他人の関係というのは、どうしても気になる。
昨日ぼやいたことも繋がるけれど、交感というのが希薄化している、歪んでいる、ということか。
自分自身はあまり他との繋がりを求める方ではなく、どちらかというと閉じていると思うけど、ブログを書く、ツイッターに手をだすというのは、やはり交感を求める面があるだろう。
よく言われるが、昔は電車やバスに乗っても、誰彼となく言葉を交わした。
今でも皆無ではないけれど、あまりなくなった。
娘たちなどは、電車やバスや町で知らない人から声をかけられると、怖いから無視することもあるという。長女は変態痴漢未遂体験もあり元々潔癖なところがあるので、かなり過敏のようだ。次女はあまり人見知りせず誰とでも気軽に接するけど、やはり町で男などに声をかけられると気持ち悪いから逃げるという。
この傾向は、とても危険なことだろう。
といって、逃げずにとりあえず応じろ、とは言えない。
相手がほとんどの場合は善人だ、とは言えないから。
むしろ下心をもった悪人の方が多いと思われてしまうのが、今日だから。
これは、かなり重大な問題を胎んでいる。
町には、“下心をもった悪人”がうようよしていて、いつも誰かを瞞したり害を為そうと歩きまわっている、とわれわれは思ってしまわざるを得ない社会になった。
たまに何か事件でも起こると、側にいる人たちと言葉を交わすが、何も事件がないと交わすことはほとんどない。
私は田舎での少年期があるせいか、見ず知らずの人と言葉を交わすことにあまり抵抗がない。
町で袖摺り合っただけの人と冗句を交わして笑うこともある。喫煙所などではそういう機会も増えてきた。不健康のマイノリティーソサエティーを可視化して、共感度、親密度を高めるという意味では、分煙促進も悪いばかりではない。
私の田舎には栗原電鉄という単線の電車が通っていて、鉱山から
おもちゃのような車両だった。
足元から油臭い空気が上がってくると、電車に乗った、と実感した。
混んでいることはなかった。乗った人はたいてい皆座っていた。
大人たちは同じ町の住人で顔見知りが多かっただろうが、子どもはほとんど見ず知らずの他人。だけど、きっと側にいる人が話しかけてきた。
「どごさ、行がす?」とか、「なんぼだす?」とか。
飴玉だのゼリービーンズだのをもらったりもした。
毒が入ってないか、などと疑いもせず、われわれは口に入れた。
あれも、日本だったのだな、と、今は遠い彼方となった風景を眺めて思う。