稽古は全般的に振り付け指導みたいなものであまり動いてないが、なんだか疲れた。やはり、まだ腰をかばうせいか。女子中学生チームに派手な受身の手本を見せたら、腰にビーンと響き、またヤバい感じになったので、以後は自粛。そうだ、昼飯のことでも記録して寝よう。
とある午後(って今日だが)、台所で。
換気扇のスイッチを入れ煙草を咥えたが、気分は落ち着かなかった。
時刻はすでに午後一時を過ぎていた。もう稽古へ出かけるまで一時間ほどしか残されていなかった。
明日は演武会だし、できれば遅れたくもなかった。教え子が初演武をするので、なんとしても稽古したい。もう還暦を過ぎた教え子で、本人は演武はやりたくないと言っていたが、来月は二段受審のため、館長がぜひやるよう奨めた。律儀な人だから、やる以上は立派に成し遂げたいのだろう、このところ猛稽古を続けてきた。
稽古までの残り時間は約六十分。厳しくはあるが、この難局を乗り越えるのも、人生の醍醐味というもの。絶対に、やってやる。成し遂げてみせる。
そう胸の中で呟き、深く煙を吸いこみ、思い切り吐き出すと、コンロに火を入れた。
五徳の上には、中サイズの中華鍋。鍋を置かずに点火するほどには、まだ惚けてはいない。
しかし、鉄鍋が白い煙を上げるのを待つ内に、また気が急いてきた。
間に合うだろうか。遅れたくはないが、この作業も手を抜くことはできない。
昨夜は体が冷えていたので、風呂は体を温めるだけにして洗髪していなかった。むさ苦しい野郎同士の稽古とは言え、臭気で相手に不快な思いをさせては礼に悖る。武道の稽古は技や身体ばかり鍛錬すればいいと言うものでもない。人と接し相手の身になることも学ぶものだから、そう言うことを疎かにするわけにはいかない。けれど、あと一時間で、すべてやり遂げられるだろうか。
昼食のチャンポン調理、食後の洗い物、お洗濯物の取り入れ、ひげ剃り、歯磨き、洗髪、爪切り、あぁ、モルちゃんに屑野菜もあげないと。気が遠くなるほどの仕事が山積している。
調理の準備が万全だという確信ももてなかった。
朝からなんだかんだと時間に追われていた。
ことに甘藷のジャーキーを作るのに手間取ったのは想定外だった。
前回は馬鈴薯を使ってみたが、茹で加減が難しかった。茹ですぎれば短冊に切っただけで崩れてしまい、乾せば木のように硬くなってしまった。そろそろ高齢期になったシーザーの歯や顎に負担がかかりすぎてはいけない。それで甘藷に変えてみたが、やはり茹で加減に試行錯誤し、なかなか良い具合にいかなかった。あきらめ気分で電子レンジを使ってみると、これが功を奏した。大きさをある程度そろえてやれば茹で加減も均一にいく。文明を信じて初めから試すべきだったと後悔した。
とりあえずシーザーのおやつは無事に作り上げ、今、スティック状になった甘藷のジャーキーは、こちらの苦労も知らず、二階のベランダでのんきに日光浴している。
白い煙が上がった。ついに油を注ぐ時がきた。
煙草をもみ消し、サラダ油を小さじ一杯ほど鍋底へ流しこみ、全体になじませる。
焦るな。内面全域にていねいに行き渡らせないと駄目なのだ。なにしろこの豚バラ肉は、国産黒毛の上物だから、失敗は許されない。火を入れすぎてがりがりにしてしまうなんてヘマは御免蒙りたい。充分熱して、一気に外面を焼き旨味を中に閉じこめなければ。
中華鍋に肉を落とすと、ジュッと小気味良い音が起こった。音が気力を呼び覚ました。
オーケー、これで今日の昼飯は七割方成功と見ていい。
我ながら良い手際だ。
肉と生姜はやはり同時に入れたくはない。大蒜や生姜を先に入れて油に香りをつけたりもするが、生姜は後に限る。まず肉を熱してから刻み生姜を放りこむ方が、香りが生きる気がする。
いよいよ生姜を入れる頃合いになり、用意しておいた刻み生姜の小鉢を取ろうとした時だった。
ない!刻み生姜が、ない。
確かに刻んだはずなのに、見当たらなかった。
しっかり繊細に刻み、煎り胡麻と並べて調理台の上に置いてあったはず。だが、ない。
浅蜊、烏賊、白菜、人参、筍、韮、木耳、椎茸…、具材は完璧にそろっているが、生姜の小鉢が見当たらない。
しかも驚いたことに、煎り胡麻の小鉢も消えている。
なぜだ、なぜこんな信じがたい事態になったのだ!
まずいことになった。
午に妻と犬を店へ送っていく前、足でシーザーをからかいつつ生姜を刻んだつもりでいたが、シーザーと遊ぶのに気を取られて忘れてしまったのか。なにを刻んでいたのか。つねに準備怠りなく生きてきたはずなのに、人生にとんでもない汚点を作ってしまったのか。
もはや残された時間はわずかだった。
刻々と国産黒毛豚肉は色を濃くしていく。
どんどん色を濃くするのは庭の山紅葉や満天星や秦皮だけで充分だ。そうだ、後で記念撮影もしなくては(添付写真参照)。今年は写してなかったな、と思いだした。
が、それどころではなかった。
しょうがないでは済まされない由々しき窮地に立たされていたのだ。
もはや他に方法はなかった。今取り得る選択肢は、ただひとつ。
ええい、ままよ!と意を決し、コンロの火を消える寸前まで弱めると、冷蔵庫へ駆け、最下段の野菜室から生姜の塊をとりだし、猛スピードで三片ばかりスライスして中華鍋に放りこみ、すかさず火勢を上げた。刻んでいる余裕はない。生姜さえあればいいのだ、刻むのは無理だ、あきらめるしかなかったのだ、と自分を励ました。
人生にミステイクも付きもの、悔やむことはない。
結局、最後に美味ければ、それで満足できるのだから。
安息の日は、いつか絶対に来る。
この後、野菜を炒め、烏賊も浅蜊も放りこみ、無事豪華なチャンポン製造に成功、満腹し、ちゃんと稽古にも行けて良かったです、と素直に書けない性。