ハイリーの現代歴史蔑視。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 こんばん婆、ハイリー梅軒です。歯が入ったのであまりりす。老歯科医師店の暖簾をくぐると、老歯科医師は満面の笑みで私を迎えてくれた。
 「やあ、ずいぶん保ちましたねぇ」
 「ええ、一年以上ですよ。やはり私の心がけが良いからですね」
 「いやいや、わたしの腕が良いからでしょう」
 「いやいやいや、やはり、それはユーザーである私があなたの努力を無にしないように心がけ、誠心誠意心を込めて咀嚼したりして生活してきたお陰ですよ」
 「いやいやいやいや、いゃーん」
 などとやっていると終わらなくなるから、端折ろう。

 

 本日は他に大したことをしなかったので、記し得るのはもっぱらそのようなことだけ。昨日までハトレだった私がいかにして一晩でハイリーになり仰せたのか、という程度のことしかない。他にやったのはハイリー記念として帰路にやったいなげやさんでの買い物と、肉豆腐を核とする晩ごはん製造くらいしかない。いや、もうひとつあって、ついにウインドウズのホームネットワーク構築に成功したのだった。が、これは、つまらない。なんか適当に関係しそうなものを弄っていたら、バシッと繋がっただけに過ぎない。ホームネットワークだからインターネットは介していないはずだけど、反応が異様に遅いので驚いた。台所に移した前メイン機のノートから、仕事用のメイン機にしたやつに入り込み、業務上必要とされるデータを弄り放題にできたけど、反応が遅くて話にならない。しかも、プリンターも共有したが、出力まで時間がかかりすぎて、とうてい使う気になれない。んーーー、いまは二十一世紀だよなと、また悩んだ。
 僕らが夢見ていた鉄腕アトムの時代は、もっと便利で快適で平和に思われていたけれど、この現実の二十一世紀はどうにも不便で不快で不穏でしかない。
 そこで、午後は晩ごはん製造の行動計画を練りつつ、何故にこの現実の二十一世紀は、かつて昭和期に夢見ていた二十一世紀と著しく異なるのだろうか?という問題を考えてみた。
 第一の答えは、まだ、鉄腕アトムがいないと言うことである。そして、次は、ウランちゃんもいないという現実である。手塚治虫さんもさぞお嘆きだろう。もっとも、アトムもウランもいなくても嘆かなかったと思うが、人々の生活環境が二十世紀に比べて便利にする可能性だけは加速度的に増大したけれど、それを享受できる人口がほとんど増加せず、むしろ減少傾向にあるのではないか、なんて印象を抱かれたならば、当然、お嘆きになることだろう。
 

 こういう話をやり出すとたいへんだから、近しいところで、豊洲への築地市場移転問題のことにでもしておこうか。
 もちろんすでにご存じの通り、やけにヤバい指数が激増したそうで、皆さんお困りだとか。
 でも、そんなことはどうでも良いようなもので、使用したところで現実的な健康被害はないと専門家が言う通りだろう。問題は、情緒的なところにあり、消費者や業者がヤバいと感じればヤバいわけで、実際はたいした問題などないとわかっていても、気分が良くないから気分が悪いわけで。要は、たいていのことが似たようなものと思うけど、気分が良ければオッケーで、気分が悪ければブーッなわけだ。
 とはいえ、ヒ素なんて耳目にすると、かつて世間を震撼させたヒ素入りカレー事件など想起され、ついでにシロアリ駆除をもっとやらなきゃなどとも想起され、疑われるとヤバいからこんなことはひそひそとやらなくちゃなどと反省されたりもする。
 ヒ素というのはよく知らないけど、なんかヤバいものらしく、人命を奪ったりもするものらしい。が、専門家が言うには、その程度なら地下水だからたいしたことないそうだ。
 けれど、おおーッそれなら安心だ、とはならない時代になってしまっただろう。皆さん、高学歴っぽいから、その程度では安心しきれないだろう。
 そもそも地下水なら上にの方にはあまり影響しないと言っても、質量があれば下に行って土壌から海水に染み出すわけだから、東京湾にはヒ素がひそひそと染みこんでいくと言うことで間違いない。で、そこを競技場として、二〇二〇年にはトライアスロンをやると言うことに疑問を呈するものは一人もいない。慶事に水を差したくないと言うことだろうか。
 あるいは、豊洲の地下水は東京湾には染みださないと言うことなのだろうか?
 もしくは、そんなもの染みだしても海水の方が多いからなんら問題ないということだろうか?
 福一から垂れ流され続けている放射性物質にも同じことを思うけど、自然界には自然に放射性物質が存在しているのだから、その程度の流出したところで地球にはなんら影響ない、ということだろうか?
 自然界に存在するものは自然の仕組みの中でそうなっているからしょうがないと思うけど、福一とか豊洲から垂れ流されるヘンな物質はかつて自然界にはなかったもので人工の産物だから、自然界のヤバい指数がちょっぴり上がって当然ではないか、と。全般的にはたいした影響などないと思うけど、たまたま高濃度の部分があり、そこに人間とか他の生物などがポコッと嵌まったりすれば、ヤバいことが起きたッと新聞やテレビが騒ぐだろう。そういう、たまたまは人知を越えて発生するから、如何ともし難い。
 如何ともし難いことを如何しようなどと考えてもどうしようもない。ということかな。
 ま、それはそれで正解ではある。如何ともし難いことは如何ともし難いのだから。
 が、その如何ともし難いことが、人間がもたらしたのであれば、せいぜい人知の及ぶ範囲のはずだから、如何ともし得るはずなので、如何ともしてもらいたいものではある。
 なぜ、できないのか?といえば、どいつもこいつも欲呆けだから、ということになる。

 諄いけど、欲呆けには、合気は絶対に理解できない。
 なぜならば、それは我を捨てて初めて感得し得る、ヘンな技だから。これだけは、ほぼ断言して良いと思う。技としての細部は自分が生きている間に解明しきれると思えないが、技を発動させるために不可欠な最低限の条件として、我を捨てるに近い心境への到達という点があるのは疑い得ない。
 我を捨てるというと、安直に「無心」とか「無我」の境地とか言われそうだけど、そういうものでもない。私は有心であり有我そのものだけど、合気の扉は拓いたと断言できる。そういうことではないのである。そういうことに拘泥しない自由だけが扉を拓く鍵をもたらすに違いなく、無心だの無我だのとマジで考えているうちは、まだまだ道は遠い。営為的な感性で無心だの無我だのを求めるならば、それは欲に他ならないと言うことに気がつかないと、なかなか先には進めないだろう。
 

 手塚さんが夢想していた二十一世紀には私もとっても共感し、ずっとそんな未来を夢見て生きてきたが、現実の二十一世紀は、そういう世界とは似ても似つかない。人間どもの欲はいよいよ昂進し、悪化の一途を辿っている。せめて人間性を繋ぎ止める最後の波止場であるはずの家族血縁の関係すら、破壊へと向かっている。誰が我が子だの我が親に手をかけたいと思うのだろうか。そのような感性は人間にあるまじきはずだけれど、あることを否定できない時代になった。明らかにあり、蟷螂の他ではあまり聞いたことがないようなおぞましいことが、人間界で行われたりしている。
 こういう時代を着々と育ててきたのが、日本の歴史である。
 最近テレビドラマなどでは信長がどうのこうのと話題のようだけど、そのような歴史の中に今日に至る種子が懐胎され、静かに育まれ、いつの時か萌芽し、二十一世紀に至って、花芽が綻び、開花しつつあるのではないか?なんて分析は耳目に触れたことがない。が、それでしかないだろう。
 腐るための歴史をセッセとコツコツと歩んできたのが、日本であった、なんてことになるとイヤだから、まず口にしたり文にしたりするものはないのだろう。
 が、私は、はっきり、そうだと思っている。
 日本という国は、崩壊への道をずっと、千年も、ゆっくり、着々と歩んできたのだろう、と。
 歴史というのは何にでもあり、時が経てば歴史はできてしまう。
 私もそうだけど、だいたい歴史というのは、綺麗事化したくなる。
 歴史を認識するのは後生の生き物だから、できる限り歴史は綺麗事にしたいではないか。中国の習さんもそうだし、安部くんもそうだろう。でも、表だって記される歴史には実は綺麗事などほとんどなく、たいてい無様だろう。唯一あるとすれば、権力だのとは無関係だった人間たちの、美談くらいだろう。それすらコマーシャリズムのせいで異様に美化されてしまったものもありそうだが、英雄ものよりはいくらかマシだろう。
 

 歴史学者などではないから細かいことはいえないけれど、感性としてはっきり感じる。
 このまま行くと、きっと、ヤバいよなぁと。いまのところは、諸人がただ経済の奴隷になっちゃったんだなと思うくらいで大したことではないけど、これが高じていけば、経済のために生命を抹消するくらいのことは当然という感性になりかねない。これは司法に直結して怖いが、司法を扱うものの感性がそうなれば、あっさり現実となる。政治も行政も同じで、先んじて腐り出したのが行政だったが、角栄以降は政治も腐ったのではないか。戦後が終わったというタイミングだったのかも知れない。が、戦後が終わっては儲かりにくいから、まだ戦後だピョーンとしておこうなんて感じで政治行政の各位がぼろ儲けの構図を大切に守り続けてきたのが昭和だったのだろうか。
 とか想像していると、やはり、日本は崩壊への道を頑張って歩み続けているんだなぁと感じられ、感慨深いものがある。
 

 そこいくと、ハトレからハイリーに転身した私の喜びは、実に清明であり、純粋である。明日にでも、ハイリー梅軒という名刺を作ってご近所さんに配りたいくらいである。
 が、喜びのハイリーにもひとつだけ問題があり、今晩、肉豆腐を作って食ったら、どうも奥歯の噛み合わせがいまいちで、豪産の牛肉がしっかり噛み切れない。それどころか、白滝すら噛み切れないのであった。コッ、これは、コケコッコーッと泣きたかったところだが、これはヤバいと呟いていた。せっかくくっつけていただいたのに噛み合わせがいまいちでは、胃腸のためにもよろしくない。明日はひとつまた老歯科医師さんにお願いして、少しだけ噛み合わせ調節してもらおうかと思う。
 意外に老歯科医師の策略だったのかも知れない。寂しいから、もっと来いよ、と。
 なんであれ、白滝すら噛み切れないのでは胃腸のために良くないから、微調整してもらうしかないだろう。面倒くさいけど、また老歯科医師店に行かざるを得ない。
 とか辟易したふりしつつ、なんだか愉しみだったりするのは、なぜだろうか。
 ああ、人間だからか。
 ハイリーとなったいま、つくづく思うのであった。あ、ハリーは本題と関係ないかな、やっぱ。ま、日記だから良いだろう。