崇高な儀式。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 爽快な朝からこんな話もなんだけれど、昨日記録したかったこと。

 葬儀に参列すると、毎度、思う。なぜ、こんな儀式をやってるのだろう?と。
 残るものの思いの表現なのだとしたなら、まあ、そんなものかと思うけれど、司会みたいな人が流暢に開式の辞を述べ、坊さんが厳かに入場し、参列者一同低頭して迎え、程なく読経が始まる。読経は宗派によって異なる。参列者には異教の信者もいると思うが、皆、わかりやすいお題目のところで手を合わせたりする。私も真似して手を合わせる。

 ひとつ仏教なのに宗派によって儀式が異なる意味が私にはわからない。
 仏教というのだからお釈迦様の御教えに学び習うのだと思うが、葬儀はお釈迦様がこうするべきですよと教え伝えたものなのだろうか?言いだすと切りがないけど、ここがまったくわからない。
 各宗戴く経典が違うから読む経も違うのだろうが、儀式様式も違うのはなぜなんだろう?みんなお釈迦様の御教えに習う生徒のはずなのに。
 武道や芸道でも祖師から受け継がれる内に分派するが、それは受け継いだものに弟子が工夫を加え変化したものならばしかたないことだけど、宗教もそういうものなんだろうか?宗派の境界線は、あって然りなのだろうか?あり得べきものなんだろうか?

 儀式は滑らかに組み立てられていて、恙なくスケジュール通りに進行した。
 葬儀屋さんのノウハウはたいしたものだと感心するが、その進行もお釈迦様がこうするべしと伝えてくれたものなのだろうか、と考えてしまう。
 読経が始まり、適当な頃合いで司会が焼香を促す。
 あたかもマントラであるかの如く唱和される経の中で、焼香する。
 焼香はだいたい同じスタイルで良いらしいので助かる。香を抓んで眉間に照らし、鉢にくべると、ふわんと薫り高い煙が上がる。あれは好きなので三回と言わず三十回くらいやりたいが、そうもいかない。
 ひと通り儀式を終え、故人の棺に花を添える。
 棺に花を添える時、私も一輪たむけさせてもらった。妻の叔母にあたり、私は直接の縁者ではないが、以前は住まいが近かったのでお世話になった。八十五歳の往生。無言でお礼を述べて花一輪。

 参列した人々の中に一人、車椅子に乗った高齢のご婦人がいた。
 親類縁者ではなく友人らしかった。ひっそりした家族葬で、彼女と私の他は血縁のようだった。
 皆、棺を囲み花を添えていたけれど、車椅子では近づきにくいようで、介助の女性と二人、会場の入り口の傍らで棺を見つめていた。車椅子からでは、故人の姿は目に入らないだろう。
 その内、親類らしい女性が車椅子のお婆さんに気がつき、棺の方へ誘った。
 車椅子が私の前を通過する時、お婆さんの顔がどんどん歪んでいくのがわかった。眼に涙が溢れてきた。
 棺に車椅子が横付けされると、葬儀社の女性から花を数個受け取った。
 車椅子の上で一生けんめい腰を浮かして、なんとか中を覗こうとした。
 棺の縁に左手をかけて、どうにか中を覗きこんだ。花を置こうと右手を伸ばした。
 その指先に目を釘付けされた。
 指先の花が震えていた。故人の足元の方に置かれた花に、ひとしずく、涙の珠が落ちた。
 それは、一連の儀式よりも、崇高な儀式として映った。

 棺は告別式会場から出入り口につけられた霊柩車に移され、参列者たちは係の人に案内され歩いて焼き場へいくと告げられ、ぞろぞろ移動した。徒歩数十秒で焼き場に着いた。隣の建物だった。霊柩車は表の駐車場をぐるっと一回りして到着していた。通夜も告別も火葬も一所でできる、便利で快適なワンストップ斎場。
 帰路、車を走らせながら、なぜなんだろう?と、考え続けていた。