いじめ~有識。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 今日はやけに「いじめ」という単語が耳につき、否応なしに考えさせられた。
 が、考えるほどややこしく、放りだしたくなった。
 本日は機嫌が悪いので、あからさまにお下品な素浪人になるけど、短めにしよう。



 私もいじめられたことはあるし、いじめたこともある。昔から、いじめというのは、子どものスタンダードな遊びだし、自分たちの立ち位置を確かめる意味もあるだろう。それにどこかの時点で歯止めがかからないから、制御すべき境界線が見失われてしまうだけのこと。いじめられて自殺してしまった子は可哀相すぎて親御さんの辛さを思えば胸が痛むばかりだが、犯人はいじめた子どもたちよりも、制御の利かないいじめを止められない社会だろう。
 今は陰湿になったと言うけれど、昔だって陰湿なのもあったのではないか。自分が子どもの頃は、子どもたち自身が制御していた気がする。当時から教師も親も鈍感だったが、子どもたちはまだ敏感だったような気がする。
 陰湿という評価はどの立場から為されるのか、ということも良くわからないが。

 うちの長女も小学校中学年の頃、評判の悪ガキにいじめられているという噂を小耳に挟んだので、子どもの喧嘩に口を出すなと言うけれど、私はその悪ガキを掴まえてひっぱたき、ついでに親も脅したら一発でいじめがなくなった。有識者の皆さんがああだこうだ激論しなくても、いじめなんて始末できるのではないか。
 いじめられている状況に教師も親も気がつかなかったと度々聞くが、気がつけよ、である。子どもの全身の言葉に注意していれば、気がつくに決まっている。残酷に聞こえるかも知れないが、子どもが大事なら気がつけよ、と思ってしまう。先日も、言葉の話で書いたけど、言葉にならない言葉を聞けよ、と思ってしまう。

 文科省のサイトには「いじめ相談」とか言うのがあり、「子どもを守り育てるための体制づくりのための有識者会議」などというのを編成していろいろ検討したり提言したりしている。この有識者会議のくどい名前を目にしただけで、何の役にも立たないなという予感がする。
 有識者会議の提言など見ると、わかりきった当たり前のことが書いてあるだけで、なにが有識なのかさっぱりわからない。いじめ問題なんて、本気で子どものことをなんとかしたいオジサンやオバサンがいれば良いだけで、有識者などなくても解決できるだろう。
 ガキどもを絞めあげていじめをやる奴を洗いだして、親もろとも折檻してやれば良いだけのこと。
 それをやる奴がいないから、どんどん陰湿になって見えるだけ。いじめ対策など、ただの責任転嫁であり、誤魔化しに過ぎないとしか見えない。
 学校だけでは対応しきれないという報告もあったが、それに対応するために学校はある。解決したければ、受験装置化を止めて、道徳をきちんと理解している「まともな教師」を育てて、体罰もオッケーにすればそれで良いだけ。と、思ってしまう。
 教師の仕事は学力向上以上に、子どもたちの心を守ることだろう。それができない教師など、要らないのではないか。

 本気で対策したいなら、文科省の職員なり教育委員会の面々が学校に通い、なまはげの扮装でもして「いじめをしてる悪い子はどこぢゃあ~」とか偽物の包丁を手に巡回なんかした方が効果が上がるのではないか。有識者さん方にそういう仕事を依頼しても楽しいだろう。小難しい顔して議論などしてる暇があるなら、その方がよほど有益ではないか。
 この「有識者会議」というのを目にすると、いつも不思議に思うのだが、どうでも良いような学者とか文化人とか経営者とか芸術家とかが集まるけれど、こと教育に関しては、通学路に住んでいるオバサンとかの方がよほど『有識』だろう。
 経済などもそうそうたる学識経験者や金融専門家が集まったりするけど、中小零細企業の経営者の方が現実的問題については『有識』ではないのか。優れた学識経験者が弱者の立場を自分のことのように感覚できて、問題意識を持てているのならば良いけれど、各界の有識者会議などほとんど役に立っていないだろう。なにをもって『有識』というのだろう。
 この世には『有識』という名のいじめが蔓延しているような気がしなくもない。