていうんだよ。どうしよう、おまえ。タラバとズワイから選べるんだって。八人前くらいで二万いくらなんだよ。ああ、困ったねぇ」
 困ったのはあなただよ、私は思ったが、そんなことは口にしなかった。
 「要らないよ、蟹なんか。食いたきゃ二三人前だけ買えば良いだろ」
 「おまえ、蟹を食べたくないのかい」
 「おれは毛蟹しか食いたくないからな。他は要らないな」
 「でも、みんな食べたいだろう」
 「知らないよ、他のやつのことは。食いたいやつは自分で持ってくりゃ良いんじゃないか。おれはたこ焼きでもあれば充分なんだ、実のところは」
 「そんな、おまえ。仙台から笹蒲鉾も取り寄せてそっちへ送ったんだよ」
 「またかよ、勝手に送るなよ。受け取るのが面倒臭いんだから」
 「そんなこと言ったって、みんな食べたいだろう、笹蒲鉾を」
 「知らないな、他のやつのことは。食いたきゃ自分で持ってくりゃ良いんだよ」
 という感じで、常に会話が噛み合わない。

 老母は昭和九年生まれの八十三歳かな。
 まだ、日本に長屋的情味が横溢していた時代の生まれ育ちといって良いだろう。
 私は昭和三十四年の生まれで、すでに高度経済成長期に突入していたが、ド田舎の長屋で生まれ七歳まで育ったせいか、とっても田舎臭い。が、西洋化を加速させた時代に思春期を過ごしたせいか、嗜好は西洋型である。歌謡曲よりはポップロックであり、演歌よりはブルースである。煮魚よりもステーキや焼き肉を好む。焼き魚は好きだが、とろんと煮たものはあまり好きではない。和食も好きだけど、どちらかというと中華と洋物を好む。これには幼児体験のトラウマがあるせいだろう。なにしろ老母は若いころ料理が下手くそで、なにを食べても不味かったから。なので、私には母の味という記憶は無く、ウゲッという反射だけがある。三十年ほど前からは食えるものが出来るようになったようだけど、たいてい汁の素を使った煮物などで、私が作った方が美味い。
 味覚や嗅覚の記憶というのは強烈で、未だに泥鰌が食えないのも田舎で幼時に目撃してしまった地獄鍋的味噌汁のせいである。あの真っ白い豆腐に突き刺さった泥鰌を目にしたときの衝撃は、今でも鮮烈に脳裡に浮かび上がり、恐怖に戦慄する。しかも近所の人がどこかの田圃で獲ってきたのをそのまま鍋に放りこんだらしく、生臭さが記憶の嗅覚にこびり付き、一生消えそうにない。消臭力を呑みこんでも消せないことだろう。
 生玉子も私は未だに口にできないが、これは学生のころにバイトしていた店での事件のせいである。その頃は準コック長的で、バシバシ料理しまくっていた。が、ある日、ハンバーグランチに付け合わせる玉子をコンコン割って、何十個も大きなプレートに落としていたら、いきなり強烈な悪臭が店中に広がり、度肝を抜かれた。見ると、プレートの上にひとつだけ黄色いはずの黄身が真っ黒のものがあり、完全に腐っていたと判明した。
 ゲゲッヤバイッと慌て、お客さんみなさんに謝罪して店を出て行ってもらい、四時間くらい臨時休業にしたことがあった。この臭いはとにかく強烈で、これまでの人生においてあれほどの悪臭を嗅いだ記憶はない。店員総動員して窓という窓をすべて開放し、空気を動かせるものをなんでも手にしてみんなで仰ぎまくったのだった。
 茹で玉子や目玉焼きは好物だったけど、生玉子を割ることへの恐怖から、私は私生活では数年の間、生卵をコンッと割ることができなかった。仕事では仕方なくやっていたけど、恐くてならなかった。
 どうでも良い話のわりに長いけど、そのように生玉子というものは恐ろしいということを訴えたいのである。

 今年の元日は従兄弟が風邪を患っていてうちに来なかったが、来年はぜひ来させたい。中学を出てからずっとはつりの仕事をやり続け、かなり身体に負担があったようで、この数年、顔を合わせるたびに腰が痛い、足がきかない、膝が曲がらない、と嘆き続けているから、ぜひ、来年最初に私が開発した○○○体の第一号の餌食にしたい。もちろん、まだ業務開始前だから無償奉仕で。できればその前に合気仲間のどなたかにモニタリングして欲しいが、いろいろ難しい面があり、厳しいかも知れないので、せめて従兄弟くらいはゲットしたい。それも難しそうだったら、小さい姉の亭主を無理やり絞めてやろうか。いや、絞めるのではなかった。調えるのだった。
 まさかこういう年末になるとは年の初めは想像もしなかったが、いつ来ても不思議はないとわかっていたのであまり戸惑いはない。気負いもなく、不安もない。代筆屋として独立するころよりも、愉しんでいる気配がある。あのころは自信だけはあったけど客はないので不安だった。今は自信のようなものは別になく、客もないけど、不安がなぜかない。まあ、きつそうなら次を考えれば良いかァくらいのノリで、準備にもけっこう投資しまくった。もう破産寸前なので成功してくれないとヤバいが、ほとんどそういうことを考えることがない。納得レベルに達せるくらいのことはやってきたからだろうか。

 さらに長くなるが、昨日、老母に仕事をそのように変えるつもりだと告げると、たぶん仰天して腰を抜かすのではないかと思っていたが、意外な反応だった。
 「ああ、そうか。おまえがやりたいと思うことをやれば良いよ。生活が厳しくなったら、あたしができることはなんでもやるから」
 親というものは、かく有難いものである。料理は下手でも、こういう点で帳消しできるわけだ。
 わかっているんだな、と思った。結局、私は、自分が好きになれることしかできない生きものだということを。なるほど、亡父と添い遂げただけのことはある、と感心した。
 老いたれども、さすが、本物の政治家の妻である。
 あ、お題は、ちょっと騙しッぽ過ぎたかな。