美味しい乳糜。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 年明け以降取り立てて書きたいことはないのだが、あえて飛び石のリアルタイム記録を続けているのは、後にこんな事態がありそうな人に臨終とか葬儀とか宗教ということについて考えて欲しいからではある。私はそれらを小馬鹿にして茶化すが、それらが人間にとって欠かせない存在だからといって良い。
 今回、布施などについても書籍やネットで幾らか調べたが、無意味な固定観念が蔓延していて、大衆が自ら首を絞める状況を創出しているのがありありと判る。
 例えば、教えてとか知恵袋とかいうようなサービスサイトに、戒名をもらって支払う布施は幾らが相場か?というような質問が少なからずあるが、先日も書いたけれど、戒名はネーミング商品ではない。本来は、各宗派の僧なり寺なりが、宗徒や檀家に対して仏門としての呼称を授けるようなもので、別に料金はない。日頃の精進に対する評価として付与されるものと考えるべきだろう。
 これは、お茶お花とか舞踊とか武道とかの名取りなどと同じように、のれん分けの謝礼として金を払う感覚と混同されている気がするが、のれん分けの場合、のれんの使用権料的に金を払うのであって、頂戴する名に対して支払うわけではないだろう。フランチャイズ料みたいなもので、その後にビジネスして稼げることを見込み先付けで謝礼を払うような性格だろう。
 が、戒名の場合、その後に収益チャンスがあるわけではない。坊さんだって、この名によって得できるから見返りを寄こしなさいとはいわない。坊さんが宗徒や檀家があの世で迷うことなく成仏してくれるようにとの心を篭めて授けるのが戒名である。それにランクが付くのは、宗徒や檀家としての評価ではあるけれど、ランクにはなんの意味もない。成仏とは、ただ仏となるというひとつの概念があるだけでランクなどない。あなたはAクラスの成仏で、きみはBクラスの成仏ね、などということはない。極楽浄土にまで差別があったなら、この世と変わらないのだし。死後の差別など、極楽と地獄くらいで充分というもの。

 戒名を料金化しているのは、生きている人間の欲に過ぎない。少しでも良いものが欲しい、あちらに見劣りしないものが欲しい、なんとなく凄そうなものが欲しい、と。
 が、宗教の教えの多くは、欲からの離脱を説く。そういう欲から脱して、人間の存在意義や情に照らして、ものごとの本質や因果応報を精確に見透せるようになるのが悟得だろう。
 仏教の場合、仏陀という言葉は「悟った人」なのだから、信仰の目的は悟りにある。悟りにより現世という欲望の地獄を脱することを解脱という。ならば、戒名に料金など想定するのは、はっきりと仏陀の教えに背くことでしかなく、仏教を穢す行為に他ならないということになる。
 こんなことは考えるまでもないわかりきったこと。相場の額を払えない貧しいものは、成仏できないとでも思っているのだろうか? 実のところ、この世で悪を為しにくいのは貧しい暮らしに甘んじて、他を害さずにつましく生きている人たちなのだから、そのような人々の方が成仏という概念に近いだろう。坊さんは、どう考えているのだろうか?
 坊さんたちも生活があるので収入が必要だから布施は多いに越したことはないだろうが、「布施とはあなたの気持ちなので、百円でも千円でも良いのです。ただ、暮らしにゆとりがおありならば、将来にも尊い教えを伝え継ぐためにより多くのお布施をいただけるとありがたいのです」くらいのことを明言しろよ、と思うが。金がないと不安だから、できないのかな。
 そんなことをいってしまうと、経済に余裕があっても百円で済ませようというケチが多いからいわないだけだろう。ということは、すでに信仰も相互不信の関係であり、信仰そのものが無意味となる。
 信仰とは相互不信を脱するためでもある。人間の無力、人間の弱さを理解し、互いに助け合い、支え合っていくことを教えるのが宗教であり、その基本理念が信仰である。
 そもそも成仏ということがよくわからないもので、仏陀はそんなことをいったのだろうか?
 仏陀が説いていたのは、解脱によって現世という地獄を極楽とするべきだということではなかったか? 経典を調べてられないので細かくは書けないが、概ね、そんなとこだろう。死んで成仏するのが重要なのではなく、現世で成仏せよ、と。

 戒名は仏弟子に与えた信徒名が元だろうが、システム的に使われだしたのは中国渡来以降だろう。元祖のれん分け商法のような工夫だったのだろう。けれど、それでも昔は宗徒は生きている内に戒名を授かっていたのだから、基本は仏弟子としての認証名みたいなものだろう。それをなにか成仏とか極楽浄土の入場料みたいに勘違いして真剣に大枚払うのだから不思議でならない。
 仏陀が知ったならたいそう嘆くことだろう。
 坊さんたちは、そういう現実を哀しいとか恥ずかしいとか感じないのだろうか?
 私はそういうのが、一切の私利私欲を捨てて人間の救済に人生を奉じたゴータマ・シッダールタ氏に対して、恥ずかしくてならない。ほとんど侮辱としか思えないから。
 この世の聖域すら、恥を知る、遠慮する、思い遣る、というようなことが理解できなくなっているのはすでに明らかだから、もう、聖域に頼っていてはダメだろう。力も名もない凡夫大衆が自らの頭と心で聖域を取り戻すしかない時代になったということだろう。
 というようなことを、元旦からいろいろやりつつ、いよいよ実感を深めている。
 中世日本における仏教や儒教は学識・知識であり、それを識るものはエリートだった。それを大衆に開放しようとしたのが善導に倣った法然の専修念仏。さらに大衆化を実践したのが親鸞だが、蓮如辺りから勝手に浄土真宗なる宗派としてしまった。親鸞ほど法然の教えに忠実に生きた人間はいないのだから、本来は同じ浄土宗であるべきだろうに。
 人間の些末な欲が、誠実に生きた恩人の思いの本質を、どんどん歪めてきたのが歴史だろうか。
 私は気分的には親鸞が好きだが、基本はゴータマ・ファン。仏陀の教えをコンテンポラリーに解釈して、現世解脱して遊びたい。ちょこちょこ美味しい乳糜など舐めつつ、ケロケロと。