合気談義の夜。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 ようやく帰宅。葬儀の話をしたいが、どうも連日暗い感じなので、国際合気道交流会にしよう。
 葬儀で遅刻したが、16:00無事に参戦した。達人さんとは1年ぶりの再会。
 あ、達人と言ってはまずいかも知れないが、私は国内でこの方ほどの重心感覚が見える人を知らないので、そういう意味では良いだろう。私的認定での達人。
 稽古は海外での稽古風景を再現してもらうようなことをやり、達人さんが居合をやりたいというので少し手の内や刃筋の話や体軸を練るには居合が良い気がするというような話をした。話が見えると言うか通じるというか、重さという共通言語があるので、伝わりやすくてとても心地よい。
 ぎっくりであまり実演はできなかったが、浮きづくりに必須となるくっつく感覚も実体験してもらうと、とても納得されていた。われわれは体捌きや、抜きの力を体験させてもらったりした。良い稽古だった。
 稽古後、鮨屋さんへ一杯やりに行き、武系談義をして遊んだ。ちょっと書けないが、まったく同じ問題意識を持って稽古に取り組んでいたことが、言葉によりさらに明快になった。すでに体で理解していたことだが、嬉しかった。
 さらに、われわれは日本古来の武を継承する心づもりをもつ一人として、武道をやるものはぎっくり腰になるか、という深刻な問題について話し合った。
 と、彼も「ちょっと前になっちゃいましてね、審査直前で門徒は来るので休めないし、コルセットしてやりましたよ」と笑う。われわれは、しばし合気ぎっくり談義で盛り上がった。ぎっくり腰を知るものは、瞬時にして相互理解にいたり大いなる共感を得ると感じた。人類のすべてがぎっくりしたならば、世界平和が訪れるであろう、と思った。あ、またやってしまった。

 浮きは、合気系武術の至宝である。と、私は改めて感じた。
 自分の経験はせいぜい十数年。彼は四十年超。浮き、力と重さの感覚、ぎっくり腰という枢要な点においてわれわれは共通言語を持ち得る。キャリアの違いを超えて、対等に語り合える。もちろん、私は彼のキャリアを尊敬し敬意を払っている。だからこそ、私など赤児同然にしか思えないはずの大ベテランも私を人並みに見て接してくださる。ここが、合気でもあるだろう。
 われわれは、ことさら自分の思料、成果への評価を求めることはない。ただ、やっていること、今まさに思っていることを、楽しく語る。そこに真実が写って見えるから、われわれは盃を交え語り得る。
 「武の海外流出はもう勿体ないから、帰国しましょうよ」と推奨すると、彼は「いや、もう日本には戻りたいと思わない。定年したら、世界を回って、日本には合気道というすばらしい武道があると言うことを伝えて歩きたい」と、前と同じことを仰有った。惜しいものだ。日本は、そこまで魅力を喪失してしまったのかも知れない。
 達人さんは57か58歳。彼を招いてくれた方は65歳。私は51歳。なんだみんなオヤジじゃねぇかと思ってはいけない。オヤジには違いないけれど、合気の前では元気なお子様である。ひとつの歴史的武の至宝の元に跪く信徒たちがキャッキャと合気やぎっくりを語った愉快な夜。

 深夜の帰路、天上には満月があった。
 こんな時間を積み重ねていけるなら、日々は快い。
 また幾分、腰の具合が良くなった。