本の始末。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 実は昨日、夕刻早く帰宅した娘に先風呂させ、その間に晩ごはん製造の仕上げをし、湯上がりの娘と二人でごはんを食べ出したら妻が帰宅し、三人揃い踏みになったので、皆で肉豆腐を突きつつ、今日の世相の疎ましさを論っていたら、風呂に入るのをすっかり忘れてしまい、さあ、そろそろ日記して寝ようとなったのだった。入浴もしていない体で老歯科医師店を訪れるなど失礼だろうと、本日の再訪は諦めた。シャワーでも浴びていけば良いだけだけど、寒くて面倒臭いし、日中は仕事部屋の本の分類をやりたかったから、夕刻に明日以降の予約を入れることにした。なにしろ私は臭い生き物なので、一日風呂に入らないと、とんでもない悪臭がする。焼酎の成分は揮発しまくるし、全身の皮膚はニコチンでコーティングされ、内臓はニンニクに冒されている。掻く汗は茶色だし、切り傷から滲む血液まで茶色っぽいのである。そのような臭い生き物が、入浴もせずに、どの面下げて、清潔極まりない老歯科医師店に足を踏み入れることができようか。
 なんて思っていたとき、私の目線の先には、「闘う日本/東日本大震災/1ヵ月の全記録」という産経新聞の特集ムックがあった。それを眺めつつ、私は阪神淡路の時のことを思い出していた。
 夕刻、老歯科医師店へ電話し、涙を零しつつやんごとない事情を説明すると、受け付けてくださった歯科助手っぽい女性は、「では、金曜の午前十時十五分で如何ですか?」と冷たく告げた。ああ、俺のやんごとない事情に耳を傾けてはくれないのか、と絶望しかけたが、金曜ならば木曜日に入浴する機会があるからいけると確信し、「はいはい、そのようにお願いします」と答えていた。
 

 もっとも私は体臭容認派なので、汗臭いくらいほっとけよっと思うけど、現代では一応社会人のふりをしていないとマズいので、他人様を不快にする汚臭をこの身から発散させるわけにはいかない。そんなエチケットなんざ糞食らえ、と思っているけど、なかなか実行はできない。もしも歯医者屋さんにいって、診療椅子に転がり歯科助手のうら若い乙女が椅子をリクライニングさせてリフティングした瞬間、「うッ」と息を詰め、呼吸困難に陥り、真っ赤な顔で走り去ったりしたら申し訳ないではないか。老歯科医師は嗅覚が麻痺している可能性もあるから平気かも知れないが、やはりうら若い助手さんなどには堪えがたいだろう。
 という深い思慮の元に、本日の歯科医師店への再訪は順延したのであった。
 

 終日、仕事部屋と二階の元仕事部屋を往復し、とりあえず文庫と新書の整理をやった。捨てようと思えば半分くらい捨てられるだろうと考えていたが、五分の一も捨てられない。文庫だけで今日は時間切れになりそうなので、新書は明日以降にすると決めたが、文庫の価値を改めて実感した。
 八分の一くらいは私が中学か高校の頃にバイトかパチンコで稼いだ金で購入した本で、手にすると当時の思いが蘇る。ほとんどは坂口安吾、大江健三郎、開高健、大岡昇平、宮沢賢治、井伏鱒二、室生犀星、萩原朔太郎、中原中也、太宰治、夏目漱石、内田百閒、モーム、モーパッサン、シリトー、スタインベック、カミュ、ランボー、リルケ、カフカなどなどという古くさいものだらけだが、開いてしまうとつい数ページ読み耽ってしまい、作業が捗らない。あの頃は本当に金がなかったけど、けっこう買ったもんだな、と感動したり。
 しかし、感慨に耽っている場合ではないので、なんとか捨てようと頑張った。
 が、当時購入した文庫は、一冊も捨てられなかった。
 大学時代に入手した本もダメだった。一冊も捨てられない。
 やっと捨てても良いやと思えるものが現れたのは、二十代以降で、仕事で必要になって購入したものばかりだった。
 仕事の資料として必要を感じれば文庫でなく、一冊数万円の専門書でも買ったけど、仕事が終わってしまえば何の価値も感じられない。その投資がどれほどの売り上げに貢献したか、はまったくわからない。ほとんどは赤字だったのではないかと思う。が、わずか数百文字の代筆のために、何万円を投資するということに意義があった。もちろん文庫本にそんな価額のものは滅多にないが、内容の濃さという点では、ハードカバーの豪華箱入り専門書も文庫本も差などない。
 

 結局、終日文庫を選別し、捨てても良いと選り分けたのは、数冊だけだった。思えば、数年前に同じことをしたので、当然の結果だろう。先に新書をやれば良かった、と後悔した。
 新書というのは、その場限りで役を終えてしまいそうなものが多いから、きっと百冊くらいは捨てられるだろうと期待している。これも数年前に整理したけど、新書というのはしょっちゅう増えていってしまうから、文庫のような寂しい結果にはならないと思う。
 その後は単行本ももう一度やるつもりだけど、これはやはりゼロだろう。もう、要らないものはすべて選別し、そのうち市の図書館にでも送りつけて処分しようと考え階段に積み上げてあり、もう何年も新しい単行本は購入していないから、整理する必要もないだろう。
 雑誌もほとんど買わなくなったので、整理する対象はない。
 まだやるとすれば、辞書、辞典関係で、これは数冊重複しているし、歳時記など五つくらいあるから四つ捨ててもたいして問題ないが、編集が違うとサンプルとして盛り込まれる句が違い、読むと愉しかったりするから、やはり捨てにくい。
 困ったものだ。
 

 選別している気で本を眺めて過ごした一日は、心地良かった。
 捨てるか、捨てないか、悩みつつ数ページ読み、その本を購入した頃の記憶が蘇る。ああ、これは、高二の時、つつじヶ丘のパチンコ屋で打ち止めしたとき買ったんだったな、なんて細かいことまで思い出されたり。
 整理途中、気まぐれに単行本を眺めたら、クレジオの「調書」が目につき、あっと思い出した。クレジオとの出会いも、そういえば、パチンコ屋だったじゃないかッと。これは嘘だと思われそうだが、大学一年の時、昼に立ち食い蕎麦が食べたいので仙川という町のパチンコ屋で打ち止め狙いの作業をし、予定通り打ち止めし七千円くらい稼ぎ、余り玉を交換するために景品コーナーを眺めたら、新潮の「調書」があり、なんとなく良い感じの題なので交換したのだった。まさか「調書」が、パチンコ屋の景品にあるとは思いもよらないことだけど、あったのである。いま思うと、奇跡としか思われない。
 他にパチンコ屋で出会った面白い本は、いがらしさんの「根暗トピア」しかないが、かつて、クレジオもパチンコ屋の景品になっていた時代があったという史実は強烈である。私が井伏さんの次くらいに心酔しているフランスの人の本がまさかパチンコ屋さんにあるなんて、信じがたいではないか。
 が、あったのである。
 現に存在している場と環境の中に想像外の存在があれば驚く。そんな驚きが、私をクレジオ・ファンにさせたのだろうか。
 

 などと思い出に耽りつつ、本の整理をしていたら、また、仕事部屋の床が荒れ模様になってしまった。この調子では、新書をやり出すと、また足の踏み場が消えてしまいそうだから、このくらいでやめておこうかな、とか思ったり。そろそろ、掃除には飽きたし。
 この二年くらいで、がらくた類も書籍類も、かなり減少した。本はゴミにするのは惜しいから、とりあえず片がついたら、市か町の図書館に始末しようと考えている。なので、今のところ、階段の端っこに積み上げられている。
 ゴミにするには惜しいし、けれどブックオフとかに二束三文で売るなんて腹が立つからやりたくない。本を経済にするんじゃねぇよ、と。文化なんだから、経済なんかと無縁の仕組みにしろよ、と。もはや文化ではなくなってしまったけど、やはり文化なのである。青空文庫はありがたいが、どうしても、良い文章は、紙に刷られた状態で読みたい。と、古臭い私は思ってしまう。そういう気持ちこそが、文化ではないか、と。フォントでも活版の活字でも、文字は文字であり、文は文である。が、吸着力が違う。触覚が違う。求める情熱が違うし、出会いの感動が違う。その、総体こそが文化なのだなと思う。
 本を捨てずに文化的存在として活かすには、寄贈くらいしか手はないか。
 といって、寄贈してありがたがられるような蔵書などなく、ただの不要品始末だから、こっそり少しずつ、ご近所さんにバレないようにやろうかな。