カーテンコール | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 ある日、一人の老婦人と二人の少女を見かけた。
 老婦人と少女たちには面識がないらしいことは、傍目にもわかった。
 一人は八十歳代だろうか。二人は小学低・中学年頃だろう。
 とりたてて彼女たちの間に、なにか出来事が起こったわけではなかった。が、目撃した自分の中に、いつの間にか出来事が起こっていた。

  ◆  ◆  ◆

 老婦人はふと思いついて斜向かいの空き地にはいっていった。
 梅の花のころまでは、確かにそこに杉の板壁の大きな平屋があったはずだった。八十になろうか、自分と同年配らしい老夫婦の閑居になっていたが、いつの間にか消えていた。今頃になると大きな赤や白の花を咲かせていたバラの生け垣も根こそぎなくなり更地になっている。
 以前は門柱にされていたらしい大谷石の塊がふたつ隅に放置してあり、見覚えがあった。
 他に家の名残らしきものは、板切れひとつなかった。
 老婦人は大谷石に腰をおろし、ほんの二月ばかり前まであったはずの景色を頭に蘇らせてみた。晩夏の陽が容赦なく降り注いだが、あまり気にならなかった。知人の家でもないのに、神隠しみたいにふっと消えてしまうと寂しい。
 いずれこの尻の下に小綺麗な家が建ち、昔の人や家の匂いはすっかり消し去られるのだろう。

 腰を落ち着けて休んでいると、ふらりと少女が二人、自転車を押してやって来た。
 道祖神みたいに微動もしない老婦人には目もくれず、自転車に乗る練習をはじめた。
 ひとりは小学校中学年、ひとりは幼稚園の年長か小学校に上がったくらい。姉妹なのだろう、顔形がどことなく印象が似ていて、長めのおかっぱ頭もぷくんとした小鼻の形も相似している。補助輪を外したばかりらしく、及び腰でサドルに跨ると二人とも小枝のような腕がぷるぷる震える。
 先に妹のほうが意を決してペダルに脚をかけ、ぐいと踏みこむと季節外れの蝶みたいに弱々しく五メートルほど進んだ。
 姉も負けまいと漕ぎだす。しかし妹よりもあっけなくあきらめてしまう。
 妹は姉の様子を見て、得意気に、また五メートルほどふらふら進んでみせる。姉も漕ぎだすが、やはりペダルを一回転もさせないで、足を地につけてしまう。
 姉妹を眺めていると、頭の芯が熱っぽくなるようだった。
 調子に乗りすぎたのか、妹が五メートルほど走ると、激しく転倒した。
 姉がびっくりして自転車をおり、駈け寄ろうとした。
 しかし妹はすぐに起きあがり、今にも泣きだしそうな顔をむりやり笑わせてまたサドルを跨いだ。
 老婦人の躰が絡繰り人形みたいに動いていた。
 手はハンドルを握る具合にもたげ、足をしきりに上下させる。尻の下で大谷石がざりざり啼く。
 老婦人の口がぽっと開くと、緩慢な調子の合いの手が零れた。
 ほら、よいしょ、こらしょ、よいしょ、こらしょ。
 姉妹は顎から汗を滴らせて、何度も同じことを繰り返した。
 十分も同じことを繰り返していると、妹のほうがだいぶ慣れてきたらしく、十メートルほどもペダルを漕ぎ続けることができるようになった。
 老婦人はすっかり夢中になって左右の足で空気を蹴った。足を大きく蹴りあげた拍子に大谷石から転げ落ちそうになった。まるで十代の少女のように躰が軽くなっていた。
 姉妹は空き地の片隅で蠢いている道祖神には目もくれず練習し続けた。

 老婦人はいつしか両手を握り合わせ、汗びっしょりになっていた。
 二時間もしないうちに、妹のほうは広い敷地を端から端まで直進できるようになった。
 姉はまだ苦労していた。数メートル進み、いよいよ流れに乗れるかと見ると地に足を着いてしまう。
 老婦人は姉の姿に、胸の中で語りかけた。
 止まっていては駄目。怖がらないで。きっと上手くいくから。
 姉のまえには透明な障壁がある。でも、足を踏みこむだけで崩れてしまう脆い障壁なのだから。
 ハンドルを両手で掴み、右足を踏みこむ。
 その勢いで躰を跳ねあげ、すぐ左のペダルを踏みこむ。
 くいっとペダルが一周し、二・三メートル進んだ。
 乗れた!
 と見ると、腕に力がはいりすぎたのか、前へつんのめるように転倒してしまった。
 姉は、したたかに頬を地面へ打ちつけた。
 妹が驚き、自転車を降りて駈け寄った。
 老婦人も腰が浮いたが、中腰で凝固した。姉のきびしい瞳に、動きを止められた。
 やわらかそうな頬に、血が滲んでいた。石の欠片がそばかすのように貼りついていた。
 姉は手で頬を払い、胸と腹を払い、自転車を起こした。
 妹は圧倒されたように、自分の自転車のところへ戻り、じっと姉を注視した。
 老婦人は姉の姿を見ているのがためらわれ、目を閉じて祈った。
 乗れる。ぜったい、乗れる。乗れますように。そうまでしている少女が乗りこなせないはずがない。誰よりも上手に乗れますように。
 どれほどの時間、祈り続けていたか、老婦人にはわからなかった。照りつける日差しのせいか、少し頭痛を覚えた。晩夏の夕陽は、ことさらきつい。
 いずれ乗りこなせることはわかりきっている。それが今日ではないとしても、明日には乗れるかも知れない。今乗れるかどうかなど、たいした問題ではない。そう頭の中では考えが勝手に湧いてきたが、今、その瞬間に立ち会うことの幸福を思うと、祈ることをやめられなかった。

 そうして目を閉じて祈る内に、ふと、ぱちぱちと小さなたき火のはぜるような音が聞こえるのに気がついた。
 音に誘われて目を開くと、そこには大きな円を描いて自転車を漕ぐ少女がいた。
 姉はついに自転車を征服し、妹が拍手していた。
 老婦人も思わず手を叩き、賞賛の声を発していた。
 「すごい、すごい。お上手、お上手」
 ふって湧いた老婦人の声に、少女たちは驚き、姉も自転車を止めて空き地に立った。
 見られていたと知り、ちょっと臆したのだろう。
 二人の少女は慌てて顔を背けると、並んで自転車を漕ぎ、空き地を出ていった。
 老婦人は腰を伸ばして立ちあがり、カーテンコールを求めるように拍手し続けた。